日本海側は昔は海の貿易ルートが重要だったけど現在は裏となっている

1.鉄道と港湾
日本海側を縦貫する基幹鉄道路線が基本的に完成するのが大正期と遅れていました。まず、山陽線に比べて20年遅れといわれた山陰線は、明治41年に松江まで開通したのにつづいて、大正元年には大社まで、大正10年には西部の浜田まで開通した。

しかし、山陰線の延長ペースは遅く、下関まで届くのは昭和6年のことである。ついで明治32年に富山まで開通していた北陸線が、大正2年、14年ぶりにようやく新潟まで全通し、京阪神と直接結ばれた。これによって貨物輸送は海運から鉄道へと急速に移行していく。日本海縦貫線の構想は日露戦争後に具体化がすすみ、羽越線は大正3年に村上まで、同13年には全線開通する。裏日本にもようやく長距離鉄道輸送の時代が訪れたわけである。いっそう夢を膨らませたのが日本海対岸への航路であった。

横浜・函館・長崎・神戸とともに幕末開五港の一つであった新潟港は、その後土砂の流積がはなはだしく、昔年の面影をなくしたまま推移していた。明治2年、政府が新潟港修築を決めたものの実現しなかった。明治24年に再燃、国・県・市の負担で工事開始、明治29年に終了したが、機能は不十分なままであった。

明治31年「新潟港の輸出入」を報じた『新潟新聞』は、明治29年の実績が、横浜の1500分の1、神戸の1000分の1、函館に比べてさえ20分の1に過ぎないこと、その原因が「新潟港が今日の落莫にもし逢着せるもの港湾の不完全若くは輸出品の寡少」にあると断じた。結局、大正3年、新潟市は独力で修築工事を開始、3年後にようやく国も乗り出し、国・県・市の三分の一ずつの負担で国の直営工事として本格的な工事がはじまった。起工式で北川新潟県知事は、「裏日本の交通を司命し皆日に催促する繁栄を見る」と積年の期待を表明した。同港の修築工事は大正15年に竣工している。

開港五港に次いで明治22年に特別輸出港に指定された10港のなかに、日本海岸では伏木港があった。同港は明治32年に敦賀港とともに開港場に指定された。藤井能三は明治24年の「伏木築港論」でシベリア鉄道完成後の欧亜連絡航路を予測この日本とヨーロッパ諸国を10日前後で結ぶ連絡の拠点港は伏木以外にない、唯一の競争相手新潟港は東に偏し過ぎている、と説いている。

以後、「港といっても名ばかり」の新潟港に対抗して拠点港の位置を獲得すべく、すさまじい努力がつづけられた。しかし、日露戦争前に十数万円を記録した対外貿易額はその後もあまり伸びなかった。むしろ伏木は内国貿易が中心で、大正3年の輪移出額の84.1%が北海道向け、対外貿易額は全体の6.4%にとどまっていた。伏木港の場合、後述する伏木町の工業化の進展にともなう内国貿易の活性化の方がめざましかったのである。大正10年、同港が第二種重要港湾に指定されたのをきっかけに、大正13年より拡築期成同盟が結成され、8ヵ年計画で本格的国際港をめざしたが、竣工したのは昭和2年のことであった。

2.海運時代の日本海
近代以前においては、人びとの交流に「海上の道」が大きな役割を果たしていたこと、とりわけ日本海貿易が重要な役割を果たしていたことはつとに知られている。出雲神話の国引き説話や因幡の白兎の説話には越の国が出てくる。

山陰にとって日本海は、朝鮮半島や北九州・北陸に通ずる重要な交通ルートであった。そして出雲には方墳や前方後方墳に象徴される、畿内とも北九州とも異なる文化が育ち、日本海ルートに乗って北陸に伝わった。すでに5~6世紀には若狭・越前・能登の首長たちは朝鮮半島とも密接な交流をもっていた。日本にとって外国といえば中国や朝鮮で、そのルートを通じて文物が輸入された時代には、日本海は決して「裏」ではなかった。

日本海交通の繁栄を端的に示すのが、江戸時代から明治初期にかけて北海道から大坂までを航行する北前船だった。幕末から明治にかけての時期には、「離れ島」の隠岐大山脇港にも毎年数十隻の北前船が風待ちに入港している。

最大級のいわゆる「千石船」は一度に馬1000頭分以上の荷を運ぶ。物流のメインルートは陸ではなく海だった。北前船は天下の台所大坂と北海道・日本海沿岸各地とを結ぶ、当時の物流の幹線航路であった。能登半島の五十洲神社には、当地に寄港していた備前や堺の商人たちの寄進した石灯籠がある。江差の厳島神社には、加賀橋立村の船頭たちが奉納した石の鳥居が建っている。

海の道を通じて人びとの心が結ばれていた。熊本に生まれたといわれるハイヤ節が対馬海流の航路に乗って浜田節・出雲節となり、白峰ハイヤから佐渡おけさとなり、庄内はえやからさらに津軽アイヤと伝播変容していくさま、さらには信濃追分から海の歌に生まれ変わった越後追分が北上して江差追分・松前追分となり、逆に本州に持ち込まれて秋田船方節や加賀の山中節に遭難の恐れも大きかったこの時代、船主たちは北方で物資を買いとって、上方で売りさばくという方法、すなわち運賃稼ぎではなく地域間価格差で巨利を得た。

もっとも活躍かめざましかったのが若狭から加賀にかけての地域で、冒険心を発揮して「一航海千両のもうけ」といわれる利鞘稼ぎに精を出し、銭屋五兵衛をはじめ巨万の富を蓄積する者が輩出した。加賀市橋立町の「北前船の里資料館」になっている酒谷長平家の建物は、日本一の大地主酒田の本間家と比較して「決してひけをとらない」と、『日本海繁盛記』の著者高田宏氏はいう。酒谷家は、橋立の北前船主のうちでは中の上クラスだという。江戸時代、大聖寺藩は北前船主から巨額の運上金・冥加金を出させ、また借金をしていた。藩財政の建て直しをになわされることが多かった橋立最大の船主、久保彦兵衛家には藩主がしばしば訪れていたという。

豊かな生活を送っていたのは、冒険に成功した一部船主だけではなかった。近年の網野善彦氏たちによる奥能登、時国家調査は、離島や陸の孤島とみられていた半島およびそこに住む人びとが、想像と異なって、日本海を利用してサハリン・北海道から大坂にいたるまで広範囲に活発な活動を展開し、農業によらず豊かな生活を営んでいたことをあきらかにした。

江戸時代以降、能登をはじめ、北陸一帯からはパイオニアたちが続々と北海道に乗り込んでいた。網野氏は陸上交通が日本の交通体系の中心になったのは、律令国家と近代国家の各百年間に過ぎず、大部分の時期は海と川が中心だったとするが、島や半島が「離れ島」「陸の孤島」となるのは近代のことといってよいだろう。







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