裏日本ってどこをさすか知ってる?高度成長期時代の言葉

裏日本について
1.「裏日本」について
裏日本とは、まさに日本の20世紀を代表するようなキーワードです。日本の歴史のなかで、20世紀がかつてない生産力主義の時代であり、中央集権的経済効率主義の時代だったからです。

そして「裏」を必要とする「表」中心の経済効率性の論理は、いま問い直されようとしている。たとえば、新潟県巻町の原発問題をめぐる住民投票の結果がそれを象徴している。「裏」が「表」化をめざすのではなく、「表」のあり方自身を問う動きが現実にあらわれている。また、「環日本海構想」といったグローバルな動きもその文脈で考える必要があろう。

ともあれ、「裏日本」の歴史の検討は、今日なおつづく、経済性=利潤・効率最優先の日本の近代化を相対化する確かな視座を提供するものである。生産力至上主義の時代を超えようとするいま、さらにはアジアのなかの日本という位置づけが深まるいま、日本の近代化を、「裏」と「表」を一体としてとらえることが、「裏」の人にも「表」の人にも求められていると思う。

このように考えてきたとき、あらためて「裏日本」とはどこをさすのか、確認しておく必要がある。自然地理的概念はひとまずおき、文献をしらべていくと、社会文化的概念としては、「本州の、日本海に臨む一帯の地」では決して十分ではない。

主として北陸ないし山陰が念頭におかれていることが明瞭なのである。裏日本という言葉が、頻繁に使われた時代、つまり「表」と「裏」の格差が顕在化した二つの時代―資本主義確立期の90年代と経済高度成長期の1960年代をとりあげてみよう。

地理学者の塚越芳太郎『地理と人事』は、日本を「大陸的日本」と「海洋的日本」に二分して、前者は「北日本及び裏日本の大部分」、後者は「南日本及び表日本の大部分」からなるとした。山崎直方・佐藤伝蔵編『大日本地誌』で、「裏日本」という言葉が用いられているのは「北陸」の巻である。大正に入って、久米邦武著『裏日本』が出版されるが、これは山陰地方について論じたものである。

戦後はどうか。池田勇人首相が所得倍増計画を掲げて登場した1960年、同計画のためにつくられた産業立地委員会は、経済審議会への答申を出した。そこでは四大工業地帯(東京・名古屋・大阪・北九州)をつらねるベルト状地帯を工業立地の中心とし、ベルト地帯の中間点(岡山・広島・沼津・豊橋)などに中規模の新工業地帯をつくるとしたあと、「北海道(札幌・苫小牧)、東北(仙台・塩釜)、裏日本(新潟・高岡)の各地方に大工業地帯をつくる。これは所得倍増計画の後期において着手する」と述べていた。

これに対して、社会党は、北海道・東北そして「裏日本」は後回しにされており、「これでは東北、裏日本、南九州は一層とり残される」と批判した(『毎日新聞」)。

高度成長期の60年代は、「表日本」と「裏日本」の格差が顕在化していった時代であり、この報告は重大な問題を含んでいるが、それはともかく、ここで注目したいのは「裏日本」の範囲である。東北は一つの地域として把握され、「裏日本」と区別されている。

やはり、「裏日本」は北陸、さらには山陰なのである。つまり、「表日本」なしに「裏日本」を概念することはできないし、逆に「裏日本」なしに「表日本」はありえなかった。したがって、「裏日本」は停滞的で自己完結的な社会ではなく、競争場裡に開放されて一定の変化発展を促迫される状況下にあり、「裏日本」観念はそのような状況下でのみずからの条件の不利性に想いをいたしたときに出てくる生臭さをもった観念である。

そして、これまでのところ、「裏日本」諸地域は「表日本」との対応において共通性を有する地帯であっても、必ずしも一つのまとまりをもった地域とはいいがたい。一体性や連帯があるわけではなく、前近代においては相互に「くに」として分立しており、近代に入っても各県ごとに個々に東京・大阪を向き、「表日本」を向き、そしてある時期には日本海の対岸を向いて相互に先を争って力を減殺してさえきた。ひとまず、このようなかたちで「裏日本」のイメージを示し、くわしくは行論の中で説明していきたい。

「裏日本」という言葉は、そこに住む人びとにとって、たしかにあまり愉快なものではない。だが、言い換えてすむという問題でないことも事実だ。それだけの実態を持つ言葉だったからであり、しかも依然として解決されたわけではないのである。したがって史用語として「裏日本」という言葉を使用する。

なお、NHKは「裏日本」の呼称をやめ、より無色な言葉として「日本海側」に換えたことを述べたが、実は「日本海」という言葉も問題をはらんでいる。「環日本海構想」もいわれているときなので、このことについても述べておきたい。

日本海という呼称の問題性を指摘したのは韓国慶北大学金泳鎬氏で、89年に新潟で開かれた日本平和学会のシンポジウムにおいてであった。同氏は、16世紀の西洋製地図の三分の二は朝鮮海とされており、明治初期の日本政府の公式地図も朝鮮海となっていたのが、朝鮮の植民地化以降に日本海という名称が普及したことなどを指摘して、「日本海」という呼称に疑問を呈し、「青海」といった新しい名前で呼ぶことを提起した。

一方青山宏夫氏は、日本海という呼称のはじまりは、1602年にマテオ・リッチが中国で作成した地図『坤輿万国全図』であるとした1942年の吉村信吉論文を紹介しつつ、呼称の成立過程をあきらかにした(「日本海という呼称の成立と展開」)。

青山氏は同時に、日本海という呼称はそれによって定着したわけではなく、明治に入って「近代国家」成立とともに政府や軍の手によって定着していったことも指摘している。私はこの呼称の定着過程が日本の国民国家形成過程・帝国主義化過程と重複していることを重視し、また準閉鎖的海域に一国の名前を付するのは適当でないという点で金泳鎬氏と見解を同じくするが、政府などが上から新しい名前にとりかえるのでなく、こうした歴史を考えながら、環日本海地域住民の総意にもとづいて新しい名前を決めていくのがよいと考えている。


2.都市化の流れと人口流出
資本主義化のもう一つの側面は労働力の蓄積=労働者の形成である。また、工業化は都市化でもある。日本海側における資本主義化・工業化の遅れを人口面から示すものとして、まず都市形成の遅れをあげることができる。これらを統計的に確認しておこう。

幕藩体制下の下町をはじめとする諸都市は、維新後、商工業都市へと脱皮して発展する。都市人口の伸びは、資本主義化・工業化を反映しているとみてよいだろう。

明治9年の段階では、百万石都市金沢が東京・大阪・京都・名古屋に次ぐ都市であったこと、北陸・山陰の6つの県庁所在地がすべて上位30都市の中に入っていることなど、表日本時代の今日に住むわれわれからみれば意外に思われよう。

しかし、太平洋岸を中心とする工業化の進展につれて、北陸・山陰のランクは下がっていく。明治期に山陰2都市(鳥取・松江)が表から消え、大正9年になると本州日本海側では金沢・新潟が残っているだけになる。替わって明治前期にはみられなかった、呉・横須賀・佐世保・門司・豊橋といった太平洋ベルト地帯の新興工業都市や、「植民都市」札幌・小樽が名をつらねる。五指に数えられていた金沢も2位まで下降する。

太平洋ベルト地帯の工業都市の形成は、まず周辺農村労働力を吸引したものであるが、東京・大阪などの大都市は府県を超えて農村から大量に人口を吸引して膨張した。戊辰戦争後、50万人前後に減少した帝都東京の人口は、その後急増して1000万都市になるが、その多くが農村部から吸引したものであることは多言を要さないだろう。

大規模区分だった明治13年の人口は石川県(富山県・福井県の越前を含む)が183万人で全国第一位、155万人の新潟県が第2位、104万人の島根県(鳥取県を含む)も東京府を凌いでいた。府県区分が確定した明治16年以降は新潟県が全国一の人口大県だったが、明治26年に現住人口で東京に抜かれる。府県区分は頻繁に変わるが、明治10年代までは日本海側も太平洋側都市部もおよそ10%あまりの伸びを記録しており、大きな相違はない。

ところが、明治後半および大正期にかけて、太平洋側四大工業地帯の人口が2倍前後に急増しているのに対し、北陸・山陰では、鳥取・新潟を除いてほとんど伸びていない。東北が1.5倍前後の伸びを示しているのと比べても際立っている。これは、自然増が社会減によって相殺される状態にあることを示していよう。

東北がなお土地と人の結合が強固で小宇宙性が強かったこの時代にあって、山の向こうの「表」の鼓動が伝わってくる裏日本一帯は、労働力の最大のプールであった。塚越芳太郎『地理と人事』は、「人口増加の大なるは表日本たる太平洋岸及び其西南面の地方」であり「人口増加の最も少なきは日本海岸の北陸、山陰地方」としており、「国民的波動」が日本海岸から太平洋岸へと向かっていると指摘している。日本海側における都市形成=工業化の立ちおくれもあって、裏日本の農村から表日本の都市部へと人口が移転する構造が形成されたのである。







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