日本語の表現する言葉の生い立ちをひも解くと面白い│な~わ行

なまめかしい
平安時代の宮廷で最も高い美の範晴の一つとしての位置を占めていたのが、「なまめかしさ」である。「なまめかしい」とは、今日では、妖艶であるとか、あだっぽいとか、色めかしいとかいう意味に使われている。そして、時にはそれにいくらか悪い意味合いを持たせて使われることすらある。しかし、この言葉が生まれた平安宮廷では、そのような意味では決してなかった。

だいたい当時「なま」という言葉は、「なまおぼえ」「なまくるし」「なまにくし」「なまむつかし」「なまわづらはし」などと使われて、その状態や動作が、未熟である、まだ何となくいい加減である、はっきりしないということを表わす言葉であった。「めかし」というのは、「……らしい」とか、「…のように見える」という意味で、これは、「物がそのもの本来の様子に見える」ということと、「ほんものではないがほんもののように見える」ということの、二つの意味を持っている。(女が「おめかし」をするとは、美しくない人も美しいようにといろいろ手を加えることである)。

この「なま」と「めかし」が結合して「なまめかし」が作られた。だから「なまめかし」は、そのもともとの意味をいえば、未熟めいている、未熟らしいのである。その実は決して未熟ではなく、心しらいにおいても、表現においても、実現された美しさにおいても、十分の心づかいがされているが、しかも未熟のように見える。さりげなく、何でもないように見える。

それが「なまめかし」であった。従って、はなやかで、派手で、鮮やかな色や、紅葉の盛りのようなものは「なまめかし」とは言わなかった。「なまめかし」とは、色ならば鈍い色である。心もとなくもれてくる琴の音が、もののひまひまに聞えて、「なまめかしく」愛らしい。しめやかで、何でもないようでいて、しかも人をひきつける見事さのあるもの、これが「なまめかし」であった。何とない様子、何とないみたいだということは、その実は決して何ともないことではない。花盛りでないように、ぱっとしないように見えるのが、実はなまめかしいのである。

「伊勢物語」に、男が女の車に近寄って「とかくなまめく」という所がある。男はその女に大いに気持があるのに、何でもないように、あれこれ言葉を使ってふるまっている。
また「源氏物語』で、男と女とが「なまめきかはす」と書いてある。これもその起源を瓠いえば、大いに気持がありながら、何でもないようにお互にやりとりを重ねるという意味である。そして、そのお互の気持は、決して何でもないことではないと、見ている者には十分によく見える。このとき、「なまめきかはす」という表現が使われた。

平安朝の宮廷で、その何でもないような様子をしているという原義を持つ「なまめかし」が、最高の美の一つとして、貴(高貴)と並んで重んじられているのは、まさに今日いうところの日本的な美の感覚の一つが、この時代に確立されたということを示すものと見てよいと思う。
この言葉は、後になって、「なま魚」「なまなましい」「なま坊主」などのような「なま」と連想され、そこから、やや品のわるい意味が加わって来て、あだっぽいとか、妖艶だという意味へ移っていった。



ニオウ
嗅覚を表わす日本語は、まったく貧弱である。ニオウ、カオル、キクなどというが、物のニオイを特徴づける感じを、一つの言葉で言おうとしても、言いあらわせないことが多い。例えば、梅の香と、フリージアの香との間の、何か共通な感じを、表現しようと思っても、言葉がない。ニオウという言葉も、はじめから嗅覚に関するものではなく、目で見た感じをいう言葉から変ったのだった。

ニオウは、奈良時代にはニホフと発音していた。二は丹で赤いという意味。ホは稲のホ、山のホ、槍のホなどでいうホと同じで、ぬきんでて現われているものをいう。つまりニホとは、ほのかに赤くあらわれて、何か立ちのぼるような感じのすること。フはそれを、はたらかせるための語尾である。だから、「万葉集」で「もみぢ葉のニホヒ」と言えば、もみじの葉の赤く色づいた美しさを表わした。「秋の野をニホハス萩」というのも、野を赤く染める萩の意味だった。

「源氏物語」には「愛敬がニホフ」といっている。これは愛敬がこぼれる感じをいったもの。そうしたところから「たちばな(橘)の香がニホフ」という言い方が現われてきた。ほのかに立ちのぼるものを感じて、嗅覚を表現する言葉に使ったのである。
形容訶の最も多い「源氏物語」を見ても、嗅覚のほかにも、味覚や、色彩感覚の言葉は貧弱で、最も豊富なのは、不愉快を表わす感情語である。




ます
「書きますわよ」とか、「存じます」というように、相手に向って丁寧さを表わすのに使う、「ます」は、江戸時代に、はじめてはっきりとした形をとった言葉である。

演説で、「であると存じまする次第でありまするが」という人がある。この「まする」という形は、「ます」の古い形である。もっと古い形は、「存じまつする」というふうに、「まつする」という形であった。ところが、さらに遡ると、豐臣秀吉の朝鮮戦争のあとで作られた日本語と朝鮮語との会話の教則本にあるように「ゆきまるする」という形になる。また、その頃のほかの書物に「語りまらせう」という形も見えている。「まるする」とか「まらする」というのは、実は「参らする」という言葉の変化である。「参らする」が「まらする」とつまり、「まるする」ともなり「まつする」となり「行きまする」となり、今日の「行きます」と変ってきた。

「ます」のように、言葉の一番下について丁寧さを表わす単語は、実は言葉の中であまり寿命が長くないものに属している。「ます」が、「まらする」あるいは「まるする」という形で誕生してくる前は、「ます」の代りに「そうろう」が一般的に使われていた。そうろうぶんたてまつこれは今日でも候文の手紙には普通に使われる形で、「存じ奉り候」とか「参らせ候」と使うけれども、これは鎌倉時代・室町時代に、今日の「ます」にあたるところに使われた。

この「そうろう」という言葉は、その古い形は「さむらう」である。お侍さんの「さむらい」も、この「そうろう」と起源が同じである。「さむらう」または「さぶらう」というのは、貴人の傍に伺候しているという意味である。従って、「存じそうろう」というのは、「……と思ってあなたのおそばにおつきしております」というのが、そのもとの意味である。「さむらい」というのも、偉い人のそばについていて、その人の役をし、その人の身を守ることを、するものであった。

しかし、この「さふらう」という形が大いに使われたのも、平安時代の末から、鎌倉時代・室町時代で、それよりいっそう古い時代、つまり、『源氏物語』や『枕草子」のころには、その「さふらう」という言葉はまだ一般には使われないで、そこには「はべり」という言葉が使われていた。「存じます」「思います」というところを「恩ひはくり」と言っていたのである。

この「はべり」という言葉は何か。この古い形は「這ひあり」ということである。
「這ひあり」とは、地の上に両手をついて這っている。つまり、偉い人のそばにすわって、両手をついてそのそばにお仕えしていることである。それがつまって「はべり」となった。「はべり」とは、そのおそばにお仕えしておりますという点で、「さむらふ」とほとんど同じ意味だった。

話題に対する敬意としては、自然に物事がそうなるという形を使い、また、物を上げ下げするという言葉をつけて、相手に対する敬意や、自分のへりくだる気持を表わした。
そして自分が直接話しかけている相手に対しては、「両手をついてそばにお仕えしています」という言葉、また「そばに仕えて御命令をお待ちしています」という形を使った。

それらの言葉のあとに今日の「ます」の祖先が入って行った。この祖先は「参らす」であるから、やはり、そばに参上し、そこにお仕えしているというのが、事の起りであっこういう言葉は年と共に変って、大体四、五百年ぐらいの命しか持たず、四、五百年ぐらい経つうちには、何か別の言葉にとって代られるかのようにみえる。しかし「ます」の次には果して何があらわれるか、今のところ、ちょっとその見当がつかない。




まつり
日本では、政治をとることを「まつりごと」という。その由来を考えてみよう。
その前にヨーロッパに目を向けてみると、非常に古く、ヨーロッパ語の祖先の言葉に「プリ」という言葉があった。多くのとか満たすとかいう意味で、やがてそれが、人の集まりを意味するようになり、町や都市を表わした。その「プリ」を受けたギリシア語の「ポリス」があり、その「ポリス」から、現在のヨーロッパの国々の政治「ポリティーク」、警察「ポリス」という言葉が生まれてきたといわれている。

野蛮な状態から脱して、都市のように警察を置くこと、都市のような秩序づけが行なわれること、そこから「政治」という言葉が発達してきているらしい。しかし、日本の「まつりごと」はどうであろうか。日本の「まつりごと」は、「まつる」という言葉から起ってきた。「まつる」とは、神に物を差し上げる場合にいう言葉であった。次のような歌が「万葉集」にみえている。

上総の国に周准の珠名娘子という美人がいて、その美人は胸のたいへん豊満な、そして、まるで蜂のように腰のくびれた人で、姿の美しい上に花のようにほほえんで立っていた。道行く人は、自分の行く道を行かずに、呼びもしないのに周准の珠名娘子の家の門に来てしまう。門を並べている隣の家の主人は、前もって自分の妻を離縁して、頼みもしないのに、「錦さへ奉」った。「錦さへ奉る」とは、わが家の鍵までも差し上げるという意味である。

わが衣形見にまつる
敷妙の枕さけずて巻きてさ寝ませ

という歌もある。「私の着物を形見に差し上げますから、どうか枕から離さずに巻いて寝て下さい」。つまり、「まつる」とは、物を差し上げるという意味であった。だから、神に物を差し上げて願いごとをすること、それが「まつり」であり、「まつりごと」とは、神に品物を捧げて豊かな生産、安全を祈るというところに起源を持っている。
『平家物語』では、「まつり」という言葉は次のように使われている。義経が戦闘をしているところの話である。


「敵の防ぎ矢を射た兵士二十余人の首を切り、それを物にかけて軍神に差し上げて、喜びのときの声をあげ、これは幸先がよいとおっしゃった」というのである。これはいわば後世でいう「血まつりにする」と、同じようなことを意味しているものと思われる。

平安時代には、病気になると神や仏に物をまつり、祓をして禍を遠ざけようとしたし、また、大きな「まつり」の行事が神社で行なわれた。その「まつり」には集団の人々がすべて集まり、神様を喜ばせるための舞踊や音楽がつきものであった。これが神社のお祭の起源であり、神への信仰よりも遊びの方が大きくなれば「お祭騒ぎ」ということになってくる。

だから、日本の「まつりごと」とは、合理的な精神によって人民の集団を秩序づけるという発想ではなく、神に物を捧げて生産の豊かさ、自分たちの安全を祈るところに、その起源がある。
フランス語の「政治」「ポリティーク」と起源を同じくする「ポリセ」という言葉は、文明の力で風俗を教化するという意味を持っている。しかし、日本の「まつりごと」は、神へ物を差し上げることに発して政治を指すようになった。

ということは、良識をもって、科学的に人間の秩序を立てるよりも、神に物を上げることが、つまり政治であるというふうに混同されやすかったことを意味している。政治家が祭政一致という看板をかかげることは、戦後に至ってなくなったが、しかし、物を供えることによって動く政治が依然としてあまりに多いのは、由る所遠く深い、きわめて日本的な「まつりごと」であるということができそうである。




やさしい
やさしい問題を出して、甘い点をつける先生は、学生に歓迎される。むつかしい問題を出す先生は一般に歓迎されない。

「やさしい」とはどんなことか。これは、「痩せる」という言葉と関係が深い。

「あらし」という言葉がある。雨、風が荒々しく吹く、あの「嵐」である。これは「荒れる」という動詞と関係があり、「夜が更ける」の「更ける」は、夜が深くなる意味で、
「深し」という形容訶と関係がある。これと同じで、「やさしい」という言葉は、「痩せる」という動詞と関係がある。「万葉集」には、


世の中を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかれつ烏にしあらねば

という歌がある。「生きていくこの世の中がつらくて、やさしいと思うけれど」というのは、「肩身が狭くて身も痩せるような気持だと思っているけれども」ということで、
この歌は、「世間が、つらくて肩身が狭いと思いながら生きているけれども、飛び立って何処かへ行ってしまうこともできない、烏ではないのだから」というのである。
このように奈良時代の「やさし」は、肩身が狭い、身もほそるようだということで、やがて今日でいう「恥かしい」といったような意味になる。

例えば「源氏物語」では、「お髪なども盛りを過ぎてしまった、やさしいというほどではないが、少しつけ髪をして、その少ない髪の毛をつくろわれたらいいだろう」と使われている。もう年も盛りを過ぎて、人前で恥かしいというほど薄くはないが、すこし、つけ髪をしたらという。「やさし」が「身もほそるようだ」というところから、「人前で恥かしい気持だ」という意味に変ってきたのである。

それが「平家物語」になると、とらえた悪者を弓矢で射たり、切り殺したりしなかったのを、ほめて「弓矢とる身はやさしかりけり」と言っている。武藝の道に携わる身は、まことにつつしみがあって殊勝であると賞讃したのである。

しかし、そのようなつつしみ深さは、反面、か弱くて、処理しやすい、扱いやすいということになる。そこから「やさしい」という言葉が、「扱いやすい」とか「相手にしやすい」という「やすい」という意味に近く使われるようになってきた。そして、扱いやすい、「やさしい」問題を出す先生は歓迎されることになったらしい。

これに対して、むつかしとは、「むつかる」という言葉と兄弟である。「むつかる」
とは、赤ん坊をいくらあやしても、泣き止まないように、相手の不機嫌な理由や原因をつき止めることができず、応対しかねることをいうのだから、「むつかしい」とは、そのような感じだということになる。よく母親が「お父さんの食べ物はむつかしくてね」
などというのは、相手の要求がうまく呑み込めず、どう作っていいか分らないのであり、また、要求が分っていても、それに応じきれない時にいう言葉である。試験の問題が「むつかしい」とは、泣く赤ん坊のように、何とも処理しかねるというのがもとの意味である。大学の教師などというものは、狭い専門のことがあたかも全世界のように思っているので、それを「やさしい」つもりで出している。





ゆゆしい
多くの日本人は仏教徒のはずなのに、仏教徒としての戒律を守ることもなく、お盆にお寺に行ってお説教を聞くことすらなく、春秋のお彼岸に、お墓参りに行かない人もある。お寺は、ただ埋葬の場所であるにすぎない。現在の日本人ほど、およそ非宗教的な民族は少ないのではなかろうか。どうしてこのような状態になったのか。
日本で千年以上もの長い間、支配的であった宗教は仏教であるが、この仏教は奈良時代よりも少し前に日本に輸入された外来の宗教である。それが貴族社会に取り入れられ、やがて次第に一般民衆の間にも信仰されるようになって行った。

しかし、現世を、厭い離れるべき稜土であるとする仏教思想が、果してどのくらいまで深く一般庶民の精神生活に食い入っていたか疑問である。宗教的な関心が薄れる傾向にあるのは世界的な現象だというが、現在、西洋諸国で教会の占めている社会的な役割の大きさは、日本の比ではないらしい。今日の日本人の非宗教的な態度を見るときに、途中から入ってきた仏教の食い込み方がいかに薄かったかが思われ、それと同時に、この仏教が入ってくる前の日本人の生活は、どのような信仰を持っていたのかが問題になる。

それは、日本の宗教の歴史の研究家が明らかにしなければならない重要な問題であるが、これを言葉の上から考えてみよう。
日本人が持っていた宗教的な意識として、奈良時代と、それ以前の世界で強かったのは、アニミズムの観念、またアニミスティックな観念と呼ばれるものであるように思われる。

自然界のあらゆる物事が、生物と無生物とを問わず、すべて精霊を持つと思い、その精霊の働きを崇拝する。これがアニミズムであり、古代日本人の意識を特色づける一つの代表的なものである。人々は、海や、波や、沖や、山や、奥山や、坂や、道や、大きな岩や、つむじ風、雷などに霊力があると思い、その精霊や威力を恐れ、それらの前にかしこまった。その気持が「かしこし」という気持である。これが拡張されて、神に対する畏敬の念となり、天皇、また皇子、さらには天皇のお言葉に対する恐れの念についても「かしこし」と表現したのである。

日本人が、「自然」を人間の利用すべき一つの物としては考えず、「自然」の中のさまざまのものが持つ多くの霊力を認めて、それに対して「かしこ」まる心持を持っていたことは、「古事記」や、『万葉集』の歌に、はっきり示されている。

現代の日本人にとって最もわかりにくいのは、ヨーロッパのような、唯一の神が支配し給う世界ということであり、神々という言葉ほどわかりやすいものはない。お稲荷さんも神様で、八幡さまも神さまで、伊勢神宮も神さまである。しかも、その神たるや何の実体もなく、ただ何となく威力があり、霊力があり、人間にたたりをすることがあり、力を振う存在と考えられる。日本人はその不思議な霊力の前に、ただ「かしこまる」だけである。

この「かしこし」に似た言葉に「ゆゆし」がある。これはポリネシアで使われるタブーという言葉と同じ意味を表わすものと思われる。タブーとは二つのことを指している。
一つは神聖で、清められたものであり、供えられたものであり、献身されたものである。
ゆえに、特別なところに置かれ、人々から隔離され、そして、人間が触れないようにされたもの、つまり、触れるべからざるほどに神聖で素晴しいものである。もう一つは、けがらわしい、あるいは汚いと考えられたがために、別の所に置かれたものを指している。例えば死骸とか、ある場合には妊娠した女、あるいは特別な時期の女など、これらは触れてはならないものという意味において、ともにタブーとされる。つまり、「タブー」とは、神聖なという意味と、呪われたという意味との二つの意味を持つ。ラテン語、sacerに対応する言葉で、フランス語の閏。恩もそれを受け継いでいる。

だから、「ゆゆし」も、神聖だから触れてはならないとする場合と、汚れていて不吉だ、縁起が悪いから触れてはならないとする場合との二つがあった。
例えば、「懸けまくもゆゆしきかも、言はまくもあやにかしこき」と歌った柿本人麿の歌がある。これは「口にかけていうのも神聖で恐れ多い、口に出していうのも慎しむべきわが天皇の」という意味で、この場合「ゆゆし」は、神聖だから触れてはならないという意味である。
また、

青柳の枝切りおろし

ゆ種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも(万葉集)

という歌がある。「青い柳の枝を切りおろして焼いて、神聖、清浄な種蒔きの仕事をしている、ゆゆしいあなたを恋しく思い続けています」という女の歌である。この場合の「ゆゆし」は、神聖であるから、それに触れてはならないという意味である。
しかし、また一方には、

ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと

せむ術知らにねのみしぞ泣く(万葉集)

という歌もある。「独り寝をしたところが、自分の着物の紐が切れた。これはたいへん不吉だと、どうしていいかわからないで、ただ声をたてて泣いています」。この場合は、紐が切れたということから不吉な出来事を連想し、自分とあなたの間が切れるのではないかと、縁起のわるいことを考えて、どうしていいかわからず、ただ一人泣けてしまったというのである。
未開時代の人間たちは、恋人の名前をうっかり口に出して、それを他人に聞かれ、その名前に悪いまじないをかけられると、実際にその名前を持っている恋人自身が、害悪を受けると固く信じていた。だから、

言に出でて言はばゆゆしみ
山川のたぎつ心をせかへたるかも
(万葉集)

という歌もある。「あなたの名を口に出して言うと大変ですから、山川の水が岩に激しくあたって流れるように心の中で激しく騒ぐ心を、じっと塞き止めてこらえています」と、恋しい人への心持を表明した歌である。
「ゆゆしい」は、奈良時代ではこのように使われていたが、平安時代になると、よい場合にも悪い場合にも、はなはだしいということを表わした。

世に類なくゆゆしき御ありさまなれば世に長くおはしますまじきにやと天の下
の人の騒ぎなり


とは、「世間に類もなくたいへん美しい御様子なので、こういう方は、早死なさるのではないかと天下の人々が大騒ぎをした」という意味で、この場合は、非常な美しさをいい、かえって何かそこに魔がさすのではないかという恐れを、人々に感じさせたのである。
また、自分の子供が死んだので、自分の身は人が触れてはならない汚れた身である、という場合にも「ゆゆしき身」と言っている。
このように、非常だという場合に「ゆゆしい」と使ったが、「平家物語』になると、次のような例が出てくる。相撲の競技をするために、両方から代表の選手を出したのだが、一方からは、六十人力をあらわした「ゆゆしい」人を出した。一方ではたいへん小さな人を出した。ここでいう「ゆゆしい」人は、たくましい大男という意味である。

室町時代の末にキリシタンの人たちの作った「日葡辞書」には、「ゆゆしい」に、大きくて豪勢なという訳がついており、人の着物とかなりとかに使うと書いてある。今日、よく時代劇の芝居などで「お家のゆゆしき一大事にござりまする」などというのは、そうした非常なたいへんなという意味と、不吉だという意味とを受けた「ゆゆしい」である。しかし、もう古代のような明瞭な宗教的な意味はその言葉からはなくなってしまって、われわれは「ゆゆしい」と聞いても、そこにタブーの意識を思い浮かべたりはしない。それは日本の歴史の流れの中で、厳格な意味でのタブーの考え方が薄れてしまったからである。



ライス
ライスとは、いうまでもなく英語である。英語は、日本語とは全く性質のちがう、別系統の言語なのだが、単語の古いつながりをたどって行くと、ライスと同じ語源の単語が、何千年かの昔から日本語の中にはいっている。モチゴメに対するウルチがそれである。
英語のライスは、ドイツ語でもライスだがイタリア語ではリソという。フランス語では古くはリスといったらしい。こんなさまざまな形であらわれる言葉も、その源はラテン語の米という単語、オリザにあって、それが各地につたわる間に発音が国々で変ったのだと、ヨーロッパの言語学が明らかにしている。

そのオリザの源は、ギリシア語のオルザにあり、もっとさかのぼると、インドの最古の経典であるベーダの中に、ヴリーヒという形で現われてくるという。つまりライスは、ヴリーヒが西へ流れて行って、変りはてた姿である。
ところがヴリーヒと並んで、インドにはヴルーヒという形もある。これらがマラヤにはいるとプラスとなり、台湾ではバルチとなり、日本にはいると、ヴルチからウルチヘと変ったものと考えられる。つまりウルチは、ヴリーヒが東へ流れてきた一つの姿と見ていい。

日本の稲はどこから伝わってきたものか。それは日本文化の歴史を考えるときに、大切な問題となるが、ウルチが台湾、フィリピン、マラヤを経てインドにつらなることは、言葉の上では、ほぼ間違いがない。だから、ライスとウルチは、東西の文化の昔々のつながりを示す、細い糸の一本だといえそうである。







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