日本において国際化とは

日本においていわれるところの「国際化」をどう定義すべきか難しいところです。もちろん、いろいろな考え方があるに違いないですが、これを異文化の認識と尊重としてとらえてみたいと思います。

すなわち、自らと違う価値観を持った人たちが存在することをまず認識する、そしてそれをできる限り尊重するという意味です。

ただし、誤解を避けるために付け加えると、尊重するとはやみくもにそれらを受け入れることでは決してありません。他の文化に敬意を払いつつ、自らの信ずるところを押し通すもよし、良いと思う部分のみ取り入れる法もあると思います。こうしたせめぎあいを経てこそ、それぞれの文化が多様化しかつ充実していくとの想像は楽観的にすぎるのかもしれません。

ごく日本的なしきたり、例えば、以心伝心や腹芸などの「察し」のコミュニケーションなども仮に日本が鎖国の時代であったとしたら、仲間うちだけでこれを交換している分には何の不都合もありません。

しかし、現代のように人や情報が国境を越えて自由に行き来する時代にそれが通用するはずもないのです。特に、映像による情報伝播の速さと広さは、大方の想像を越えるものであることは明らかです。

会社の不祥事で幹部がそろって最敬礼する場面、女子中高生がクローン人間のように同一の髪型、服装、持ち物で街を閾歩する情景、あるいは街頭インタビューでのノーテンキな応答などがCNNで流されれば、至極あっさりと世界を巡ってしまいます。それが、ごく一部の出来事であっても日本へのイメージに大きくかかわることも恐いところなのです。


「出る国際化」と「来る国際化」
もうひとつ思うことは、「出る国際化」に対して「来る国際化」の認識です。これまでは、どちらかといえば海外旅行や駐在に出た時に必要性を感じる国際化が多かったと思いますが、現在われわれの身近にたくさんの外国人が生活をし、労働をしています。

企業レベルの動きをみても日本企業の海外投資と外国企業の対日投資は10対1の比率で圧倒的に前者が多いです。こうした異常なギャップはこれから是正の方向に進まざるをえないに違いありません。

最近では外資系企業にどんどん外国人トップが増えているし、就職希望者の中でそうした外資系企業への人気は上々であるということです。インターネットで家庭の中まで入り込む国際情報を含めて、来る国際化への対応が個々に問われる時代になっているのです。


やるべきこと、やってはならぬこと
日本という国はほぼ一流のいい国だし、一生のたいていの用事は足りるので、日本人は日本にいたまま日本流で暮らし、「外国流」は自分には関係ないと思っていてもかまわない。それでもグローバル化は日々刻々と進んでいく。

外資系企業やアジアの安い賃金との競争は日々厳しくなる。日本語を話してくれない外国人と机を並べることになる。せっかく会社に入って、雑用も文句を言わずにこなしてきたのに、アテにしていた終身雇用が崩れてきている。

10歳も若い人が中途採用されてきて、その下で働くのが実力主義だと諭される。うかうかしていると大事なチャンスを逃すことにつながるかもしれないし、やがて日本での暮らしも息苦しくなってくるかもしれない。

「プチ鎖国」を決め込んでしまうのも一つの方法かもしれないが、その前に、「日本流」と「外国流」の違いとはいったい何なのか、ちょっと考えてみるのはどうだろう。

スープを飲む音を立ててはならね、ナイフを口に持って行ってはならぬ、肉にかぶりついてはならぬ、ぺこぺこ頭を下げてはならぬ、といった具合に、確かに「外国流」」は「日本流」といろいろ異なる。

お辞儀や微笑みだけでは無愛想、礼儀知らずと思われるので、握手をする。 エスカレーターのベルトや銀行ATMなどを「抗菌処理」する国から来た日本人は、わざわざ相手の手を握るのはいまでも苦手だ。ときにはトイレに石けんや水がなかったり、なかにはあっても使わない人もいる。

あいさつ一つにしても、握手よりもっと苦手なのが、肩を軽く抱き合うハグだ。タイミング良く息を止めたほうがいい。そうでないと、コロンや香水の匂いならまだいいが、相手がしばらく洗髪していないのではないかと気づく羽目になる。

ハグのうえにキスをする人もいる。お互い頬の近くの空気に向けて「チュ」とやるのだが、相手の唇が誤って(かどうか分からないが)本当に頬に触れてしまうこともある。これもまた息を止めてやり過ごす。もちろん、微笑みを浮かべながら。

英語のあいさつには「ご機嫌いかがですか」と尋ねるのがついて回る。 これには、気分が良くても悪くても、「おかげさまで元気です」という返事しかない。

このストレス社会にいて、いつも「fine」のはずはないが、ウソでもいいからそう返事するのがルールだ。 日本人が外国人に対して「やるべきこと」「やってはいけないこと」はあるのだろうか。あるとしたら、それはそれぞれ何なのか。グローバル化時代には、ぜひ知っておいたほうがいいだろう。


日本人は自分たちを愛しすぎでは
「気に入ったのはシャワー付きトイレだけ。ほかには日本にはいいところは何もない」と歯に衣を着せずに言っていた外国人もいる。

「地下鉄もパスも、スーパーもスポーツクラブもデパートも、どこに行っても日本語ばっかりで意味が全然分からない」
「この暑いのに休みもとらずいつまでも残業して、日本人って異常だ」
「果物を買って搾るより紙パックのジュースのほうが安いとは、いったいどうなってるの」
「野菜は柔らかいだけで味がない、米もまずい、日本には食べるものがろくにない」

一つひとつが当たっているから耳が痛い。ちなみに、ケニアのニンジンやジャ、ガイモの甘さに慣れてしまうと、日本の野菜が味気ないというのは本当だ。家賃50万円の一戸建てという、首都圏の住宅事情を考えれば目の飛び出るような暮らしをしているというのに、彼女の日本への不平・不満はとどまらない。そしてこう言う。

「日本人は自分たちを愛しすぎ」
文字どおりに受け取ったら分かりにくいが、彼女のこれまでの経緯を考えると言いたいことはよく分かる。両親はソマリア人で、ソマリア語で幼児期を過ごし、生活語としてスワヒリ語で育ち、ケニアの英語教育を受け、イスラム教徒としてアラビア語を選んで学び、修士課程はイギリスで修めたという。

人生の場面と段階ごとに、目的と必要に応じていろいろな言語を使い分け、さまざまな社会環境に適応してきた。ソマリアには帰る場所がないし、その気もないという。これに対し、ほとんどの日本人は、日本語で育てられ、日本語で教育を受け、日本の慣習と文化を身につけ、その中で暮らし、働く。

こうして外国人に、簡単には乗り越えられない文化の壁を突きつけるというのは、逆に考えれば、その壁の中の社会が、よほどいい社会だという意味にもなる。

しかし、日本になじみのある外国人が、どれほど日本と日本人のことを理解しているかは別問題だ。たとえば、多くの外国人が日本を金持ちの国だと考えている。

ただし、外国で言う金持ちとは、あくせく働くこともなく、広い家に住み、高級車を乗り回し、子女を欧米に留学させ、しばしば一ヶ月以上の長期休暇をとって海岸リゾートや買い物旅行に出かける人たちのことを指す。

だとしたら、日本の庶民に金持ちなど全然いないと言ってしまってもいいのに、外国人にはなかなか理解されない。ましてや下向きの社会、満ちあふれる閉塞感、自信を喪失する人々という多くの日本人の気持ちを説明しても、外国人に分かってもらうのはそうとう難しい。

日本に希望がないと感じるなら、外国に出たらいいじゃないかと、多くの外国人はいとも簡単に考えるが、当の日本人は、外国にわざわざ出かけていくなんて、と腰が引ける。日本はいやだ、だけど外国なんて、なんだかわけが分からず不安でもっといやだ、と考えるのが多くの日本人だろうが、そのようなないものねだりの心境を多くの人が抱いていることも、外国人にはなかなか分かってもらえない。

裏返せば、やはり日本は日本人にとって、うまくは言えないけれど、どことなく安心感のあるいい国なのだ。この感覚は、外国人にとってはミステリーだ。



この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!