日本語の表現する言葉の生い立ちをひも解くと面白い│あ行

愛する
現代の男女の対し方を示す言葉として、「愛する」という言葉は注意されてよいと思う。今日の小説や、劇や映画で、「彼は彼女を愛していた」とか、「彼女は彼を愛していた」というような表現に出会わないことはない。この言葉は現代で最も広く使われているといえるだろう。しかし、現在50歳以上の人々の中には、この言葉を使ったことのない人の方が多いらしい。自分の妻に向って「お前を愛している」などといった経験がないし、そんな言葉はおかしくて使えない。

日本では、昔から、人間関係は上下の意識で強くしばられている。そして男と女の間柄も、室町・江戸時代以来、ことに上下の意識に締めつけられて来ている。一般に、男は女を見くだしている。そして、見くだしている女を、かわいそうだと思い、いたわってやらなければと思うとき、それが恋慕の気持になって行く。江戸時代以来の恋愛の、一般的な形がそれである。

今試みに、日本語で愛に関する言葉を集めてみると、「慕う」「恋う」「好く」「ほれる」などがある。「慕う」とは、心の底で人に知らせず相手を思っているのであり、「恋ひう」は、相手に身も心も惹かれるのである。「好く」は、相手をよしと思って、それに向って心が走って行くのであり、「ほれる」は、心がぽーっとなること。(老いぼれのほれと同じ、年とってぼんやりしているのが老いぼれ)。どれをとっても、自分一人で、一方的に相手を思うばかりである。そして、それ以外は、女を、あわれむ心から、恋慕へと移って行った、「めぐし」(めんこい)、「いとしい」、「かわいい」などがあるにすぎない。

男が女を自分に対等な人格として考える考え方は、嫁を取る結婚の方式が確立してから、日本ではほとんど影をひそめている。一般的に男は女をあわれむことにおいて、愛情を示し、せいぜいこれを、甚だしく傷つけないように大事にした。女は明らかに劣った存在であった。ところが、明治時代以後、文学の作品に現われた「愛する」という言い方には、相手を一個の人格と認め、男女対等に相対するというヨーロッパ風の考え方がそのうしろにある。江戸時代、明治時代のように、女を男の従属物と考えて育ち、文学書などにあまり親しまない人々の多くが、「愛する」という言葉を女の人に対して使うのを、滑稽と感じたのは当然といえよう。

つまり「愛する」という言葉は、文学によって新しく日常語の中に生かされてきた言葉であり、いわば明治時代以後、ヨーロッパ文学の翻訳語として使われ出したのである。だから、現在50歳以上の大人たちは、これを使えない。もちろん、日本人でも、夫婦の間で「愛する」という言葉を使い合っていた人々もあるけれども、それらの多くはヨーロッパ文化に触れ、キリスト教の影響のもとにある生活をしていた、新しい思想の人々である。

「愛」という言葉は、古くから日本に入って来ている中国語であり、言葉の上だけから見れば、日本語の中で「愛する」という言葉が使われたのは、実はそんなに新しいことではない。平安時代の末に書かれ、あの有名な映画「羅生門」の材料となった話や、鼻の長い坊さんの話などの載っている「今昔物語集』の中には、「愛する」という言葉はかなり多く使われている。また、『堤中納言物語」の中には「虫めづる姫君」という、虫が大好きで、いろいろな虫を飼っていた姫君の話があるが、その姫君も虫を「愛し」もっとも、これらの例は、親が子に対していう場合、姫君が虫を可愛がった場合など、小さい物を愛玩し、いとけないものを大切にするという意味であり、「彼女は彼を愛していた」というような、成人した女が男を愛していたという例はない。

室町時代の末に日本に来てキリスト教を広めようとした人々は、キリストの愛、神の愛を説こうとしたときに、愛という言葉を避けて「大切」という言葉をもっぱら使った。
それは、当時すでに「愛」という言葉にしみついていた、そういう「小さいものを可愛がる」というような意味から遠ざかろうとしたためであろうと思われる。
女と男が互に平等な人間として、愛し合うということが、果して、現在の日本のように、相手の人格を尊重するという程度の考え方で出来ることなのかどうか。ヨーロッパで、男女が愛し合うというときには、その証人として、「神」が大きな役割をしている。

キリスト教の神は、日本の八百万の神々とは、全く違う働きをヨーロッパ人の生活全部において占めている。キリスト教の神は、唯一絶対の審判官である。その保証のもとにおいてのみ、対等な人間の愛がありうるとされている。しかし、そういう神や審判官は日本には古来無かった。それゆえ、日本人が姿や形や生産技術の上で、どんなにヨーロッパ化しても、キリスト教の神の観念を消化せずに、果して、ヨーロッパ風の「愛」が日本人に分るようになるかどうか。



あがる
毎年、試験の答案を採点する退屈を救ってくれるのは、ときどきあらわれる珍無類の答案である。本人は大まじめなのだが、すっかりあがっている結果なのだろう。
頭にくる意味の「あがる」という言い方は、ちょっと考えると新しそうに思われるかもしれないが、平安時代の「源氏物語」よりも前に書かれた『かげろふの日記』にすでにある。帰るお客を見送って立っているうちに「気があがった」のだろうか、気持が悪くなったという。ところが、『源氏物語」には、「気がのぼる」という例があり、どうもこの二つは同じ意味で使われているらしい。それでは「あがる」と「のぼる」とに何の区別もなかったのだろうか。

今日では、「あがる」と「のぼる」とを同じように使う場合もある。しかし、東京に行く列車は「のぼり」で、「あがり」とは言わない。双六に「あがり」はあるが「のぽり」はない。風呂から「あがる」、犯人が「あがる」とはいうが、風呂から「のぼる」と言えば変である。魚は川を「のぼり」、人は高い山に「のぼる」。しかし、魚が川を「あがる」とは標準語では言わない。それでは「あがる」と「のぼる」との区別は何だろう。

もともと、「あがる」も「のぼる」も、低いところから高いところへ、下から上へ移って行くことを表現するに変りはない。しかし、「のぼる」とは、あるところを経由して線条的に高くなっていくことをいう。だから、「煙がのぼる」、「太陽がのぼる」、「のぼり列車」、「山をのぼる」、「都へのぼる」、「気がのぼる」、みな経由するところがあって、線条的に高くなって行く。
ところが、「あがる」は、どこかを経由していくという、その経由を中心に考える言葉ではなく、むしろ、一足飛びに高くなり、その高くなった結果を重く見る言葉である。

だから、高くなってはっきりと見え、聞えるようになる場合に使われる。「太陽があがる」とか、「雲雀があがる」などはそれである。室町時代には、物事の度合が進み、さらに、その物事が完成、終了して性質の変る場合に「あがる」を使う。

例えば、「天ぷらがあがる」とか、「乳があがる」とか、「できあがる」、「なりあがる」などがそれである。天ぷらはすっかりできて揚げられて、前とは質が変るのである。「乳があがる」とは乳が出なくなること。「できあがる」は完成である。「なりあがる」も、すっかりお金を儲けて、今は大尽として世間に通用するようになっている。
しかし、その昔を尋ねると、昔は低い位置の貧乏な人間だった。今はまるで昔の面影はなく、すっかり質が変っている。そんな場合に、「なりあがりもの」という。
学生が試験場で「あがる」というのは、頭の質が変ってしまって働かなくなることをいうのである。





あこがれ
私たちの努力だけでは到達できない未知のもの。それゆえにこそ、渇仰の対象として消えずに、いつまでもあるもの、それが「あこがれ」の対象であろう。希望があまりに遠く、そこへ歩む自分の力があまり弱いとき、私たちは足をとめて切ない感情にひたる。
そこにあこがれの心がわいてくる。「あこがれ」は、それこそ古くから人々の心に巣くった感情であろう。

「あこがれ」という言葉そのものは、しかし新しい言葉である。これは鎌倉時代の末、室町時代ごろから現われた。それ以前は、「あくがれ」といっていた。「月や花にあくがれ」た平安時代の宮廷の人々は、「月や花を見にさまよい歩いた」のである。『源氏物語』の椎本の巻で八宮は、娘に、「よほどりっぱな縁でなければ、男の言葉に乗って、この山里を、あくがれてはなりませんよ」と諭した。

この「あくがれ」は「あく」と「かれ」とに分けられる言葉である。「かれ」とは離れて遠く去ることで、「あく」とは、「こと」とか「ところ」とかいう意味の古い言葉である。だから、「あくがれ」とは、自分のいるところを離れて、うかれて、あちこち歩きまわることである。そこから、「ものおもふ人の魂は、げにあくがれるものになむありける」という言い方が出てくる。ものを思う人の魂は本当にからだから抜け出て、その魂ばかりがあちこちとさまよい歩くものだなという意味である。
現在自分の足で進んでいく力が弱く、心だけが遠くの望みの方へと浮き立っていってしまうのを「あこがれ」というのも、こうした心ばかりがあこがれるという言い方の名残りである。

あこがれは純粋である。しかし、そこには身動きできない人間のはかなさがついてまわる。私の友だちの一人が言った。「将来、若い人たちは、あこがれなんていう感情は分らなくなるんじゃないだろうか。逢いたいと思えば、お金を工面して飛行機に乗ってでも飛んで行き、欲しいと思えば、何をしてでも手に入れる。嫌いになった人間とは、さっさと別れる。あこがれてなどいないんじゃないか。
しかし、友だちのいう、現実の処理が巧みになった若い人たちは、別の形の「あこがれ」を持っているのではないだろうか。本当に美しいもの、学問や藝術、あるいは理想の社会に人を駆って歩ませるものは、やはり、心に深く蔵された「あこがれ」の心ではないのだろうか。




あした
暦の上では一日は夜中の零時に始まる。しかし、実際には、私たちは夜明けで一日が始まり、夜中で一日が終ると思っている。これは、世界中この通りであるわけではない。
例えば、クリスマスのイヴなどといって、前の晩に大騒ぎをする。それを前夜祭と言ったりする。しかし、あれは前の晩であるのではなく、ユダヤ教では一日が日暮れから始まるので、クリスマスは私たちの考える前の日の夕方から始まるのである。だから、それを「前夜祭」と訳すのは、本当は当っていないと思う。これはユダヤの例であるが、日本でも昔は、今とちがった時の観念があったかもしれない。
今日では、電灯の発達によって、夜の生活も昼と全く変らなくなった。昼間でも、大きなビルディングの中では電灯をつけて仕事を営んでいる。

しかし古代では、夜は全く光の乏しい暗い闇の世界であり、昼と全然異なった世界であった。それで一日の時の区分けの仕方についても、二つの分け方があったように思われる。一つは、明るい昼を中心にして一日を区分する考え方で、他の一つは、暗い夜を中心にして一日を考える考え方である。
今日、私たちが普通に考える一日は、明るい昼の部分を中心にしている。それによる区分は、当然、朝、昼、夕の三つになる。そして、その明るくなる朝の前の部分が曙で、夕の終りの部分が夕暮れとなる。これによると、一日の明るい部分は、曙に始まり、曙、朝、昼、夕、夕暮れという五つに分けられる。

しかし、「朝」という言葉と、「夕」という言葉は、どういうわけか、奈良時代あるいは平安時代では、ほとんど独立して使われることがない。「朝」は大てい「朝風」とか、「朝霧」とか、あるいは「朝霜」のように、必ず複合語として使われる。一方、「夕」という言葉も、「夕」だけで独立して使われることがなく、「夕露」「夕風」などと複合して使われることが多い。このような朝、昼、夕の三つの区分は、われわれにはすこぶるわかりやすい区分であろう。

ところが奈良時代、また平安時代には、いま一つ夜を中心にした時間の区分があったと思われる。夜を中心にした時間の区分とは、まず「夕」から始まるのである。暗い夜を中心にすると、その暗い夜にこれからなろうとする時間、それが「夕」である。そして、いよいよ夜になり始めたとき、それが「宵」である。その次、夜の最も中心的な部分は夜中である。その夜中も過ぎて、やがて夜が終りになるだろうと思われるとき、それが「あかとき」(暁)である。その暁が過ぎて、夜がいよいよ終ってしまった時間、それが「あした」である。

ゆふくゆふくよひつまり、夜を中心とする時間は夕に始まり、夕の次に暗い宵がくる。そして、夜中になる。暁になる。暁というと、今日のわれわれは明るくなってからの時を考えるけれども、奈良時代・平安時代では、これはまだ暗いうちを指している。そして、その暁が過ぎて明るくなったとき、それが「あした」となる。「ゆふく」は物理的には「ゆふ」と同じであるが、「ゆふ」といえば、明るい昼を考えてその終りという感じ。「ゆふく」といえば、暗い夜を考えて、それが始まる直前という感じである。だから、夕とは妻問婚のこの時代には、男が訪ねて来てくれるのを女が待つ時間であり、宵とは、いよいよ男がたずねて自分の家につく時間であり、夜中とは男と共に過ごす時間であり、暁とは男が自分の家に帰るために、暗いうちに家を出なければならない、その時間であり、「あした」とは、その男がすでに帰ってしまって、女がむなしい気持にとらわれ、男から来る習慣になっている慰めの便り(後朝の便り)を待つ時間であるということができよう。
だから、「あさ」とは、明るい一日を考えた、その最初の部分に過ぎないのだが、「あした」といえば、その中には必ずそれに先んじる夜ということが考えの中に入っている。

奈良時代には「あした」は、単に朝と同じような意味で使われたと思われるものもあるが、平安時代になると、夫が来て泊っていった翌朝が「あした」であり、また、夜中に騒動があっていろいろな出来事が起った、その明けての朝が「あした」である。夜中に、何か事があっての次の朝という場合、「あした」というのである。

今日、われわれは「あした」といえば、普通、明日という意味に使っているが、どうして朝が明日になったのか。それは、このように「あした」という言葉が、単に明るい一日の朝を指すのではなくて、夜があけての朝という意味を持っていたからである。夜があけて、次の朝ということには、つまり明日という意味になる可能性が含まれている。

「平家物語』の中に、再会した父親のもとを離れたがらない子供を帰すのに「あしたは急ぎ参れ」と言っているところがある。今日はもう帰って、あしたの朝急いで来なさいと言っているのである。これなどは「あした」という言葉が明日という意味に使われた最も古いものの一つであろう。大体、「明日」ということは、奈良時代・平安時代には「あす」という形で表わされていた。これは現在でも一般に分らない言葉ではなく、青森県や四国の西などでは「あす」という形が普通に使われて「あした」という形は使われていない。

しかし、そのほかの地方では「あした」という形を、普通に明日という意味で使っている。「あした」という言葉は、夜があけての朝という意味から、次第に「あくる朝」「明朝」「明日」というように変っていって、「あす」という言葉を追い出していったものと見るべきらしい。古い辞書を見ていくと、この「朝」という字の訓は、すべて「あした」とつけられている。「あさ」という訓のあるものはほとんどない。この点を見ても、独立した意味での「朝」という言葉はなかなか使われず、長い間、「あした」が、「朝」という意味で使われていたのだけれども、それが、今述べたような事情で明日を表わすように移動していった後で、そのあとの空いた位置に「朝」が入ってきた。そして、今日われわれが使っている「朝」という独立した形が確定したものと思われる。

「あさ」「あした」「あす」という単語を並べてみると、ここに共通な勝という形がある。おそらく、これが夜があけるという意味の古い言葉で、これの変形によって「あさ」「あす」「あした」という時の区別を示したものであろう。そう見ると、「あした」という形は、「あし」に接尾語の「た」がついたものとも見られるし、あるいは、「とき」という意味を示す古い言葉の「しだ」というのがあるから、それが「あす」について「あすしだ」となり、それがつまって尉扁己画から閉め旨となり、尉冒と変っていったというふうにも見られないことはない。
「あした」と対に使われるのは「ゆふく」である。この「ゆふく」が、今日では「昨晩」という意味を持っているのも、「あした」と同じように考えることができるだろう。

つまり、「ゆふく」とは、夜というものを中に置いて、その夜が始まる前の部分ということであるから、朝が来て、明るくなってしまったあとで「ゆふく」といえば、今まで続いて来た夜の暗い時間の、その初めのところについている夕方である。それは、つまり、きのうの夕方という意味になることもありうる。そこから、「ゆうべ」「昨晩」という意味に移っていったものであろう。


いつくしむ
戦争中、「天皇陛下の御稜威により」という言葉がよく使われた。何のことか当時よくわからなかった。「いつ」とは、未開な人間たちが感じる、ある威力である。
神とか天皇とかの力を持ったもののあらわす、強い不思議な力である。「くし」というのは、霊妙な不思議さを讃える気持を表現する。従って、「いつくし」といえば、神や天皇の霊妙な力が素速く見事に働くことだった。これが平安時代になると、その意味が多少ずれてくる。「いつくし」とは、生まれが尊いというような意味合いに使われ、皇室に関係した人間を誉め讃える場合にだけ使われる。

この「いつ」「くし」の「いつ」の音の変ったものに「いち」がある。「いち速く」という言葉が今日、時として使われることがある。「いち速く報道された」という場合の「いち速く」とは、ある事件が起ったとき、それに反応する速さが非常なことをいう。
つまり、そこに働く不思議な力の非常な素速さをおそれるのが原義である。

ところで、この「いつくし」という観念は、比較的早く亡びて分らなくなり、イツクシという言葉の形だけ記憶されて、無内容になし」が肉親的な愛情から、可憐さに対する愛情を表わすようにと移ったために、寵愛する、慈愛をたれる意味の「うつくしむ」という言葉が、理解されにくくなり、ウの音に近いイの音へと移って、ウツクシム←イツクシムという変化が起きた。イツクシムという言葉が生まれ、慈愛の心を持つ意味を表わすようになって来た。

このように日本語には「ゆゆし」「かしこし」「いつくし」など、すべて、自然の霊力を恐れ、威力あるものに触れないようにすることを表わす言葉はあるが、神に自己の罪を告白し、織悔することを表わす言葉はない。日本人にはそのような意識や習慣がなかったからである。ただそれに近い言葉としては「申す」がある。「申す」は、神や天皇や上司に対して、下の者が、実情を述べることである。しかし、これは、本来、神に罪を告白するものではなく、実情を知らせて、物を頂き、都合を取り計らって頂くことにすぎない。

「い」という言葉のつくものに、「いのる」がある。「お祈りをいたしましょう」などといってわけもなく何か願いごとを心の中に思い浮かべることもあり、また、それを口に出していうこともある。手紙の末に、御多幸をお祈りいたしますと書くけれども、実際に祈る行為をする人間はほとんどない。だが、「いのる」の由来を考えると、「いのる」の「い」は、「ゆゆし」の「ゆ」と関係のある言葉だろうと思われる。「のる」とは、相手の知らないこと、自分の知っていることをきまった順序で、はっきりと言うことである。従って、単に「言う」のとは違い、自分の名前とか、国の名前とか、相手の知らない道とかを知らせ、あるいは占いの結果をいうことを「のる」と言う。「のりと」の「のり」と「いのる」の「のり」とは同じで、神の名を口に出して幸を求める行為をあらわすのが「のりと」であった。従って、今日では「神に祈る」というけれども、当時は「神を祈る」とすべて言っている。つまり、これは神の名を呼んで、その力によって幸をもたらしてくれるようにと願ったのである。

今、私はここで「願う」という言葉を使ったが、「ねがい」というのは、「ねぐ」という言葉と源が同じである。「ねぐ」とは、神社の「砺宜」、「ねぎらう」の「ねぎ」と同源である。神の心をなぐさめ、神の心を安らかにする役目をするのが「禰宜」の役である。神の心をなぐさめ神の心を安らかにすることによって、神の機嫌をよくし、それによって、人間に幸をもたらしてくれるようにのぞむこと。その表現が「ねがひ」であった。従って「ねがひ」には、はじめから相手の心をやわらげて頼む心がこもっている。
「お願いします」という表現には、今もその気持が残っている。



いまいましい
「ゆゆしい」と直ぐ隣り合わせの言葉に「いまいましい」がある。何とか抑えつけてやりたいと思う人間が、いろいろ勝手な振舞いをしたり、立派な仕事をしたりするときに同じ仕事をしている人間が、はたから「いまいましい」と感じる。これも、古い意味を尋ねていくと、「ゆゆし」にごく近い言葉である。「ゆゆし」の「ゆ」に関係のある「いむ」がある。「忌み言葉」といえば、結婚式場などで、使うのを避けるべきだとされる言葉。例えば「別れる」とか「終る」とか、結婚の将来に魔がさすかもしれないとして、当日避ける言葉である。それは「イム」の、それに触れてはならないという意味から来ている。だから、「いまいましい」という言葉のもとの意味も、触れてはならないと思われるということだった。

例えば、自分が喪中である場合、稜れに服しているので、「いまいまし」と言った。
平安時代の「栄華物語」に、喪中なので宮中でも「いまいましくつつましくて」と書いてある。宮中でも服喪してつつしんでいての意味である。「源氏物語」では、出家して尼になっている女の人を「いまいましき有様」と書いている。出家して僧や尼になるのは、この世を離れて、生きながらこの世の人でなくなることだから、親族が死んで喪中なのと同じ扱いをされて、つつしんでいるべきものとされたのであった。

同じところから発しても、「ゆゆしい」が平家物語や、あるいは室町時代以後に、りっぱなとか豪勢なとかいう意味の方へ移っていったに対して、「いまいまし」は、もっと悪い意味の方へ、縁起が悪いという方へ傾いていった。

室町時代の「お伽草子」の中の「ものぐさ太郎」という話の中で、ものぐさ太郎が、美しい婦人を妻にしようと追いかけるが、婦人はそれを嫌って逃げのびる。そして下女に早く月は出ないかしら、こんな暗いときに、また、あの男に出会ったら、ほんとうに命も危いなどと言う。すると、下女は、「いまいまし」と返事をする。つまり、そんなことを口に出すだけでも、汚れで、不吉で、縁起が悪いという意味であった。ここでは自分が喪中だということではなく、「不吉だから、それに触れてはならない」というのである。

今日いう「縁起が悪い」とか「不吉だ」とかは、何かそこに支配的な悪い魔力が働いてきて、人間の力でそれをどうにもできない出来事が起るかもしれないことを意味している。だから、「いまいましい」とは、つまり、何か自分にとってよくないことが起りそうだと思いながら、それをどうにもできないときに使うのである。





うつくしい
「うつくしい花」「うつくしい着物」「うつくしい光景」のように、「うつくしい」は、広く美を表わす言葉として使われている。しかし、奈良時代の人たちは、完成したばかりの寺々の赤、緑の色あざやかに塗られたお堂や塔を見て、「うつくし」と言ったろうか。

また、秋の紅葉、初夏の新緑を見て「うつくし」と言ったろうか。それらを「うつくし」と言うことはなかったろう。何故なら、「うつくし」は当時次のように使われていたからである。遠い九州の防備のために筑紫へ遣わされる関東の人たち、防人の歌が「万葉集」の中にある。
あめつちのいづれの神に祈らぱかうつくし母にまた言間はむ「天地のどの神様に祈ったならばうつくしい母と再び言葉をかわすことができるだろう。
また、有名な山上憶良は、
妻子見ればめぐしうつくし

と歌っている。「妻子」とは、「め」は女または妻、「こ」は子供である。妻や子供を見ると「めぐしうつくし」と感じたのである。「めぐし」とは、今日「めんこい仔馬」という童謡のあるあの「めんこい」の古形で、今日の方言では、「めごい」「めんごい」などという地方もあり、可愛いという意味である。ここにあげた二つの場合の「うつくし」は、親に対する愛情、妻子に対する愛情を表わしている。

「うつくし」は、万葉集では、このように夫婦の間や、父母、妻子、また恋人に対する非常に親密な、肉親的な感情の表現である。これを、動訶にすると、「うつくしぶ」となる。「うつくしぶ」は、平安時代の漢和字典には、「仁」「慈」「恵」「恩」「籠」「憐」などの文字の訓となって現われてくる。これらの文字は、天子の臣民に対する愛、親の虹子に対する愛、また、夫が妻を憐れむ感情、それらを表現する文字である。つまり「うつくし」は、決して、美を表現する言葉ではなかった。

平安時代の女流文学では、「うつくし」は小さい者への愛情の表現に変ってくる。「枕草子」では、人がねずみ鳴きをして、ちゅうちゅうと呼ぶと、雀の子が飛んでくるのを「うつくしい」と言っている。また、二つ三つばかりの赤子が、急いで這ってくる途中にこまかい塵があったのを目ざとく見つけ、小さい指に取って大人などに見せたのは、たいへん「うつくしい」と書いてある。そして「なにもなにも小さき者はみなうつくし」と言っている。つまり、「うつくしい」は小さい者への愛情、あるいは可憐の感情を表わしたもの、と言っていいであろう。
『竹取物語』で、かぐや姫が竹の中から発見されたとき、「三寸ばかりなる人うつくしうてゐたり」とあるのは、三寸ばかりの人が可愛らしい様子をしていたという意味であった。

ところが、「梅の花がうつくしく咲く」と表現した場合、これは「可愛らしく咲いた」「可憐に咲いた」という意味にもとれるし、また一般的に、美しいという今日の意味にもとれる。いろいろな面白い話を集めた古今著聞集に、四条天皇が12歳で亡くなられたとき、御姿が変りはてて、「うつくしうなつかし」かつた御匂いも失われた、と書いてある。この「うつくし」も、可憐とも美しいとも解釈できよう。このような例が現われた次に至って、「うつくしい」は、可愛らしい、可憐だ、愛玩したいという意味から、今日の「うつくしい」に移っていく。室町時代の狂言の『鈍太郎』の中に「身共はそなたのようなうつくしい女中に近づきはおりない」というところがある。この場合の「うつくしい」は、今日のような「美しい」の意味になっていよう。
また、室町時代には、「猫がうつくしう食うた」というような言い方もある。猫が御馳走をきれいさっぱりと、食べたという意味である。

このようにして、「うつくしい」は、肉親の愛から小さい者への愛に、そして小さいものの美への愛に、さらに室町時代になってから、ようやく美そのものを表わすようにと、移り変って来たのである。



うらやましい
人が美しい着物を買った。いい靴を買った。旅行に行った。自分はきたない服を着て、いじけて毎日暮している。他所の人がうらやましい。これは昔も今も、西も東も変らない人情である。「うらやましい」とは、「うら」が心であり、「やましい」が病む感じだ、病気な感じだということ。心が病む感じであるという意味である。相手の優越を認め、自分の卑しさ、小ささを感じながら、とどかない自分の望みを、ほのかにあこがれのように抱いている心持である。『源氏物語」では、池の水鳥が番で泳いで騨っているのなどを「うらやまし」といっている。『枕草子』では、病気で寝ている人のそばで大声で笑い、また、歩きまわる人はうらやましいと書いている。

「うらやまし」は、まだすなおな心の動きである。しかし、いい娘を人に取られ、仲間が勝負ごとで勝ち続けたりすると、「ねたし」と感じる。「ねたし」とは、癩で、いまいましいのである。どこかで仕返しをしたい、相手を傷つけたい気持がある。「ねたし」とは、相手の名(評判)が高くて、自分に痛く感じられるというのが原義である。「な(名)いたし(痛し)」がつまって「ねたし」となる。そしてここから「ねたむ」が出てくる。さらに、そこから「ねたましい」が分れる。
さて、「うらやましい」に似てちがうものに「めざましい」がある。今は、「めざましい活躍」などと、もっぱら讃嘆、称讃の意味に使うけれども、平安・鎌倉時代には、「あんなに若いくせに」とか、「分際を越えて」などと、年や、位の上の者が、下の者のはなばなしさをとがめる気持が強かった。嫉妬の心が人を非難へ駆り立てるとき使われた。

「めざましい」とは、「目を醒ますようだ」ということ。眠りをさまされて不愉快な気持がする所からか、これは当時の女の社会では、不愉快と非難の気持をこめて使われた。


おかしい
「おいしい」「おビール」「おサイダー」「お体操」「おひる」「お静かに」。何にでも「お」をつける。これは主に女の人たちの言葉である。
すでに平安時代の枕草子に、聞いて違った感じを受けるものとして、法師の言葉、男の言葉、女の言葉、下衆の言葉をあげている。

今の知識階級の人たちが、むつかしいヨーロッパ語を振りまわして会話をするように、当時の知識階級だった法師たちは、多くの漢語を会話にまぜた。男と女の間の言葉遣いには、当時からすでに差があった。例えば、「行くな」「隠すな」といえば、その禁止の言い方は強い禁止で、男が主にこれを使った。これを「な行きそ」「な隠しそ」といえばやわらかく、女は、王にこれを使った。そして、男が女にやさしくいうときには「な行きそ」「な隠しそ」と言って、単に「行くな」「隠すな」とは言わなかった。

男と女の言葉の違いは、室町時代に非常に明瞭な形をとってくる。これは日本の結婚の習慣の変化と応じている。いわゆる妻問婚、その後の婿取婚の時代から変って、室町時代以後になると、嫁取婚の時代になる。女は夫の家に入れられ、もはや一生そこから外へ出ることができず、どこにも自分の家がなくなる。女性語の確立は、その結婚の様式の変化とちょうど相応じている。

つまり、女の位置が低くなるにつれて、女だけが守らなければならないものの言い方とか、挨拶の仕方とか、ものの呼び方が多く現われてきた。当時の辞書に「おあしー銭」「おかずー菜」「おつけー汁」「おなかー腹」「おなまーなます」「おひやしー冷水」「おまんー饅頭」などがあげてありどれにも婦人語という注がついている。このように、「お」をつけて呼ぶ婦人語の習慣は、この室町時代ごろからはっきりしてきたものである。

ところが、この婦人語という注をはっきりつけた辞書、キリシタンの人々が何年もかかって作り上げ、見出し語三万二千語に、ポルトガル語で注をつけた、日本語→ポルトガル語の辞書には、「お」をつけない婦人語もあげてある。例えば「かく」(豆腐)、「しろもの」(塩)、「てもと」(箸)などがある。また、子供を生むことを「よろこびをする」と言い、失礼なことを「つきない」と言う。また、おいしい味がするというのを「いしい」と言ったが、それにも婦人語という注がある。「いしい」とは実は古い言葉で、日本書紀の読み仮名の中にもあり、見事だとか、うまいということだった。これは平安時代の女流文学ではあまり使われなかったが、鎌倉時代の「平家物語」の中には出てくる。「いしう参りたり」とは、よく来たという意味である。

しかし、やがてその使い方が限られてきて、味のいい場合に、男は「うまい」と言い、女は「いしい」と言うようになった。それが一般の女の言葉の例にならって、「お」をつけて「おいしい」が成立した。母親のその言葉を子供が覚え、成長してからも、それを使う。やがて男の大人までも、その「おいしい」を使うようになると、「うまい」を品の悪い言葉と思うようになったのである。
このような女性特有の言語表現の一つとしては、いわゆる「もじ言葉」をあげることができよう。この「もじ言葉」は決して室町時代に始まったものではなく、もっと古い時代からあったものではあるが、これも女性特有の表現法として注意される。

今日でも、「鮨」を「す文字」、「湯具」を「ゆ文字」、「空腹でひだるい」のを「ひ文字」、「お目にかかる」のを「お目文字」と言う。(ちなみに、湯具とは腰巻きのこと。昔、女がお湯に入るとき腰に巻いた布)。これらの「もじ言葉」は、古来宮中に仕えている女官たちが、主に食べ物とか着物などに関する物事を、直接に言うのを避けて、一種のかくし言葉として使ったのが起りであるといわれている。物事を直接にはっきり指さず、かすかに言って判断を相手にさせたり、言葉のやり取りの主導性を相手にまかせ、それによって相手を重んじている気持を表わすのは、日本語の敬語的表現の一つの仕方である。これはことに女の人の好む表現法でもある。

室町時代になって庶民の経済力が発展し、貴族の古代的な大きな力が失われ始めたころ、宮廷に仕えている女房たちの、この特殊な表現法が将軍家で使われるようになり、公家へ移り、やがて一般社会へと次第に広まっていった。それがこの「もじ言葉」である。
このように、特殊な位置にいる女性から「もじ言葉」が始まったが、から劣ったもの、低いものと思われるようになると、それがさらに広まった。例えば、江戸時代の人たちの女性観を見るために、「女重宝記』という女性向き教科書の一節をあげると、次のような文章がある。

「女は年若く、まだ嫁にいかないうちは、世を恥じ身を恥じて、心にたしなみがあるが、年もゆき男に会った後は、多くは心が悪くなり、蛇、ろくろ首などのあだ名をつけられ、下様では夫に山の神などと言われる者が多い。まことにあさましいことで、気をつけなければいけない」。

こういう女性観が一般的であった社会では、女はやわらかく、へりくだった言葉遣いをしなければならなかった。そこで、いろいろな物事を直接に明確に指さないで、「恥かしい」のは「おはもじ」、「帯」は「おもじ」、「髪」は「かもじ」というような、ものの言い方が多く行なわれた。これらは、女性としての敬語表現の一つであるが、このついでに、日本語の敬語表現が、古くからどんな構造を持ってきたものなのかについて少し書いてみよう。

だいたい日本語の敬語は、複雑すぎるという意見があり、たしかに複雑な面もある。
しかし、これまで敬語の構造が一般によく理解されていないために、実際以上に複雑に見えたところも少なくない。そこで、敬語について、その基本的な事柄から話を進めてみようと思う。

まず敬語には三つの種類がある。例えば、「お着きになったよ」という表現と、「お着きになりましたよ」という表現とから、どのような場面が想像されるだろう。「お着きになったよ」という言い方からは、お客の到着を、ある家の奥さんがお手伝いか誰かに言っているという場面が想像される。

「お着きになりました」といえば、これは、お手伝いが奥さんにお客の到着を告げている場面が想像される。その差は、「お着きになった」と「お着きになりました」との差。マシの有る無しにある。このマシという言葉は、話題にしている物事(ここではお客の到着)に対する敬意を表現するものではなくて、話しかける相手に対する丁寧の気持を表現する。「お着きになった」には、マシが無いので、その話しかける相手は、話し手と同等あるいはそれ以下の人と判断できる。そこでこれは、奥さんがお手伝いに話しかけているのだと想像される。ところが「お着きになりました」と言えば、マシがあるゆえに、話しかけている相手は、話し手によって丁寧の念をもって扱われていることが分る。

敬語の中には、ここのマシのように、話しかける相手(話の話題ではない)に対する丁寧を表わすものがある。まずこれを第一の敬語として区別しておこう。
次に、「着いたよ」と「お着きになったよ」という言い方を考えてみよう。「お着きになったよ」という言い方では、その着いた人に対して、つまり、話題にしている人の動作に対して敬意が表現されている。(話しかけている相手に対しては敬意は表わされていない)。これを「着いたよ」といえば、到着した人の動作に対しても、また、話しかけている相手に対しても敬意は表わされていない。「お着きになったよ」といえば、お客の到着が想像されるのに、「着いたよ」という表現からは、友達同志の旅行で、目的地に到着して眠っている友達を起している若者の姿が想像される。

そこで私たちは、敬語には、話題の人の動作や、話題の人の物に対する尊敬を表現するものがあることを覚えておきたい。これは、一番目の、話しかける相手への丁寧の念の表現とは別のものである。
ここで取り上げた、話し相手に対する丁寧の表現と、話題に対する敬意の表現との二つを区別して考えるべきだということは、何でもないことのように見えるが、実は日本語の敬語の構造を理解する上で、重要な区別なのだと強調しておきたい。

話題に対する敬語の中には、例えば次のようなものがある。今日、問題になる「おビール」とか、「おサイダー」とか、「お体操」、「おコールドをおつけなさいませ」などがある。これは、不要なところに「お」がつけられていて、非常におかしいという。けれども、これをつける人の気持は、話題に持ち出す物事を、すべてそういう尊敬的な表現にすることによって、自分が今この話題全体を、たいへん敬意に満ちた心持で扱っているのだということを、示している。だから、普通「お」という接頭語は、自分のものにはつけず、その尊敬する人のもの、または、尊敬する人に対するものの場合につけるのが例である。

例えば、「お勉強」といえば、自分の尊敬する人の勉強であり、「お手紙を差し上げます」といえば、その手紙は自分の書くものであるにかかわらず、尊敬する人に対するものであるがゆえに「お」をつける。また「お静かに」というのは、相手の動作に静かさを求めるのであるから、その相手に敬意を表して「お」をつける。

ところが、全く話手のものであるにかかわらず「お」をつける場合もある。「お財布を落してしまったものですから」というような言い方をした場合に、その財布は話手のもので、相手のものでも、尊敬する人のものでもなく、また、尊敬する人に対するものでもない。しかし、財布を話題にするときに、それに「お」をつけることによって、その話題の場全体を尊敬的な、丁寧なものとして考えていることを話手が示すのである。

だから、料理屋で、「おビール」「お手ふき」「おてもと」などと、何にでも「お」をつけるのは話題全体を尊敬的に扱っていることを示すもので、あまりそれを責めるのは、酷なことだということになろう。
さて、今日「お着きになる」という、この「お~なる」の形について考えてみよう。「なる」というのは、「木の実がなる」、「寒くなる」という例でわかるように、自然にものが移って行って、ある状態に至ること。「木の実がなる」というのも、自然に、木が実を結ぶことをいう。

すると、「お着きになる」とは、「着く」状態に敬意をこめて言った「お着き」という言葉と、その「お着き」という状態に自然に「なる」と表現したのが、そのもとの意味であるということになる。
これに似た言い方は、現代では、ほかには「なさる」がある。「お歌いなさる」という言い方である。「なす」というのは、つとめて自分でする、ということであるが、しかし、そのあとに「る」がついている。「る」がついて「なさる」となった場合には、「つとめてするという状態に自然になる」という意味である。「お着きなさる」、「お着きになる」とは、いずれも自然の力で、自然にそうなるというのが原義で、この言い方は、昔は「着かる」とか「見らる」とか、「る」「らる」という言葉を使って表わされた。

そこで「る」の現代の形の「れる」を使って、「思われる」という例を考えよう。もし、「人に思われる」と使えば「れる」は受身を表わし、「出来るだろうと思われる」と使えば、「れる」は自発を表わし、「宇宙旅行は五年以内に可能だとも思われる」という場合は、可能を表わすものと見ることもできる。しかし、この受身・自発・可能は、ばらばらに成立したものでなく、その根源的な意味があり、その根源の意味から分れて、それらの区別を表わすようになったのである。では、その根源の意味は何かといえば、「自然にそうなる」ということである。

日本語では、ヨーロッパ語風の自動詞・他動詞の区別が、はっきりしないことが多い。
そこである動作を言葉にした場合に、その動作が自然に成り立ったのか、それとも誰かが力を加えてそうなったのかをはっきり示す言葉を動詞の下につける。それが「る」「らる」であり、「す」「さす」「しむ」である。「行かる」といえば、自然にそこに行くということであり、「行かす」といえば、誰かが力を添えて「行く」という動作をさせるということである。「行かる」とは「行く」という言葉の下に「る」をつけて、「行く」という動作が自然に成立するのだとはっきり示す。自然に成立するということは、つまり自発と呼ぶことができ、また自然に成立するとは、「行くことが出来る」という可能の意味ともなる。

だいたい「できる」とは、今は、可能を表現する言葉であるが、もともとこれは、人間が力をふるって物事を作り上げてゆくという考え方から成り立った言葉ではない。人力を借りずに、自然の力によって「出で来る」「出来る」から変じて、「出来る」となったものである。これは日本人が可能を認識するときに、人力によるよりも、自然に形をとってあらわれ出る、という考え方をとる場合の多いことを示すものである。従って、自然に成立するという意味の「る」「らる」が、自発の意味にとどまらず、可能を意味するのも、当然のことであるといえよう。

「行かる」はまた、行かれてしまうという、受身を表現することもある。受身とは、日本人にとって、自分で何もしないのに、ある動作が成立することをいうのである。「行く」動作に自分は関係しないのに、自然に「行く」動作が成立していること、それが「行かる」である。つまり、受身である。「打たれる」に例をとれば、「打つ」という動作に、自分は力を何も貸さないのに、自然に「打つ」動作が(自分にとって)成就していること、それが「人に打たれる」ことである。従って、日本語では「死なれる」という受身もある。「先生に死なれる」とは、自分が何も力を加えないのに、先生が死ぬという動きが自然に成立したのである。これは、迷惑の気持を表現することである。

このようにして、「行かる」は、「お行きになる」と同じ意味を表現する。何故、これが尊敬の念を表現できるのか。
だいたい日本人の尊敬の意識は、自然に対する恐怖、畏怖にはじまり、神や天皇に対する畏敬に移り、人間に対する尊敬の念に発展したのであり、さらに進めば、尊敬から親愛へ、そして軽侮へと進むのが基本的な道すじである。畏怖は大自然の暴風雨・地震などに対するものが、その最大のものであったろう。日本人は、その自然を、人間の力で左右しようなどとは考えず、ひたすらその自然の威力、霊力の前にかしこまった。それほど「おそれ多いもの」と考えていた。「自然」のすることは、人間がもっぱら服従すべきものである。それゆえ、自分が今畏敬している人の行為を表現するには、その人の動作が、あたかも「自然」のするがごとくであるといえば、自分の服従の意志、畏敬の念を表現するに適切であった。

また「自然」に出来上ったものであると表現することは、自分の意志が何も介入していないことを示すのであり、それは相手の意志のままであることを裏から表明しているわけで、これもまた、相手の行為を高く評価していることになる。それゆえ、自然に成立する意味をもつ「る」「らる」を添えることが尊敬の表現となる。この古代の考え方は今日も尾を引いて「お行きになる」「お取りになる」という形が現われて来る。「なる」が、自然の移り行きの結果を示す動訶であることは、前にも述べた通りである。このような、古い時代の敬語の言葉としては、「る」「らる」のほかに「給ふ」がある。

「行き給ふ」「取り給ふ」などと使う。「給ふ」とは、「下さる」という言葉とよく似た意味で、上の人の持っているものを、そのおぼしめしによって下に与えること。つまり、「行き給ふ」「取り給ふ」は、「お行き下さる」「お取り下きる」とほとんど同じになる。

もっと厚い敬意を表わすときには、「着かせ給ふ」「受けさせ給ふ」「着かしめ給ふ」という形を使う。もともと「せ」「させ」「しめ」は誰かの力によって事を成就することを表現する言葉であるから、「着かせたまふ」「着かしめたまふ」といえば、自分でそのことをせずに、誰かをして「お着かせ下さる」ということになる。つまり、直接に相手がするのではなく、誰かをして「着かせる」ということをして「下さる」というのが「着かしめたまふ」の原義である。これは、行為を相手が直接にせず誰かにさせ、しかもその行為を下賜するというのであるから、敬意は二重に表現されている。従って、この表現は天皇の行為などを表わす場合に多く使われた。このように、日本語の敬語には、自然に事が成立するという意味の言葉を使う場合の他に、物を下さる、または、物をあげるという言葉を使うものがある。

「下さる」「いただく」を使う敬語に対して、「あげる」「たてまつる」を使う敬語がある。これが第三の敬語である。話す相手に対する敬語(つまり丁寧語)、尊敬する人の動作についての敬語(つまり尊敬語でソナチネを一つあげる」とも使うように、質の変化、完成終了を意味することがある。
これは、「あげる」が下から上への移動の経過を問題にするよりも、移動の結果を重く見る言葉だからで、「人に物をあげる」というのも、それによって物の移動が完成終了するという意味がこもっている。それだから、これが敬語に使われるのである。また、「たてまつる」の「たて」とは、はっきり見えるように物の姿を見せる意であり、「まつる」とは、神や人に物を差し上げるのが原義である。

このように、日本語の敬語は、自然に物事が成立したとする形を使ったり、あるいは、上下の関係においての物の授受の言葉でそれを表現することが多い。
「たてまつる」とか、「たまふ」の形で現在でも尊敬、謙譲を表わすのは、やはり、畏怖する神に物を供えて、その心を慰めようとした、日本の古い習慣が今日の敬語表現においても根強く残り、われわれがその起源を忘れてしまっても、なおかつ、それが見えない形で生きているということになるのだろう。







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