日本海側と太平洋側を比較して足りないものや差別があるのか考える

1.ナホトカ号事件と信濃川の水
1997年の日本海側の正月は、ロシアのタンカー「ナホトカ号」の重油流出ニュースであけた感があった。とりわけ、総勢20万人といわれる人びとがひしゃくや素手で重油を汲みとる姿は、われわれ「技術大国」日本に住む者にとっては衝撃の映像であった。

そして、日本海側の人びとにはそのショックはさらに大きくなった。首相も認めたように、政府の事後の対応がきわめて鈍かったうえに、海上災害防止センターの2隻の油回収船のうち、日本海側には一隻の配備もないことがわかったからである。名古屋からドラム缶5000本の処理能力をもつ強力回収船がやって来たのは、事故から一週間後のことであった。

すでに新潟沖や丹後沖のタンカー事故に際して、こうした事態は十分予測・指摘されていたのに、結局、回収船のための50億円の投資はなされなかった。また、日本海側に用意されていた油吸着剤は全国の一割に満たなかった。

苛立ちのなかで、新潟県柏崎市議会では、「技術大国日本がひしゃくと素手で立ち向かう事態に腹立たしさを感じる」「油処理船が太平洋側にしか配備されていないのは日本海側軽視」とする政府への意見書か採択された。

福井県を取材したドイツ紙は、「汚染された沿岸にある15の原発に張られたオイルフェンスが、原子炉の冷却水を流出重油から十分に守らなければいい。原子炉が十分に運転できず、大阪や東京の灯が消えればこれらの地域も重油被害について認識するだろう」という地元旅館主の批判の声を紹介している。事前の備えの欠如と事後の対応の鈍さのなかに、日本海側の人びとは太平洋側との格差・差別をみたのである。

もう一つ、最近の例をあげよう。東京の山手線のラッシュアワー時に2~3分おきに走る電車を動かす電力に、JR信濃川発電所の電力が利用されていることはあまり知られていない。戦前に旧国鉄が契約を結んで新潟県中里村に信濃川の水を引いてダムを造り、3カ所の発電所で約45万キロワットを発電し首都圏に送電しているのだ。

このため信濃川は農業用水の取得が制限され、鮭や鱒も上ってこれなくなり、漁ができなくなった。現在JRか信濃川から取水する水量は毎秒317トン、この結果下流に流れる水は毎秒わずか7トン。信濃川はやせ衰えてあおみどろが浮かび、河床を露呈して、「死んだ川」になってしまった。

子どもたちは、教科書に出てくる「日本一の大河」と現実の信濃川とのあまりの違いに驚いているという。ダムの隣にある「世界一の豪雪都市」十日町市は信濃川からの取水ができず、豪雪の年には融雪水に苦しむ。同市の水道料は県下屈指の高さである。

このままでは川自体の保全が危機に陥ると懸念した建設省北陸地方建設局は、95年3月、「信濃川水系河川環境管理基本計画」を策定、少なくとも33トンの流量が必要であるとした。十日町市民らは、「信濃川をよみがえらせる会」を結成し、97年6月、十日町市長ともどもJR東日本本社を訪ね、「ひん死の状態」になっている信濃川を救うためにせめて33トンの放流を、と要請した。

この「住民として当たり前の要求」(「よみがえらせる会」会員)に対し、JR側は「驚きと戸惑い」(江川電力課長)を表明、「水量は減らせない」として、JR・建設省・十日町市による三者協議機関を設けてほしい、との要請も拒絶した。このほか、原発問題や水不足の問題など、日本海側に住んでいると、こうしたやりきれなさを感ずることは日常茶飯事のようにある。


2.日本海側のエネルギー供給基地
エネルギーの面では石油・電力の供給地帯であった。新潟県は国内最大の石油供給地であった。明治10年代に個人営業でおこなわれていた石油業は、明治20年代に入ると開発ブームが起き、中越の大地主が発起して設立した日本石油や尼瀬石油などの株式会社をはじめ、483の企業が族生し、明治末には内地産石油の70パーセントを産出するようになる。

新潟の石油が全国的重要性を帯びてきた1914年、日本石油本社は東京に移転された。工業化の進展とともに、電力に対する需要が増したが、明治30年代にはじまった水力発電が発電の主流(水主火従)として本格化するのは大正期に入ってからであった。

明治44年に8万5000キロワットに過ぎなかった電力需要は、第一次大戦後の大正8年には83万キロワットに、昭和初年には233万キロワットへと急増した。大正末から昭和初期の発電力をみると、60%前後を東京電力と関西電力が占めている。明治41年に東電が桂川水系からの遠距離高圧送電に成功したのを皮切りに、技術の進歩によって日本海側の水力発電所から太平洋ベルト地帯への送電が可能となったことが作用している。なかでも列島中央部山系を背にする豪雪地帯の新潟・富山は、長野とともに水力発電の三大県であった。

大阪にとっての富山県、東京にとっての新潟県は重要な電力供給源だったのである。富山県の発電能力は大正7年に1万キロワットを超え、全国の15%を占めたが、その後関西資本が進出して電源開発が進められ、発電量の70%前後が関西地方へ送られるようになる。同様に福井県の発電量の50%前後を関西電力、新潟県の発電量の50%以上を東京電力が占めるようになる。
側諸県は食糧供給基地となるとともに、エネルギー供給基地としての役割も大きくなりつつあった。以上が裏日本化の客観的基礎過程である。







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