風水で理想の土地として選ばれた京都など日本の都市について

1.風水で選ばれた地・京都
桓武天皇は、中国の古典に通じた学者の意見を集めて、都に最適の地を選ばせることにしました。そのため、風水説による都づくりがなされることになったのです。風水は科学的に説明づけられてはいませんが、当時の人びとは陰陽五行説にもとづくそれをきわめて合理的な原理だと評価していた。

風水に「四神相応の地」という考えがある。4つの方向をつかさどる霊獣がいる。北の玄武、東の青龍、南の朱雀、西の白虎である。玄武は山、青龍は河川、朱雀は湖沼、白虎は大道を好むという。
京都は北に洛北の山々をせおい、南に巨椋池をもつ。もっとも、巨椋池は近代に干拓されていまはない。そして、京都の東には鴨川があり、西には幹線道路である山陽道と山陰道が設けられている。
そのため、京都の地は風水のいう理想的な土地であることになる。

江戸が風水説の龍の穴に設けられているとのですが、東京(江戸)は四神相応の地ではない。東に荒川、西に中山道があり、のちに埋め立てられた溜池を湖沼とみられないこともない。しかし、北方の山はどこにもない。権力者がいかに自分に都合のよい風水の解釈を行なってきたかがわかる。

桓武天皇は、それだけでなく京都を長く繁栄させるための多くの呪術を施している。東西南北に巨石を祭る四岩倉をおいた。

北の山住神社、西の金蔵寺、東の東岩倉山(かってそこに観勝寺があった)、南の明王院比叡山が都の鬼門にあたる東北におかれたことは、よく知られている。そのほかに洛北の狸谷不動院の建立や、もとからあった上賀茂、下鴨神社の社殿の新たな造営も、鬼門を固めるためのものとみられる。陰陽五行説では、北東の鬼門から災いがくることになっているからだ。

さらに、桓武朝には武神である素美鳴尊を祭る大将軍社が4か所つくられている。これも、都を守る神とされた。


2.福岡と博多の奇妙な関係
玄界灘沿岸は、日本でもっとも大陸に近い位置にある。そのため、古くから朝鮮半島との交易のためのがいくつもつくられた
玄界灘沿岸に2つの大きな湾がある。博多湾と唐津湾だ。そこはいずれも良港となり、大陸との交通の拠点として発展した。『魏志倭人伝』は、3世紀に中国から邪馬台国にきた使者が、対島、壱岐をへてまず唐津湾に着いたという。

しかし、福岡平野は唐津平野よりはるかに広い。ゆえに、福岡平野の農業生産力を背景に交易権をにぎる有力な集団が出た。現在の福岡は九州第一の都市であるが、弥生時代以来そこは九州の中の最先進地であり続けたといえる。

最初に弥生人が日本に渡ってきて水稲耕作をはじめたあとだといわれる板付遺跡は、福岡市にある。
明治22年に博多側が博多市を強く主張したが、県の告示で福岡市と定められる。翌年、博多側は市会に市名改称を建議した。そのときの投票は13対13となり、最後に議長が福岡側に加担した。そのため、博多への改称はならなかった。

ところが、市制施行と同年に開通した九州鉄道の駅名は「博多」になっている。その名称は現在まで受け継がれた。これによって、いまに至るまで市名と駅名とが違う都市として福岡が続いていくことになった。







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