日本語が世界で有名になって外国語になった言葉|た行

1.だいみょう【大名】
「大名」とは語源的には、平安時代の荘園。国衛領の徴税単位にして土地保有の単位でもあった「名」に由来する。大きな「名」を保有する豪族的農民が大名であり、大きな「名」の耕作を請け負う有力農民は大名田堵と称せられていた。

鎌倉時代に入ると、大名は大きな所領を有して、数多くの一門。従者を抱える有力な武士領主をさすようになる。さらに室町幕府の下では地方の国単位で支配領域を形成しつつあった守護クラスの武士領主が大名と見なされ、さらに次代においては守護を打倒し、それにとって代わって広大な領国の主として君臨するにいたった新興の豪族的領主、いわゆる戦国大名がその代表的な存在であった。

江戸時代に入ると、大名とは領地石高が1万石以上の武家領主というように制度的に定義されるが、しかしこのような大名像は17世紀も半ば以降になって成立する比較的新しい概念である。江戸時代も初期のころには「大名、小名」と併称され、大名とは前代以来の流れを引き継いで、国を領有単位とする国持大名こそがその本来的なあり方であった。

一国規模での領有ということは、単に領地が広大であるだけでなく、国の支配に基づく固有の権限を手中にすることを意味した。これは律令体制における地方制度である国司と国街の支配機能を、鎌倉時代の守護が侵犯、継承していたことに由来するのであるが、その支配権の内容としては、国内の刑事。民事の裁判権、駅路・河川・市場などの管理権、一国全体の検地と土地台帳の作成権限、そして荘園。公領を問わず一国全体に臨時税である一国平均役を賦課する権限、などであった。

ことに一国平均役の賦課権は、国内にある私領。公領のすべてに一律課税をなしうる権限であったところから、財政上の意義についてはいうまでもなく、さらには、一国内に存在する有力領主を統御し、かれらを大名の家臣団に編入していくための有効な政治的手段として、検地の執行権と並んで大きな意味をもっていたのである。

つまり国の支配にともなう、このような固有の諸権限を獲得したものが大名なのである。それは単に広大な領地を領有する者というにとどまらず、自己の所領を支配する一般の武士領主とは次元を異にする、一国全体を包括的に支配する統治権的な性格を有した特別な領主であり、それに基づいて国内の武士領主のうえに君臨し、彼らを自己の家臣団として編成していったのである。

江戸時代に入ってから一万石以上を大名と称する呼称が定着していったが、そこでもなお国持大名というのは、他の大名に対して隔絶した権限と格式とを備えていた。徳川将軍に臣従の礼はとっていたけれども、なお客分的な性格を残した存在であった。加賀藩前田(102万石)、薩摩藩島津(72万石)、仙台藩伊達(62万石)、肥後藩細川(54万石)、筑前藩黒田(52万石)、長州藩毛利(36万石)、土佐藩山内(24万石)等々であり、俗に「国持十八家」と唱えられていた。

これら国持大名は、江戸城中における正月賀式を始めとする儀礼の場においてほかの大名たちとは異なる殊遇をうけ、領内支配においても独自性の強い藩法を有し、領地内の金銀銅の鉱山についても領有が認められており、そして多くの一般大名が免れなかった領地の移動である転封も、寛永年間(1624―44)以降は見られることがなかった、などの特性を有している。これら国持大名はまた、幕末・明治維新期に雄藩として大きな役割を呆たす大名たちであり、これらの存在を大名一般の中に解消してしまっては、その独自の意義を見失うことになってしまうのである。

さて江戸時代の大名の類別の基準としては、徳川将軍家との親疎の別を基準とする外様。譜代・親藩という周知の三分類があるけれども、これは江戸時代の呼称からするならば、むしろ家門。譜代。外様と区分するほうがよいであろう。

家門大名は徳川将軍家の親類筋にあたる大名で、家康の異父兄弟である久松氏から出た松山藩松平、桑名藩松平、二代将軍秀忠の兄である結城秀康の血統を引く越前藩松平、三代将軍家光の弟保科正之に始まる会津藩松平などがその代表で、さらにこのほかに家康晩年の三子(義直・頼官丁頼房)を始祖とし、徳川の家名を称する尾張・紀伊・水戸のいわゆる御三家が別格としてあった。

譜代は関ヶ原合戦以前から徳川家に臣従した大名をさすとされるが、同合戦以後でも家光の乳兄弟であった稲葉正勝やその親類の堀田正盛、四代将軍家綱の生母の弟である増山正利、五代将軍綱吉の生母の一族本庄宗資、綱吉の取り立てになる牧野成貞・柳沢吉保などもまた譜代に属する。

ただし徳川氏が三河の豪族領主であった古い時代から臣従して、数々の武功を立ててきた武将や、徳川氏が領国を拡大する過程の中でこれに服属して、その発展に寄与した武士領主で、のちに一万石以上にのぼった者たちは、譜代大名の中でも名門としての扱いをうけた。井伊。本多・酒井・榊原・奥平。小笠原などの譜代大名がその代表である。

外様大名はまず、既述の国持大名とそれ以外の中小大名とに峻別されなければならない。次にはその出自の観点から、中世以来の長い由緒をもつもの(島津・伊達・佐竹・相良・秋月・伊東・大関・南部・津軽など)と、織田・豊臣政権の下で取り立てられた大名(黒田・浅野・藤堂・丹羽・森・仙石・堀・片桐など、一般に上方衆と呼ばれる)とを弁別することも必要となる。

江戸幕府はこのような大名の複雑な類別を整理して、江戸城中における諸大名の控間(殿席ないし伺候席と称する)の区別でもって、諸大名のカテゴリーを制度的に確定した。すなわち大廊下席(いわゆる松の大廊下に沿った広間)に控える徳川御三家と国持大名の筆頭である加賀藩前田、大広間に控える外様国持大名と越前系家門大名、黒書院溜間の井伊・会津藩松平・松山藩松平など幕府の元老待遇の諸大名、帝鑑間の本多・酒井ら名門の譜代大名、雁間に詰めて幕府の老中以下の役務に従事することの多い稲葉・堀田・水野・安藤など「御役の家柄」としての譜代大名、菊間の一万石規模の小譜代大名、柳間の相良・南部などの中小外様大名、以上の七種に区分して取り扱っていた。

「大名」の語は日本の歴史を理解するキーワードのひとつとして諸外国に紹介され、現在、英語の辞書にはdaimyo、daimioの綴りで収録されている。また、スペイン語、フランス語、ドイツ語など、ヨーロッパ各国の辞書にも収録されるにいたっている。



2.たたみ【畳】
日本では、建物の床面の内、土間より一段高くつくって履き物を脱いであがる部分を、床と呼んでいる。畳は、板敷きとともに床の表面を構成する主要な材料である。しかし、畳が使われるようになった初期には、畳は板敷きの上で座る場所、あるいは寝るところに用いられる敷き物であった。

畳は、筵や毛皮など、座る場所や寝る場所に敷く敷き物を作る時に、数枚を重ねてとじ合わせることを「たたむ」といっていたからついた名称とも、あるいはそれらの敷き物をしまうときに、丸めてたたんでいたことから生まれた名称ともいわれている。古くは、貴人の場合、多くの枚数を重ねたところから、「八重畳」の名称が使われている。

古代の住居は、生活の部屋の床面が板敷きであったから、座る場合、あるいは寝る場合に、畳を敷いていた。「置畳」の名称から明らかなように、畳は持ち運び、置いて使った。伝世品としての最古の畳は、東大寺の正倉院に納められている、聖武天皇の使われた畳で、寝台である床に敷いて用いた。
現在も使われている、藁の畳床に商草を麻糸で織った畳表をつけた畳が使われるようになったのは、平安時代からと考えられる。

はじめは、板敷きの上で、座る場所、寝る場所に敷く敷き物であった畳が、上層階級の住宅で部屋の床面に敷き詰められるようになったのは、小さい部屋では平安時代の末ごろから、広い部屋では室町時代の末ごろからと考えられる。町屋や農家で敷き詰められるのは、江戸時代を待たなくてはならない。

このように畳は、江戸時代には住宅の部屋や廊下の床面を構成する主たる材料となり、板敷きの部分は、台所のような建物内の労働の部分だけになった。しかし、第二次世界大戦後に生活様式の欧米化が進み、部屋の中で椅子。テーブルやベッドを使う人々が次第に多くなってきたために、住宅では床面を板敷きとする部屋が、再び大部分を占めるようになり、畳敷きの部屋は、あっても象徴的な一部屋となり、また、ない家が多くなっている。

現在の畳は、しっかりした畳床の表面に、蘭草を織った筵を畳表としてつけ、短辺は畳表を裏ヘと巻き込み、長辺はまわし込まずに畳表を畳床の幅と同寸法に切り落として、布の縁で端部を包み込んでいる。

畳の寸法は、長辺およそ一間、短辺およそ半間の、およそ二対一の比例である。その中で、現在「京間畳」と呼ばれ、近畿地方で広く使われている、長辺が六尺三寸(1メートル90センチ8.9ミリ)短辺が長辺の三分の一である三尺一寸五分の畳だけが、規格化された畳である。歴史的にみれば、敷き詰められた畳の寸法は、次第に小さくなっている。

それは、畳の寸法が、建物を建てるのに使われた尺度である一間の寸法に連動しているからである。建築に使われた一間は、京を中心とする畿内(およそ現在の近畿地方)では、室町時代には、癬熙(一尺が30センチ3ミリ)の七尺であった。しかし、江戸時代に入ると六尺五寸が基準となり、武家や公家の住宅では、この一間を「京間」と呼んで用いていた。一方、同じ江戸時代に、江戸など多くの地域では、六尺の一間が用いられ、「田舎間」と呼ばれていた。庶民の住宅は、京間畳を基準にしていた畿内のほかは、田舎間によって建てられるのが普通であった。

京間畳の場合、部屋の広さは、畳数で決まる。それ以外の場合、部屋の広さは、部屋の四隅に立てる柱の心から心までの寸法で決まる。この寸法は、通常半間の整数倍である。従って、畳敷きの実質的な床面の一辺の長さは、半間の整数倍より柱の大さ分だけ短くなる。畳の寸法も、それだけ小さくなり、 一間の寸法および柱の大さによって畳の寸法がかわるので、家により、部屋により、さらに部屋が正方形でないと部屋の中での畳の位置によって、畳の寸法がそれぞれ違うことになる。

しかし、違っても、大多数は六尺に三尺あるいは六尺五寸に三尺二寸五分に近い内輪の数値をとっている。
以上のように、畳の形は、通常長辺と短辺の比が二対一を基本としているが、一辺およそ半間の方形の畳も、部屋の広さによっては必要であった。
畳には、蘭草の均一性を主たる基準とした畳表の質による上下があり、敷き詰められるようになるころまでは、畳の厚さも畳の格を示していた。畳の厚さと縁の意匠は、座る人の身分の上下を、目に見える形で示す手段であった。

現在でも、畳は、格の高い部屋あるいは建物では、白地に黒の九型の紋を模様とした小紋縁を使い、一般の黒い縁の畳と区別している。歴史的に見ると、もっとも格の高い経欄縁と呼ばれる色縞柄の縁の畳から、縁をつけないいわゆる坊主畳まで、畳には縁による上下の段階があった。

畳床は、稲藁を麻糸でしっかりと綴じ締めた厚さ一寸から一寸五分ほどのものが使われてきたが、戦後は、稲の刈り入れが機械化されて、藁が田で細かく切断されてしまうために、藁の入手が難しくなった上に、畳を敷く床面がコンクリートに変わったことも原因となって、人工的につくられたボードを組み合わせた畳床が、一般化している。
畳がヨーロッパに紹介されたのは16世紀末から17世紀で、ロドリゲス、フロイスら来日した宣教師たちの報告によってである。

フロイスは、『日欧文化比較』の中で、畳に関して、日本の部屋の床に藁のマットが敷かれていることと、日本人が部屋に敷き詰められた畳の上で寝ることを記録している。この見たままの文章に対して、ロドリゲスは、日本の家屋が決まった基準で建てられるのは、床面を覆う畳の規格が一定しているからであると、一歩すすんだ観察をしている。

更に、詳細な記録を残しているのはスペイン人のアビラ・ヒロンで、畳について、寸法が長さ8バルモ、幅が4バルモ、厚さが3―4デド、裏が厚い莫産、表は驚くばかりの丹念さで編んである蘭の筵で包んであり、まるでそのままの形で生まれてきたかと思われる、とのべている。記録全体は、これ以上に詳細で、ただ見ただけで書くことのできる内容ではない。一方、以上の建築に用いられる畳のほかに、近年は柔道の普及とともに柔道場のマットとして、畳は世界的に知られ、広まることになった。

柔道に用いられる畳は、基本的には部屋の床面に敷き詰める畳と同じ構造の畳で、縁のない坊主畳である。
現在、諸外国の辞典にみられる畳の説明は、柔道場のマットに限られている場合が多く、畳本来の用法である住宅の床面に敷かれる床の構成材であることを説明した例は数少ない。



3.ちゃのゆ【茶の湯】
大航海時代、日本を訪れたヨーロッパの人々は、日本を象徴するユニークな文化として、すでに茶の湯に注目していた。
キリシタンの通辞ロドリゲスは、 16世紀の日本文化誌ともいうべき大著『日本教会史』を著したが、そのなかで三章にも及ぶ詳しい茶の湯論を展開している。ロドリゲスの茶の湯の理解は実に深い。たとえば、堺の町衆(千利休もその一人であるが)の間にひろがったchanoyu(ロドリグスは、「スキ」という言葉と両方で表現している)について、こんな風に記している。この都市にあるこれら狭い小家(茶室のこと――引用者)では、たがいに茶chaに招待し合い、そうすることによって、この都市がその周辺に欠いていた爽やかな隠退の場所の補いをしていた。

むしろ、ある点では、彼らのこの様式が純粋な隠退よりもまさると考えていた。というのは、都市そのものの中に隠退所を見出して、楽しんでいたからであって、そのことは彼らの言葉で、市中の山居xicha no sankioといっていた。それは街辻の中に見出された隠退の閑居という意味である。

「市中の山居」という美しい言葉は、ロドリゲスのおかげで今知ることができるのだが、茶の湯が単なる礼法でも儀式でもなく、人々が日常の雑事を離れて、 一時の遁世の時間をもつ精神の解放空間であったことを、ものの見事に言い当てている。

ロドリゲスが『日本教会史』を書いたのは、千利休たちによって茶の湯の様式がほぼ完成された時期であった。しかし、そのころにはまだ「茶道」という言葉はなかった。茶の湯とか数寄とよばれていた。
やがて江戸時代を通じて、芸道としての茶の湯は形式性を強め、点前作法や道具の扱いについて煩瑣なまでの細部を整備した。その結果、茶の湯は茶道とよばれることも多くなった。ロドリゲスの時代から250年を距てて、幕末に日本へきた西欧の人びとの目にうつったのは、まるで、宗教の儀式のような茶の湯であったにちがいない。彼らは、茶の湯をtea ceremonyと翻訳した。

いつごろからティー・セレモニーが用いられはじめたのか、まだつきとめられないでいるが、たとえば明治10年に来日したエドワード・モースはこの言葉を使ちている。もっともその使用例は1886年(明治一九)に出版された『日本のすまい・内と外』のなかで、the tea-ceremonyとハイフンでつないで一語として用いている。モースは、実は茶の湯のよき理解者であった。明治10年代といえば茶の湯の人気が地に落ちた時期である。「日今形勢興廃競」という流行不流行の番付に、不流行の関脇にあげられているのが茶の湯。そうした世間の風潮のなかで、モースが茶の湯に好意がもてたのは不思議なことであった。

モースはこんな風にのべている。
茶の湯のことを何も知らずに、茶をたてるのをみると、まったくふしぎな行為のようにおもえてくる。茶の湯の作法は、無駄で、馬鹿げたことだらけにおもえるが、わたしが練習をかさねてみて、多少の例外はあるものの、その動作は自然で、簡単なものということがわかった。だから茶会につどう客も、 一見、緊張しているようにみえても、じつは、いつもまったくくつろいでいるのである。(『日本のすまい・内と外』)

なぜモースが茶にたいして暖かいまなざしがもてたのか。一つには、実際に茶の湯を学び、茶会に出席する経験があったのと、そのよき指導者皓川式胤がいたことがあげられる。第二の理由は、モースの愛する日本陶磁の発達は茶の湯なしには考えられなかったからである。モースは理論から本質に達する道筋のほかに、物と実践を通じて本質を把握する道筋を心得ていた。だから茶の湯のセレモニー的な側面にこだわらなかった。

モースとほぼ同時代に、ティー・セレモニーを事典風に解説したチェンバレンには、こうした視角が欠けていた。だから茶の湯のセレモニー的な面に目がとらわれている。チェンバレンの『日本事物誌』は書物としては面白いが、茶については、一応の解説ののち、「ヨーロッパ人にとって、茶式は長ったらしくて無意味である。一度ならず見学してみると、それは我慢できないほど単調である」といったぐあいに延々と悪口が続いている。

幕末以来、だいたい茶の湯はティー・セレモニーと訳されることが多かったが、茶の湯という言葉も使われなかったわけではない。
日本人の師匠が「チャノユ」という言葉で教えたから、著者たちの身についた言葉は「チャノユ」であったが、読者のことを考えると、やはりティー・セレモニーと併記せざるを得なかったのであろう。

チャノユにもティー・セレモニーにもとらわれず、別の表現で茶の湯を外国語で考えようとした人物が二人いる。 一人はポルトガル人のモラエス。もう一人は岡倉天心であった。

モラエスは「「茶の湯」は定義できるとすれば、その素晴らしい日本人だけに資格がある」といい、1905年に執筆された彼の著書はO Culto Do Chaと題されている。『茶の教養』とでも訳すべきか。岡倉天心が『茶の本』を出版したのはその翌年の1906年。このなかには、teaismあるいはteacult、茶人はteaistと記されている。この二人に共通するのは、ティー・セレモニーの語のなかに含められている「外国人の常識」を拒否する姿勢である。そして近年、あらためてchanoyuを世界に通用する言葉にしたいという考え方が、日本の茶道界の側からうち出されている。茶の湯にはたしかに儀式的な側面はあるが、それは茶の湯の本質へ至る入口の一つであって、そこで恐れをなして立ち止まってほしくない、ということから、セレモニーを忌避する。

日本最大の茶道流派、裏千家が英文の茶道機関誌CHANOYUを創刊したのが1975年であった。ティー・セレモニーではなく、チャノユという日本語で、その全体像を伝えたい、という意欲がここには強くあらわれているといえよう。



4.とうふ【豆腐】
豆腐の起源は、ふつう紀元前二世紀の漢の淮南王劉安の発明に求められていて、1993年にロンドンとアメリカのサンディエゴから刊行された百科事典もこの説をとつている。しかし実際はそれほど古くはないようで、篠田統によると唐末の九世紀ごろにはじまり、宋代になって一般的な食品になったとするのが妥当なようである。日本の文献に豆腐が登場するのは12世紀末で、そのころは奈良がこの食品の受容・製造の中心地であった。

もともと外来食品であった豆腐は、800年を経つうちに、純日本食品となった。起源地とのおそらくもっとも大きな差異は、中国では臭豆腐や醤豆腐といった豆腐の加工品が一般的であるのにたいして、日本では揚げ豆腐などの加工食品もひろくでまわっているものの発酵したものはなく、生の豆腐を基本とする点に求められる。豆腐はこうして日本の食品となっただけでなく、「日本食」の一つとして欧米に広まっていった。

これに関しては石毛・小山ほかが1980年にアメリカ西部ロサンゼルスでおこなった興味深い調査がある。それはアメリカ、日本、中国、韓国、イタリア、フランスなど7つのエスニック食についてのアメリカ人のイメージをさぐったもので、日本食に関しては上位を占めるテンプラ、スシ、清潔といった語群とともに、トウフはシャブシャブなど16の単語と全60語中の45位をわけあっている。興味深いのは、このトウフが、ロサンゼルスのアメリカ人が抱く中国食や韓国食のイメージとしてはあらわれないことである。

もっともロサンゼルスに初めて豆腐をもちこんだ(現地生産した)のは、中国人であった。この地で日本人による豆腐の製造がはじまるのは19世紀末とされるが、そのころでも多くは中国人の業者から買い入れていたという。それは発酵させていない生の豆腐であった。

アメリカに豆腐が普及するのは1970年代末以降である。1986年にニューヨークで出版された『世界の豆腐料理』によると、その理由として次の4つがあげられている。まず第一には、動物性脂肪やコレステロールを大量に含む現代の食事は肥満や心臓病の危険が高く、人々の間にはこれにかわる食品を求める気運が高まっていた。高タンパク、低カロリーでコレステロール・フリーである豆腐が、その代替食品として選択された。

二つめは、豆腐がさわやかな口当たりの良さをもつだけでなく、あらゆる香味・調味料を吸収する高い能力をもち、消化によい食品であることである。さらに高品質にもかかわらず安価であり、三つめには原料である大豆が家畜の餌として消費されることへの、世界的な視野にたった食糧問題の認識も重要であったとしている。この本にはあげられていないが、1970年代後半から80年代にかけてのアメリカにおける、いわゆる日本ブームも豆腐の普及に貢献したにちがいない。

健康食品としての豆腐の普及は、アメリカだけにとどまらない。動物性食品を多量に摂取するヨーロッパにおいても、これは注目の的となった。たとえば1980年代の中ごろのフィンランドでは、缶詰のトーフが出まわりはじめ、フィンランドの一般家庭では角切りにした豆腐を野菜サラダに入れて食すことが普及していった。それはサラダに混ぜたチーズの代替品としての利用である。この食べ方はフィンランド人の発明とばかりはいえない。チーズにかえてサラダに豆腐を用いることは、アメリカにも、フィンランド以外のヨーロッパにもみられるからである。

中国に起源をもつ豆腐(現代中国の標準語でトウフ)は、近・現代になっておそらく日本から欧米社会にひろまっていった。その一つの証拠としてドイツ語の辞書でも、トーフは日本語からの外来語として記載されていることがあげられる。しかし、だからといって豆腐がヨーロッパ全域にひろまり、食品として定着しているかどうかは疑わしい。少なくとも辞書によるかぎり、イタリア語、スペイン語、ロシア語には豆腐の項はみあたらない。

これらにたいして、豆腐が言葉としてはもちろん、食品として定着しているのは、東南アジアである。現代インドネシアでは豆腐をタフとよび、ミャンマーではトーフー、タイではタオフーという。これらの単語は、断定はできないものの、中国から直接うけ入れたのではないかと思われる。中国で豆腐が一般にひろく普及したとされる宋代は、東南アジアとの交易が拡大し、この地へ多くの中国人が移住した時期にあたる。このころ、ベトナム北部の支配者の服装や飲食が、当時の中国のそれにきわめて近かったことも考慮してよいであろう。

韓国(朝鮮)もこの系統に属すると考えてよい。韓国(朝鮮)において、現在の食品構造が完成するのは高麗時代の後期、13世紀から14世紀にかけてといわれ、このころに豆腐が登場したらしい。鄭大鷲はそれを元との交流に求めている。なお、現代の韓国語では豆腐はトゥブと発音する。
豆腐とともにネギや豚肉を入れ、味噌で味をととのえたトゥブチゲ(豆腐鍋)は私たちにもなじみの一品である。


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