日本語が世界で有名になって外国語になった言葉|さ行

1.さむらい【侍】
「サムライ」は、現役の日本語だろうか。私は、この文章を書くために、小学校六年生の娘の友達に「サムライ」とは何を意味しているか聞いてみた。私の娘は、つね日頃この言葉を聞いているから、平均的な小学生とは言えない。

結論は、私にとってショッキングなものであった。現役の小学校六年生にとって、「サムライ」は死語である。「武士」は知っているが(少々頼りないイメージしか持っていないが)、「サムライ」は知らないのである。教科書(『新編新しい社会(6上)』)と、社会科資料集を通読した。ちょうど、日本の歴史を勉強することになっている、この二冊の教科書には、「サムライ」という言葉は、一回も出てこない。日本における若い世代の「サムライ」離れは、こんご加速化されるのかもしれない。

歴史教育を論じるのがこの文章の目的でないが、外国語になったのは、「ブシ」ではなく「サムライ」であったというのは、この問題の複雑性を物語っている。そもそも、「サムライ」という音は、その出発点から日本語であったかという、根本的問題をはらんでいる。国語辞典や百科事典の記述を総合して、日本における「サムライ」という言葉の成立の過程を、整理しておこう。

「サムライ」は、「さむらひ」「さぶらひ」「さぶらい」に由来し、君側に仕える意の「さぶらふ」(侍、候)の連用形の名詞化であることは一致している。ばくぜんと君側に仕える者という意味が限定されていき、貴人の警護に当たる、帯刀をした武士の意味になっていく。これは、日本の歴史の常識的教養というものだろう。ただ、これらの言葉が、いつ「さむらい」になったのか、明確ではない。

『大言海』では、室町以降としているが、江戸時代でも、多いのは「さぶらひ」であって、「さむらい」ではない。はたして、江戸時代の人々は、「武士」を「さむらい」と呼んでいたかどうか、心もとないのである。「さぶらひに蠅を追はせる御馬哉」(一茶)。言語学に暗い私には、文字に表記されているものと、当時の人がどのように発音していたのか、その関係がわからない。

1727年出版されたケンペルの著書には、現代的意味での「サムライ」がSAMURAIというスペリングとともに出現する。まだ、標準日本語などなかった元禄期の日本からSAMURAIという音を、ケンペルはどのようにして、拾い上げたのか。『日葡辞書』といいケンペルの『日本誌』といい、「サムライ」という発音が、九州弁であった可能性を、九州人である私としては、ロマンティックな感情的偏見を追求したいという誘惑に駆られていることを告白しておく。

ケンペル以来、「サムライ」はスペリングの少々のふらつきはあったものの、西洋語の世界では安定している。ある時は、刀を帯びた、しかしながら洗練された教養を持った封建社会の支配的階級として、またある時は、刀を帯びているがゆえに、ブルータルな日本人そのものの象徴として、「サムライ」はイメージされてきた。それは、たんなる「サムライ」イメージの二重構造のみならず、日本人そのものに対する二重イメージの集中的表現である。

しかも、興味深いことには、西洋人の、「サムライ」=日本人のイメージのみならず、日本人が西洋に対する自己演出としても、明治以来利用されてきた。横浜の居留地の「サムライ商会」などは、その初期的な例である。現在でも、円建て債券を「サムライボンド」という。

「サムライ」という言葉は、日本と、主に西洋の国々との関係の中で、生成発展してきた、まだ現役の言葉なのである。「サムライ」は、決して孤立した言葉ではない。その周囲には、それに連動した言葉の群れが随伴している。思い付くままにいくつか書いておけば、「タイクーン」(将軍、実業界の巨頭)、「ハラキリ」(サムライの名誉の死、切腹)、「ブシドー」(封建時代の日本のサムライ戦士の名誉に関する成文化されていない倫理)など。これら、一つ一つの言葉が、外国語になった日本語であり、その中心にあるのが「サムライ」なのである。

戦後には、「サムライ」に「日本陸軍の将校」という意味が、加えられた。第二次世界大戦の、陸軍の野蛮な軍事的冒険主義を反映したものであろう。中国語には「サムライ」はない。韓国語には「サムライ」はある。もっとも野蛮で、残酷な軍人というイメージを持つ。秀吉の朝鮮出兵と、日本の植民地統治時代の歴史的体験が凝縮されたものであろう。西洋語の「サムライ」の二重イメージが、そこにはない。

「サムライ」の現在を考えておこう。西洋において、「サムライ」は「戦士」に接近してきているように思われる。「サムライ」から武士道を切り離してしまえば、「戦士」という側面が強調されざるを得ない。日本のテレビゲーム・ソフトに「サムライ・スピリッツ」というものがあるが、天草四郎や服部半蔵や青竜刀を振り回す中国人や、「ニンジャ」に憧れたアメリカ人の格闘家やジャンヌダルクを思わせる女騎士が刀で戦うゲームである。宮本武蔵や企業戦士のイメージの延長上に誕生した、新しい「サムライ」像である。たんなる「戦士」としての「サムライ」は、「ニンジャ」や「ローニン」と非常に近しいものになりつつある。

私は、これらの新しい動向を、「サムライ」が日本の文化から独立して、コスモポリタン的な言葉になりつつある現象かもしれないと考える。日本の若者が伝統的な「侍」を忘れていき、カリフォルニアから出てきた、アメリカ発の「サムライ」が普及し、それが日本に導入される。「サムライ」は新しい段階にまで進化しつつあるように思われる。そのうち、日本人は「サムライ」は英語起源の言葉だと考えるようになるのかもしれない。



2.しあつ【指圧】
指圧はあん摩、マッサージとともに、身体の表面から手指や手掌によって圧迫刺激を加え生体の変調を矯正したり病気を治療することを目的とした手技療法である。しかし指圧は、奈良時代に中国から伝来したあん摩や明治期に西洋医学にともなって導入されたマッサージと区別される。指圧はそれらの手技をとり入れるとともに、導引、柔道活法や鍼灸の経絡や経穴の理論などを基礎にした独自の手技として昭和初期から普及しはじめた。

しかしようやく戦後になり、「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」(1947年公布)によって、指圧は手技三法の一つとして法的に認可されるにいたった。指圧という新たな名称は、あん摩が江戸時代から主に視覚障害者の生活手段として慰安娯楽の術に堕して古来の治療法としての地位を失っていくなかで、病気治療を目的とする手技を確立する運動のなかから生まれてきた。

それはアメリカにおいて、カイロプラクティックやオステオパシーなどの用手療法(整体療法)が、ながらく近代医学の補助手段であったマッサージから差異化した治療法として登場してきた過程といくらか似ている。日本における指圧の確立と普及は、伝統的な手技療法の改革および西洋医学への反省から形成されてきた近代的な医療現象といってよいだろう。

指圧療法が世界各地に伝わり、shiatu」という名称が定着したのもそれほど古くはなく、第二次大戦後である。マッサージやカイロプラクティックなどの用手療法は、すでに大正期の日本の治療者たちによってその技法の一部としてとり入れられてきた。他方、戦後アメリカのカイロ治療者たちのあいだでも、日本の指圧にたいする関心が高まっていった。

shiatuにという名称は、この時期から欧米においてマッサージやカイロの医療雑誌やさらに一般の新聞などにも登場するようになった。マッサージ、カイロ、オステオパシーなど新旧の治療法が競合するなかにあって、指圧は診断と治療およびその東洋医学的な原理と生命観においてまったく独自な治療法であることが多くの専門家のあいだで認知され、欧米では1950年代よりshiatu」という借用語がそのまま定着したと推測される。

そうしたなかで1950年代には、アメリカ各地で指圧を普及しようとする何人かの日本人指圧師があらわれた。その代表的な指圧師は北海道出身で戦前から東京に進出し、後に初の厚生省認可の「日本指圧学校」を設立(1957年)した浪越徳治郎である。浪越は、戦後まもなく1953年にアイオワ州のカイロ専門学校の招聘によってアメリカ各地で指圧講習会を開いた。折からアメリカは整体療法・カイロブームのさなかにあった。

カイロとちがって、患者の身体に手を触れてその歪みや機能変調を即座に診断し、ただちに治療をやってのける浪越のオリエンタル・マジックのようなパフォーマンスに多くのアメリカの治療者や観衆は魅せられたようである。浪越がおこなった各地の講演や講習会では、「シアツ・ワンダフル!」の歓声がわき起こったといわれ、多くのメディアにとりあげられた。日本においても彼は1968年からテレビの「アフタヌーンショー」にしばしば出演し、健康法タレントのはしりとなった。彼は両手の親指をかかげて「指圧の心母ごころ、押せば生命の泉わく」という指圧賛歌を高らかに唱えながら指圧ブームをまきおこし、指圧を家庭でもできる健康法として広めるのにおおきな役割をはたした。

指圧はその病気観、生命観において東洋医学に基礎をおくものだが、指圧師たちの治療法はきわめて多様であり、それは海外で受容された指圧についての言説と実践にも反映している。久司道夫は1960年代中ごろからアメリカで活躍し、中国起源の導引(呼吸・運動法)の技法を体系的に指圧療法に導入するとともに、後に述べるマクロビオティック健康法の指導者としても知られる。

また、浪越の長男の浪越徹はアメリカと日本を中心として、指圧とストレッチングを合わせた治療法を普及させてきた。 1970年代に入ると、アメリカなどではしばしば禅と指圧の二語を結びつけたzenshiatu(禅指圧)とよばれる指圧療法が登場する。1973年に浪越徳治郎が渡米したときには、大橋渉がニューヨークで「禅と指圧」という看板をかかげる道場を開いていたといわれる。

しかし、zenshiatuという言葉にこめられた実践理論は、増永静人が医療としての指圧を禅を含む東洋哲学によって基礎づけて以来、アメリカや西欧にひろまったものと考えてよいだろう。増永は京都大学文学部哲学科で心理学を専攻した後、指圧療法の世界に入りその発展に大きな足跡をのこした。彼は1977年にzenshiatuという英文の指圧療法教科書を刊行するとともに、香港、韓国、北米、西欧での指圧普及活動を熱心にくりひろげた。指圧療法がたんなる医療技術としてではなく、禅などの解釈学によって基礎づけられた東洋医学としての立場を獲得するにいたったのは、増永の功績によるところが大きい。

しかし、禅指圧といっても、それは禅仏教の教理と実践を指圧療法のなかに全面的にとり入れたものではない。指圧を含む東洋医学における生体エネルギー調整の技法では、近代科学とちがって生命現象を「陰陽」や「輪廻」による円環論理においてとらえ、生体を自然治癒力によって理解し治療しようとする。増永の禅指圧は、指圧治療を西洋医学から差異化し、そうした深い生命観に基づく病気。

身体にたいするアプローチと実践であることを強調する命名であったといってよい。指圧師は患者のうったえる具合の悪い身体の部位に手を当てて、「痛いのはこの辺ですか?」と探りあてる。密着した皮膚を介して術者と患者の双方の身体に引き起こされる圧反射によって感知される違和感を手がかりにして、診断(切診)と治療を同時的におこなっていく。

こうした「診断即治療」といわれる施術は、患者個人の身体が備えている自然治癒力を前提とし、彼我一体の生命共感の原理によっていることも、禅指圧とよばれる理由でもあろう。増永が主催していた東京の「医王会」で彼に師事した外国人指圧師の数は多く、彼らは禅指圧の概念と実践の技法をさまざまな方向に発展させることになった。

一方、欧米では1980年代ごろから、指圧は東洋医学とその世界観に根ざした養生法であるマクロビオティックと結合して新たな展開を見せている。玄米自然食による食養生を基礎とするマクロビオティックは桜沢如一によってすでに戦前に欧米に流布されたが、最近の健康法ブームのなかでふたたび急速に普及しつつある。増永らが主張するように、指圧が疾病治療法であるとともに病気にならないように心身を保つ養生法であるとするならば、こうした近年の指圧とマクロビオティックの接合も十分理解できるであろう。



3.しょうぐん【将軍】
征夷大将軍という称号は、794年の大伴弟麻呂への授与にはじまる軍隊の総指揮官としての官職であるが、通常は1192年に鎌倉幕府の初代将軍となった源頼朝以降、歴代の幕府の長に授けられた武門の棟梁としての称号を意味する。源家以降、足利、徳川両家は征夷大将軍という称号を用いて幕府の権威を正当化したのである。

西洋人は日本を訪れた最初期から、日本の支配者の実像をつかむのに非常な困難を覚えていた。戦国時代の混乱の中にあっては、これはある意味では当然だったのかも知れない。ザビエルは次のように述べている。「(日本人は)非常に好戦的な国民で、いつも戦をして、もっとも武力の強い者が支配権を握るのです。一人の国王を戴いていますけれど、150年以上にわたって彼に従っていません。このために、彼らのあいだで絶えず戦っているのです」(『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)。

徳川家康が江戸幕府を創設したころまでには、西洋からの来訪者も将軍の語を用いるようになってきた。しかし、同時に彼らが徳川将軍家をemperourとも称していたことは注目に値しよう。コックスは1615年の日記に将軍様、江戸の王という記述を残している。

またロドリゲスは1620年代に書いたと思われる書簡のなかでいったい誰が日本の支配者であるのかを決するのがきわめて困難であることを認めている。「また土地を所有していた者がその土地については生えぬきで本来正当の領主であると考え、また将軍xogunすなわち公方cuboは、彼らの守護していた土地を武力で占拠したのであって、真実をいえば王国を強奪した暴君であるのに、日本の国王であり指揮権者としての本来の国王であると考えた」(『日本教会史』)。

1603年の将軍宣下後も、西洋人は家康のことをemperour、kubosamaといった様々な称号で呼びならわした。家康が将軍の称号を得、その子息、秀忠がこれを継ぐさまをみたロドリグスは、古代以来の朝廷の官職の重要さを認識したことであろう。18世紀初期に日本を訪れたケンペルのころには、将軍の語は、さまざまな形で表記されるようになっていたが、聖なる支配者であるミカドがローマ法皇にたとえられるのにたいして、将軍は日本の軍事的にして現世的な支配者を意味するようになっていた(『江戸参府旅行日記』)。

ペリー来航より以前に、日本に滞在していたシーボルトは将軍職について極めて詳細な解説を残している。シーボルトは当時の幕藩体制を典型的な専制と位置づけ、神々の後継者で代理人である天皇はあくまで王国の名目上の君主であり所有者であって、これにたいして将軍は副官あるいは代理人であるとして、この二者に区別を設けている。

しかしながら、将軍、天皇のいずれも個人としては無力なものとしてとらえられていた。「将軍は、多くの著述家によって専制君主と見なされているが、彼が実は、彼の名目上の主君と同様に、殆ど実権はなく、公衆の眼から引き離されており、法と慣習の込み入った網の目にがんじがらめになっていることは、注意深く観察すれば必ずや明らかになろう」。

将軍と天皇の関係を巡る混乱は、ペリー来航時にも見て取れる。和親条約の締結を求める当時の合衆国大統領フィルモアの国書は、日本国皇帝に宛てられており、国書を持参したペリーは皇帝とは天皇をさすと考えていた。そのためペリーは、幕府の交渉役が条約に天皇の署名を得ることを断固として拒否する理由がわからないまま、不本意ながら、大君の署名と印を得ることとなった。これは、大君は過去数百年に渡って日本の外交文書に用いられてきた称号であるとする日本側の主張に従ったものである。

1845年のこの交渉録が大君という語が用いられた最初の例であろう。1859年、ニューヨーク・タイムズが、日本の天皇の崩御を伝えている。これは後に誤報であったことが明らかになり、撤回されたのだが、そこでは天皇が西洋との通商を始めることへの反意を示すために切腹したと報道された。

条約締結への不快感をあらわにするために、天皇が自殺を図ったと伝えられたのである。さて、この記事は次のように結論している。「長らく、君主というよりは一種の操り人形として大君に扱われてきた天皇の、この剛胆さは、日本人の多くに何か大きな変化が追っていることを感じさせたのである」。

オールコックは、その著書『大君の都』の中で、天皇は日本の世襲的な君主の地位にあり、名義上の統治者であること、大君は天皇の臣下であるにもかかわらず、事実上の統治者であること、そして各種の条約の批准には天皇の承認が必要なことを明らかにしている。明治維新のころには、将軍あるいは大君と、天皇という二つの言葉を巡る混乱は影を潜めていた。

天皇は大君に代わって、実質的にも日本の唯一の統治者の地位についた。駐日アメリカ公使であったヴアン・ヴアルケンバーグは新政府の先行きに不安を抱いていた。戊辰戦争の最中の1868年の末、彼は次のように記している。「現在の危機または革命は、日本の政治体制の完全な腐敗を自日の下にさらした。至る所で背信がみられる。ミカド方の大名たちが前タイクン方の大名たちよりも優れているということは非常に疑わしい。であるので、ミカド方の形勢が悪くなれば、今度はミカドが裏切られることになろう」。

新聞記者や研究者が明治維新の歴史や日本の脅威的な急成長を取り上げるようになるにつれて、将軍や幕府を意味するshogunateといった用語は、スタンダードな英語にも取り入れられるようになってきた。ほかにも、将軍に関連する事柄やその時代を表現する語としてshogunalが用いられるようになった。

グリフィスは、その著書『ミカドの帝国』の中で、将軍の歴史を広範に記述し、徳川幕府の歴代将軍のリストを紹介した。グリフィスは一三代将軍家定を条約文書にtaikun称号を用いた最初の将軍であるとして、慶喜を「歴代で39番目にして最後の将軍、徳川幕府一五代目にして最後の征夷大将軍、四代目にして最後のtycoon」と表現している。

1860年代初頭には、大君という言葉は、単に日本の将軍を意味するだけではなく、強力な権力者一般をさして用いられるようになった。実際、リンカーンなどは、その閣僚たちから親愛を込めて大君とあだ名されていた。しかし、現在tycoonという語は頻繁に使用されているものの、その派生語であるtycoonateやtycoonismは残っていない。

また現代英語においては、tycoonという言葉は日本語の原義をほとんど失っている。フィッツジェラルドの未完の小thelasttycoonが1945年に出版されているが、このころまでには大君の語に含まれる軍事的、政治的な意味あいは薄れ、裕福で強大な企業家や資本家という意味あいが基調になっていた。

事実、『タイム』誌には、しばしばbusiness tycoonという用例が見られるのである。他方、将軍の語は日本語の原義をとどめている。日本史研究の分野では鎌倉、室町、江戸各時代の将軍がそれぞれ言及され、幕府のことは今でもshogunateと呼称されている。

1975年に公刊され、後の1980年に12時間もののドラマともなったクラベルの小説『将軍』の人気ぶりは、将軍という言葉がいかに外国人の心に刻みこまれているかをよく語っている。今日、「将軍」の語は、徳川家康や彼以前の軍事的な実力者たちをさす歴史的な言葉として用いられてもいるが、より一般的には、強力な軍隊の将官――しばしば暴力的な傾向のある――をさす言葉として用いられるようになっているのである。



4.しょうゆ【醤油】
多彩なアジアの醤類(発酵調味料)のなかで、もっとも広く世界的な嗜好を獲得したのは醤油、ことに日本醤油だといっていいだろう。「醤油」は「醤の油」で、古代に穀類の発酵調味料を中国から学び、奈良時代の「醤」から発展して、得られた液状の濃厚なものが「醤油」の名で呼ばれるようになった。

「醤油」という語が始めて使われるようになったのは16世紀の終わりごろで、わりに新しい。この時代の醤油がどんなものだったかについてはわからないが、中国からヒントを得てから数百年、日本でかなり独自の発展を遂げた結果であることはたしかといえる。「醤油」がヨーロッパ人によって記載された最初は『日葡辞書』であろう。1603年に日本イエズス会から刊行されたこの辞書にはxoyuという項があり、「酢に相当するけれども塩からい或る液体で、食物の調味に使うもの。別名sutate(貴立)と呼ばれる」と説明している。

この時代は日本の醤油が急速に完成に近づいていたころだった。「費立」は円筒形のザルで、味噌や醤油もろみのなかに立てて中に染み出してたまる液(溜り)をとるもので、こうして得られる溜りも費立と呼ばれていた。イエズス会士たちはこんにちの醤油の前身である「溜り醤油」を描写しているのである。

次に醤油がヨーロッパの歴史に登場するのは17世紀になって、出島貿易の一つとしてオランダ人の商人が醤油をフランスにもたらし、そこでたいへん歓迎されたころである。このときに醤油の容器として使われた陶器の瓶「三合入り程の徳利」(万延元年〔1860〕の日米和親条約批准使節柳川当清の日記)の多くには上部にJAPANSCHZOYAと書かれていた。切れ目がないのではっきりしないが、現在のオランダ語辞書にはzoyaはなく、醤油はsojaとなっている。いずれにしてもこれが、ヨーロッパで人々が醤油とその名を知った最初だった。17世紀の中ごろ以後のことである。

醤油はルイ王朝の宮廷や貴族の宴会でもてはやされたようである。ルイ14世から50―60年後に出たデイドロ編纂の『百科全書』にはsoiという項目があって、「……日本でつくられた一種のソースで、……フランスにはオランダ人によってもたらされた。……このソースはすべての肉料理の風味を引き立たせ、……ごく少量を加えることによって料理のベースとなるソース、またルルヴェと呼ばれるメイン・ディッシュに、深い味わいを与えてくれる」と評価している。

また、中国産の醤油にくらべて日本産の醤油は肉料理に「深く豊かな滋味を付与してくれる」ので、日本の醤油のほうがすぐれている、と称賛している。1960年版の『ラルース料理百科事典』にはsoiもなく、大豆のソースまたはエキスという項で、煮た大豆の煮汁にショウガやアンチョビーのビュレを加えて、あぶった大豆の大を煮る、など、発酵という手順が書いてないので、むしろ中国醤油のことのように見えるが、「料理の風味を高めるために使われる。このエキス数滴を野菜スープに加えるといちだんとおいしくなる。また、ソースや煮込みにこくをつけたり、サラダの調味料としても用いられる」と書いており、醤油が重要視され、愛好されている様子を物語っている。

現代英語ではsoy、soyaなどと書かれ、soybean(大豆)は「醤油の豆」という意味である。
アメリカでは醤油は大平洋戦争終戦までは日系の人々が使うのみであったが、戦後、醤油が肉料理に合うことが認識され、メーカーの大きな努力もあって、急激に普及した。1972年(昭和四七)にはキッコーマンの現地工場(ウイスコンシン州ウオルワース)が発足し、全米に醤油を供給するようになった。このころには醤油はアメリカだけでなく、オーストラリア、ヨーロッパ各地、それにアラスカの寒村にまで現れ、スーパーマーケットの棚に座を占めるようになっていた。

濃口醤油だけでなく、ライト(薄口)、マイルダー(減塩?)などがあり、テリヤキソース、サシミソース、スキヤキソース、スシソース、テンプラソース、ステーキソース、スイート・アンド・サワー、サワー・ソースなど、用途に応じて醤油ベースのソースが幅を利かせており、消費者は的確に使い分けているようだ。

テリヤキは肉類の付け焼きのことで、日本では肉類についてこういう呼び方はなく、料理と名が外国で一人歩きしている感じである。テリヤキソースは日本でいうバーベキューソースにあたる。名が日本語と英語で逆転しているのがおもしろい。

スイート・アンド・サワーは「スターフライ(かきまぜ炒め)」という野菜炒めに使う甘みと酸味のあるソースで、重宝されて目下のところ、魚書類(ニョクマムなど)、味噌類、醤油などの多彩なアジアの発酵調味料のうち、世界進出という意味では醤油が独走している。このことについては、醤油の香気成分の一つとして、欧米人になじみがあるバニラの香りの主成分であるヴァニリンが含まれているためではないかという考察がある


5.すきやき【鋤焼】
すき焼きは子どものころのご馳走中のご馳走であり、もちろんみんな大好きであった。だから漢字で書けば「好き焼き」と書くのだと思いこんでいた。「鋤焼」と書くのだと知ったのは大人になってからであるが、その説に、実は今も納得しかねている。
すき焼きの漢字に、大槻文彦の『大言海』は「剥焼」と「鋤焼」、ふたつの漢字をあてている。

説明としては、肉を鋤の上で焼いたところからきたともいう、としたうえで、薄切肉(すきみ)に醤油をつけて焼くことである、としている。小学館の『日本国語大辞典』でも、「鋤焼」と「剥焼」とふたつの漢字をあてているが、「鋤焼」を説明のメインにし、 一説にすきみの肉を焼くところからとも、と補足している。そして江戸時代後期の洒落本のなかの「鋤焼」の用例を紹介している。
語源はそうかもしれないが、鋤の上であのように煮込めるか、という疑問が残る。

京都の三嶋亭といえば1873年(明治六)から続くすき焼き店の老舗だが、同店では初めから牛鍋とは呼ばずに、すき焼きと呼んでいたという。関西では、関東のようにはじめから牛肉と野菜とを一緒に煮込むのではなく、先に牛肉を焼いて食べるからだ、と説明している。鍋物でも「焼き」と称する所以である。

OEDは、すき焼きが「薄切り牛肉を野菜とともにフライし、砂糖と醤油で味付けし、米飯とともに供する日本の料理である」との簡単な説明のあと、その最初の収拾例として、1920年のjapan advertiserをあげ、「この料理(鍋)の、東京以外で知られている名前はすき焼きであり、sukiは鋤のことで、yakiは焼くことからきている」としている。それに対して、米国のの語源は薄切肉(すきみ)である、と説明している。

石井研堂の『明治事物起源』も、「牛肉食用の始」の章をもうけ、明治の初年に牛鍋店ができて、最初はひとが寄りつかなかったが、急速に普及し、明治四年には大流行したことを紹介して、外人がスキヤキと言って註文する、とも書いている。どうやら「牛鍋」という言い方よりも「すき焼き」とよぶ方が、西洋的、外人好みであったようである。考えてみればスウキイはスーザン、スザンナの愛称であり、うしろのヤァキィも前と韻を踏んでいて、リズミカルでおもしろく、英語的で親しみやすい。いつのまにか「牛鍋」という呼び方より「すき焼き」という呼び方の方が優勢になったのは、滞日西洋人が「スウキイ・ヤアキイ」と呼んで、広めたからにちがいない。

すき焼き店が日本国内だけでなく、米国の諸大都市にも戦前からできていたことが、OEDに紹介されている用例からうかがえる。すき焼きは対外的に日本を代表する料理として知られるようになった。その結果、日本といえばすき焼きを連想するほど、強いイメージ結合をするにいたった。

坂本九の歌った「上を向いて歩こう」(永六輔作詞、中村八大作曲)が、1963年に全米第一位の大ヒットをしたのは、日本の歌であるらしいが題名も歌詞もわからないという米国のラジオのDJによって、「スキヤキ」という名で紹介されたことがきっかけという。イメージ結合の結果である。この歌は1994年に4pmという米国のグループがITS because of you で始まる英語の歌詞で、再び大ヒットさせた。

いまsukiyakiというと、料理のすき焼きよりも、4pmで再度有名になったこの歌を思い浮かべる人も多いわけである。ジャカルタ日本文化センターの高橋裕一氏も、「スキヤキという言葉は、「上を向いて歩こう」という歌を示すことがある」と知らせてくれた。

「スキヤキと言った場合タイスキと勘違いすることはあるかもしれません」と教えてくれたのは、バンコツク日本文化センターの宮田浩司氏である。フォト・ジャーナリストでアジアの食にも詳しい森枝卓士氏からも同様のご教示を受けた。氏によるとタイスキというのは、真ん中が円筒形に出ている鍋にスープを煮立てて、そのなかに魚介、野菜、肉など好みのものを入れ、熱が通った頃合き に摘み出して、ナムプラー(魚醤)、トウガラシ、パクチ(香菜)、オイスターソースなど、好みのタレにつけて食べるもので、30年くらい前からはやりだし、「タイ式すき焼き」から「タイスキ」になったのではないか、とのことである。

すき焼きが諸外国の辞書に載っているのは、先に挙げた英国、米国の大きな辞書、そして豪州ぐらい(嘉数勝美氏・シドニー日本語センター主幹による)なもので、ほかの 12言語の辞書、たとえばフランス語のラルースに寿司は登場しても、すき焼きは登場しない。

日本料理の代表として海外に知られていると思われているのが、「寿司」「天婦羅」「すき焼き」であるが、そのなかでも知名度には大きな差がある。インターネットのaltavistaで語彙検索をかけると、sushi、tempura、sukiyakiの比は、およそ18万件¨8千件¨4千件で、圧倒的に「寿司」が多く、「天婦羅」「すき焼き」の順である。「すき焼き」は「寿司」の46分の1しか使われていない。それくらい伝播・普及力の差がある。

「寿司」については別項に詳しいので、ここでは「天婦羅」について、補足的に言及しておく。「天婦羅」はポルトガル語か、イスパニア語からきた外来語で、それが海外に日本語語源の外国語として再輸出されたということは誰でも知っている。OEDにもウェブスターにも日本語語源としてちゃんと載っている。しかし、意外なのは日本語のほうの語源が定まっていないことである。「すき焼き」にせよ「天婦羅」にせよ、納得できる語源を決めるのが、いちばん難しいようである。



6.ぜん【禅】
「禅」という言葉は、英語の中に、仏教や瞑想ばかりでなく日常生活、料理、精神統一、あるいはスポーツや娯楽についてまでも登場する。今、まさに英語として生き生きと使われている言葉である。たとえば「オートバイ整備の禅」といったタイトルの本もよく売れているという具合である。こうした受容のあり方のいくつかは、1960―70年代のアメリカやヨーロッパでおこった、いわゆる「禅ブーム」に関係しているが、同時に、仏教やアジア地域全般への関心と理解が着実に高まっていることや、ヨガや瞑想、ストレスの軽減と精神統一療法について、近年関心が向いていることと関係している。

「禅」は時に、仏教徒の感覚として明確に定義される。またほかに用いられるさいには、きわめて漠然と、無意識の卓越した神秘的内面もしくは体験のことをいい、または直感的もしくは逆説的なことをさすことがある。

興味深いことに禅(中国語ではチャン)がもっぱら日本から西洋に持ち込まれただけに、西洋では禅という用語は中国語というよりは日本語として受け入れられていることである。禅や座禅、悟り、公案などといった日本語の単語は、中国語のオリジナルの言葉よりしっかりと英語のなかに根をおろしており、専門家だけでなく一般にも広く使われる言葉として知られている。

ポルトガルやスペインのイエズス会の宣教師たちは16世紀に日本を訪れたさい、仏教の制度が幾多の寺院、尼寺、そしてさらに多くの僧侶をもつ、非常にしっかりと確立された組織であることを知った。人口の大部分、上は大名から下は農民、そしてその下の階層に属する人々までが、仏教の信者、もしくは檀家として組織されていた。16世紀日本においては仏教は、キリスト教会が中世ヨーロッパで果たしたのと同じ役割を果たしていた。ザビエルがキリスト教へ人々を回心させようとしたことは、そうした人々の心と精神にとって敵対する行為であった。

しかしイベリアの宣教師たちの側からみれば、彼らは良い時期に日本へやってきた。当時、仏教、とくに武装した古い寺院や浄土真宗が織田信長の攻撃を受けていた。信長は、仏教への対抗勢力として宣教師たちの活動を容認しようとしていた。そうしてイエズス会の宣教師たちは安土城に招かれ、長崎や京都や他の都市に神学校を建設することを許されたのである。宣教師たちの努力は、16世紀半ばに豊臣秀吉がその活動に疑念を抱くまで、急速に実を結んでいった。

宣教師たちは、仏教の僧侶たちをほとんど評価しなかった。彼らは信長と大名に、こう語った。
仏教の坊主たちは無知で怠惰で堕落しており、妾を囲い、男色にはしり、百姓たちを食い物にして、武器を取って支配者たちに刃向かっている、と。イエズス会士たちは、しかしながらその一方で、禅僧たちにたいして、かなりの敬意を抱いていた。彼らは禅僧たちを、精神的な、そして知的な恐るべき敵対者であると感じていたからである。

江戸時代には仏教と禅に関するいくばくかの情報が、長崎からオランダを経由して西洋へ流入した。ケンペルの『日本誌』(1727年)は、禅を含む種々の仏教宗派とその信者たちについて描写している。禅は江戸時代を通じて一般のみならず多くの大名の経済的援助と支持をうけてきたので、西洋の宣教師が1860―70年代に日本で再び活動を始めた時、日本仏教における不可欠な、そして影響力がある宗派のひとつとなっていた。彼らは臨済宗と曹洞宗、黄槃宗の区別にも目を向けている。

そしてこれらの言葉も、英語へと流入した。京都や鎌倉の大きな寺院にある、瞑想のためのホールすなわち禅堂は座禅や公案など厳しい瞑想の訓練を与える点で士族や農民の子弟の心をひきつけていた。明治期の日本において、西洋からやってきたキリスト教の布教者たちはあらゆる仏教に敵意を持っていたけれども、多くのヨーロッパ人とアメリカ人は仏教全般、とくに禅と浄土に興味を持っていた。

禅の師家のもとで座禅を組んだり公案の研究をした者は、おそらくはほとんどいなかったろうが、彼らの多くは日本の美学と茶の湯にたいして禅がもたらした影響に気づいていた。また武士道が禅の影響力の下にあることにも気づいていた。チェンバレンの著書『日本事物誌』(1890年)には、日本の仏教に関する章がある。そこで、彼は次のように書いている。
中国や朝鮮の仏教は、日本に来たころはすでに多くの宗派に分れ、それがさらに分れていた。

その宗派のすべてが、その教えにおいては、より純粋で簡単なセイロンやシャムの南方仏教とはひどく違ってきていた。日本仏教は、いわゆる「大乗」(サンスクリット語でマハヤーナ(大きな乗り物))〔北方仏教〕に属する。これはもとの仏陀の教えに、多くの正当と認められないものを附け加えている。

現在日本にあるもっとも強力な宗派は、天台宗、真言宗、浄土宗、禅宗(これは中国起源である)、真宗(一向宗とも門徒宗とも呼ばれる)と、日蓮宗(法華)である。最後の二つ〔真宗と日蓮宗〕は、日本で13世紀に発生した宗派である。日蓮宗はもっとも偏狭で、真言宗はもっとも迷信的である。門徒宗は新教〔プロテスタント〕とくらべられる。なぜなら、これは僧侶の結婚を許し、阿弥陀だけ信ずればよいという教義を教えているからである。

禅宗は、日本社会学を研究する者にとってはもっとも興味ある宗派である。それは詩と芸術の発達に密接な関係をもつからである。
禅宗にたいする西洋の理解は、少なくとも1950年代ごろまでは、やや浅いものであって、知的な関心にとどまっていた。『禅』がまだ英語の中でそれほど強く定着していなかったということを示している。この状況は二つの関連あるプロセスによって劇的に変化した。

まず、鈴木大拙が本や講義を通して禅宗、とくに臨済禅を唱導したこと、そしてふたつめには、1950―60年代にかけて鈴木大拙の本で学び、禅寺で真剣に座禅を組み、公案を研究するために日本に渡ったヨーロッパやアメリカの製若者が、実際に禅を体験したことがあげられる。詩人のアラン・ワッツをはじめ、カウンターカルチャーを求める多くの若者たちは、禅を普及させ、禅のグループや宗教的なコミュニティーを作るために結局、アメリカやヨーロッパに戻ってきた。

また、日本の禅の師家を「老師」としてアメリカヘ招待したケースもある。このことが70年代の禅ブームの土壌となったのであり、この中でzen、rinzai、sato、roshiそしてmuなどが、英語として確立したのである。現在、世界中で禅寺や禅センター、zazenkaiが活動を続けている。その多くが、ニューズレターを出している。

禅に関する本には、学問的なしっかりとした流れがある。一方、禅はインターネットにおいても広く取り上げられている。私が最近カウントした結果では、禅と関連がある英語のウェブ・ページが世界中で五千件以上にのぼる。これらのウェブ・ベージの多くが、zazen、koan、satoriといった言葉を、特別な解説を施すことなく用いている。想像するに、インターネット上で情報を探す人々にとって、これらの言葉は容易に理解されるものなのであろう。


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