日本語が世界で有名になって外国語になった言葉|な行

1.にせい【二世】
「一世」がなければ「二世」はなく、二世があれば三世があるので、まず「一世」の定義から始めよう。「一世」はもともと第二次大戦前に外国へ移民として渡った日本人を指すので、「二世」は当然その子供たちのことである(しかし、アメリカでは英語でfirst generationといえば移民のアメリカ生まれの子供、つまりアメリカ生まれの第一世という意味で使うこともあるので要注意)。 一世はほとんどが1920年以前に移民し、子供たちも第二次大戦以前に大半が生まれている。

早期の二世は戦前に結婚し、三世である彼らの子供たちも戦前、戦中に生まれたものもあるが、ほとんどの二世は戦中ないし戦後結婚し、三世世代は戦後、それも1960年代以降といってよい。
このように一、二、三世の世代間には時代的ギャップがあり、人ロピラミッドには世代間に大きなくびれが明確に見える。

一世は戦前および戦後20年間もっとも活躍し、二世が成入しもっとも活躍したのは1940年ごろから1990年ごろまでである。以下、北アメリカにおける二世を中心として論じる。
日本人であり天皇崇拝主義をたたき込まれた一世に育てられた二世は、日本の文化的要素を吸収しながら、忠誠心は確固としてアメリカ国家にあり、親たちの日本国家への忠誠とは一線を画した。

だからこそ1942年の米軍部による日系人の西海岸からの強制立ち退き、収容所への隔離が大統領命令で執行された時、二世たち、ことに彼らの政治団体である日系市民協会は全面的にまた、積極的に協力した。また、この「120パーセント」といわれた忠誠心があったからこそ大戦中収容所からでも志願し、ヨーロッパ、また太平洋戦線で抜群の活躍をしたのである。二世によって構成された四四二部隊の総授勲数は第二次大戦中最多であったといわれている。

このように、アイデンティティーとしては揺るぎなくアメリカ帰属を示しながら、日常生活では日本的なものを今ながらかなりもっている。とくに食生活ではそれが顕著で、日に一回はご飯を含む和食を食べる二世は少なくない。正月のお餅も彼らにとっては欠かせない食品の一つであり、外食をすれば日本食レストランヘ足が向く。自宅には日本人形や日本をモチーフにした額など、日本文化を思い出させる装飾品が何らかかざってあるのがごく普通といえる。

まだ一世たちが健在で日系人社会の指導者であったころには、一世たちとの会合もあり、英語力の弱い一世たちとの会議では勢い日本語が使われたが、その日本語は、日系社会で創出された一種独特の方言だった。それは日本のどの地域の方言でもなく、一世である親の出身地域の方言を二世である子供たちが不完全に習得し、その不完全に習得された日本各地の方言の最大公約数的共通語が「二世語」として発展した。

この二世語は、一世たちにたいして使われる場合と、二世間で使われる場合とでは微妙な違いがあった。前者では一世の理解する英語の単語、熟語は使われたが基本的には日本語の形式をとった。しかし二世どうしの間では和英両語の表現が自由に入り乱れ、文章が日本語で始まりながら英語で終わったり、またその反対であったり彼らでなくては理解が難しい、あるいはできないユニークな方言を形成していた。

このような言語活動は当然二世たちに一種の連帯感をもたせ、二世としてのアイデンティティー構成の一要因をなしていた。しかしこのような方言は、一世が社会の第一線から退くとともに、使われなくなった。

現在では一世のみならず、二世も高齢化し現役から退いている者がほとんどである。親たちは人種差別、また排日感情のまっただなか、企業に雇用されず、農業、庭園業、洗濯業、そのほかの零細企業に従事せざるを得なかった。1930年代、40年代に成人した二世たちも同じ差別、排斥社会の中で、大学卒でも親の職業を継がざるを得なかったものも多い。

教育を終え、実社会で活躍を始める時期に太平洋戦争が勃発し、大半は強制収容され、また終戦直後ははげしい反黄・反日感情のため、経済的基盤を思うように築くことを阻まれた。50年代以降状況は社会事情も徐々に改善され、サラリーマンとして企業に就職する者も増えた。また二世では医者になるものが多く、差別の激しい50年代には日系社会の中で開業医として活躍した。後には病院に勤めたり、また大学医学部で教鞭をとるようになった。一般に二世たちは経済的には一世たちよりは恵まれた生活が可能になった。しかし、二世には事業を起こし、大企業家となったものはごく少ない。この点、在米華人と対照的である。

特別な二世のカテゴリーとして「帰米二世」がある。単に「帰米」とも呼ばれるが、彼らは幼少期に日本へ送られ、初中等教育を日本で受け戦前あるいは終戦直後アメリカに帰国した。彼らの価値観、世界観は一世のそれにむしろ近く、帰米二世とは言いながら、「純二世」とは一線を画するものがある。英語より日本語を日常生活に使っているが、中等教育のみで帰米したものも多く、日常会話は前述の「二世語」に収敏したものになった。

帰米後高等教育を受けた少数を除いては、帰米二世は経済的には恵まれず、一般に一世と同様のブルーカラーの職業に従事した。アイデンティティーも一世のそれに近く、アメリカ合衆国への忠誠ということにはある程度違和感をもっている点でも純二世とは異っている。
ベストセラー山崎豊子著『二つの祖国』はこのような帰米二世をあつかった小説だが、アメリカでは純二世も含む二世が日本およびアメリカに同様に忠誠心をもつかのごとくに誤解されることになった。

戦後日本から移住してきた人たちには種々の日本人がいる。いわゆる「戦争花嫁」を含む国際結婚、移民、また日本企業の駐在員で退職しアメリカに定住しているものもいる。これらを総称して「新一世」と呼んでいるが、「一世」とか「移民」といった表現には戦前出稼ぎで移住した労働者を連想させるイメージがあって、このような呼称を嫌悪する元駐在員もいるので、用語として一般化しているとはいえない。彼らの子供たちは当然「二世」あるいは「新二世」だがこの用語もあまり定着していない。

一世夫婦の子供たちは当然二世だが、一世と二世との子供は「一世半」とも「二世半」とも呼ばれる。日本人はハワイにはアメリカ本土より早くから移住していたので、この現象は数は多くはないが、本土の一世とハワイの二世の結婚でよく見られる。帰属意識や生活文化の面では彼らは普通の二世とほとんど変わりはない。


2.にんじゃ【忍者】
忍者とは、元来は、軍事・政治上などの特別な目的をもって、敵地・敵陣に密かに潜入し、敵方の動静や機密を探索する人々をさす。時に集団で暗殺、奇襲、後方攪乱などの直接行動に出て、敵の戦力に大きな打撃を与えることもあったが、行動の原則はスパイ活動であった。彼らの使うさまざまな特殊技術は忍術と呼ばれている。

日本のほかの武術に比べると、忍術は流派や伝系が明確でないものが多いが、ほぼ戦国時代を通じて完成の域に達したといわれている。忍者の起源は詳らかではないが、古代中国の兵書『孫子』の用問篇が間や諜、つまりスパイの利用を説いていたことから、同様の戦術は中国文化の影響を受けたアジア各地に模倣者を産んだものと思われる。また忍者の起源を、飛鳥時代に聖徳太子が大伴息人に組織させたという軍事スパイ・志能便に求める説もある(『万川集海』)。

いわゆる忍者が本格的に歴史に登場するのは、平安末の源平時代、とくに南北朝の動乱期であるといわれる。戦闘の規模が大きくなり集団化したことで、物見(斥候)、間者(探偵)といった活動が不可欠になったためである。忍者は、後に語られる戦闘的なイメージとは違い、実際には諜報活動を主とし、その任務を達成するための多くの特殊技能に長けた集団であった。しかし忍者は戦乱のない幕藩体制の中でその存在意義を失っていった。寛政年間(1789―1801)には幕府に忍術の復興とその保護が陳情されたほどだという。つまり忍者は依頼者あっての職業であったことを示している。

忍者は流派や地域によって多くの別称を持っている。忍、志乃比、隠密、物見、三者、透波(あるいは水波、素波とも)、関やぶり、山くぐり、など。これらの名称に共通しているのは敵に見つからずに行動するイメージである。また忍者という呼称自体はかなり新しいもので、戦後に歴史小説などで使われだしたものと思われる。香港や台湾などの中国語圏でも漢字で忍者と表記する。

19世紀前半の文化・文政年間(1804―30)、忍者は読本や芝居の題材となった。そこでは本来忍者が邪道としていた奇術。幻術的な要素が興味本位で取り上げられるようになった。大正時代、立川文庫で描かれた猿飛佐助や霧隠オ蔵は、空想的世界に遊ぶ超人的英雄であった。

大正時代、牧野省三監督は多くの忍者映画を製作した。忍術で巨大な蛙に変身する『自雷也』や『天竺徳兵衛』などがよく知られる。ここで描かれた荒唐無稽な超人のイメージは読本や講談の延長上にあるもので、戦後、時代劇が子供向けであった時期に撮られた『真田十勇士』や『猿飛佐助』などの映画に受け継がれた。その一方『柳生武芸帳』(1957年)あたりから、忍者はリアルな存在としても扱われ始め、『忍びの者』(1967年)で、リアリズム忍者映画の流行を見る。

また田錬三郎、五味康祐、池波正太郎、山田風太郎などの作家が忍者を描いた小説を著し、白土三平らが『忍者武芸帳』『カムイ伝』『サスケ』といった忍者漫画で人気を博した。テレビ時代に入ると、忍者は時代劇には欠かせない存在となる。『忍者部隊月光』(1964年)、『仮面の忍者赤影』(1967年)、『変身忍者嵐』(1973年)など子供向けの忍者時代劇、『忍者ハットリくん』のようなアニメは、現実の忍者からの乖離を促したが、時代劇のヒーローとしての市民権を得ていった。外国に忍者の存在を知らしめたのは映画であったが、それは日本映画ではなかった。

忍者という呼称を初めて使用した外国映画はイギリスの『007は二度死ぬ』(1967年)と思われる。日本が舞台となったこの映画では、日本の公安組織の特殊部隊として忍者が登場する。英語でNINJASと複数形で呼ばれている。しかしここでの忍者は日本の伝統的な武術にひいでていることは示されるが、日本刀を背負っていること以外は、忍者の伝統的な装束をまとってはいない。その後もハリウッドではサム・ペキンパー監督が『キラー・エリート』(1975年)にアジアから来た暗殺者集団として、また人気テレビドラマ『将軍』(1980年)が主人公を襲う刺客として、忍者を登場させている。

しかしここでは忍者という呼称は使われていない。ドイツでは『サムライの夏』(1985年)が製作され、超能力者としての忍者が登場する。また同時期、イギリスでは、日本人女性二人組のフランク・チキンズが歌う忍者の歌が流行ったりもした。忍者のキッチュさを全面的に打ち出したものであった。

しかし欧米における忍者の知名度を決定的に高めたのは、80年代にブームとなったハリウッド製の忍者映画である。ハリウッドが忍者に関心を示したきっかけは、20世紀フォックス社がエリック・ヴァン・ラストベーダーの小説『ザ・ニンジャ)』の映画化権を取得したことであった。同社による忍者映画は結局実現しなかったが、低予算での映画製作で知られるキャノン・フィルム社が全く別の企画として『燃えよNINJA』(1981年)を製作し、折からの日本ブームが追い風となってヒットした。これによって忍者映画ブームが起こった。この映画で忍者を演じた日本人俳優ショー・コスギ(小杉正一)が注目を浴び、一躍忍者映画のスターとなった。

ショー・コスギは映画以外にも忍者を扱った連続テレビドラマにレギュラー出演した。ハリウッド製忍者映画の多くはいわゆるB級映画ではあったが、熱狂的なマニアを生んだ。アメリカ流に脚色された忍者の多くは、人間離れした不死身の超人であり、日本の忍者映画よりもさらに非現実的なものとなった。また「武士道」や「葉隠」「禅」といった東洋哲学の匂いは忍者の神秘性を高めるのに寄与した。

オリエンタリズムヘの関心をくすぐるように、衣装や手裏剣といった武器など多くの忍者用品がマニア向けに売られたが、その多くはアメリカ製品であった。香港映画界はアメリカ輸出用にB級忍者映画を量産し、ブームに便乗した。さらに、忍術が空手やカンフーのように東洋の伝統的格闘技の一種としてとらえられたためか、忍術を教える道場が欧米に登場した。

アメリカにおける忍者ブームは、80年代末、忍者と亀の融合したキャラクターが主役となった子供向けアニメ『ニンジャ・タートルズ』の登場、そしてその実写版劇映画のシリーズ化(1990年)でピークを迎える。これによって忍者はスーパーマンやバットマンなどのアメリカン・ヒーローの系譜に吸収されていったかに見えたが、その後ブームは徐々に沈静化していった。アメリカでの忍者ブームに日本製忍者映画がほとんど寄与しなかったという点は興味深い。




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