日本語が世界で有名になって外国語になった言葉|か行

1.カラオケ
「日本人は人前で歌など歌えない恥ずかしがり屋の内気な国民である」こういう気分が、昔の日本には確かにあった。ところが、カラオケの普及によって、人前で歌いたい人がマイクを取り合うようになった。なるほど、日本の都市には、香港や台北などに匹敵する多種多様、かつ多数の看板がひしめいている。けっこう日本人は自己顕示欲の強い個人主義者なのかもしれない。

げんに近世以来、江戸・京・大坂などの大都市では、茶華道や謡曲、琴三弦や舞踊など、人前で演じる遊芸に大衆が親しんだ。戦後にはピアノ教室や各種カルチャーセンターが広く普及する。どうやら日本人は「恥ずかしがり屋」だったのではなく、明治以来、戦争と「経済戦争」に励むために「遊芸にかまけていられなかった」だけではないのか。そうした気分が未曾有の経済成長の過程でうすれて、本来の「芸能ずき」がよみがえったのだと思われる。

そのきっかけのひとつが「歌の伴奏用に録音された音楽を再生する装置」としてのカラオケである。英語では「カラオーキ」と発音する。その起源は1972年(昭和四七)、もとは歌の「弾き語り」のプロであった人物が、素人の宴会芸に提供した伴奏の録音テープが好評だったことから、マイクとエコーとコインボックスを備えた8トラックの再生装置を考案し、伴奏用テープとともに神戸のスナック「美保」に納入したことにあるという。このことを富澤一誠「カラオケ創世記「四人の元祖を見つけた」」は、きわめて詳細な面接調査をとおして実証している。

ただ、その商品名は「8JUKE」であった。ところが音楽業界には、プロ歌手の練習用に伴奏だけを録音したレコードを「ミュージック・マイナス・ワン」と呼び、公演のさいに歌手が到着する前のバンド練習を「歌手ぬき」の意味で「空オケでやろう」という慣習があった。

そこで1976年、音響メーカーのクラリオンが伴奏を録音したテープの再生装置にマイクをつけた業務用の「カラオケ」を発売。2年後には家庭用カラオケを発売し、さらに2年後、歌詞とそれにふさわしい情景の映像が再生できるVTRを結合させると、多数の音響機器メーカーが参入。

すぐにCDやレーザーデイスクなどとも結合して、バーやスナックに急速に普及し、最初のブームが到来。酒場でマイクをにぎった酔客が陶然と流行歌をうたう風景が日常化しはじめた。

その後1980年代なかばには、レーザーカラオケが家庭に普及して第二次ブームが到来。さらに、その2年前に岡山の元トラック運転手が「グループでも楽しめるように」と、運送用コンテナにカラオケを持ち込んだのが「カラオケボックス」の始まりとなる。それが1990年代に全国に広がると、若い世代をまきこんだ娯楽に発展して第三次ブームと呼ばれるにいたった。それは、「ヒット曲はカラオケボックスから」という風潮を生み、じじつ1991年には、それ以前にはまれであった「ミリオンセラーのCD」が8点も送り出されることになる。

そこで思いだすのは、やや唐突ながら、終戦直後に「合唱による平和運動」をめざす「うたごえ運動」から派生した「うたごえ喫茶」である。その店内では左翼系の若い男女がロシア民謡や労働歌などを合唱していたものである。それは「遊芸にかまけていてはいけない」とする規範への挑戦であるという点においては、確かに「反体制的」であった。

しかし、高度経済成長が本格化する1960年代、毎夜テレビで歌謡番組が放映されるようになり、従来は遠くに「星」として輝いていた歌手が、どこにでもいそうな、それゆえ手で触れられそうに見える「偶像」に変化する。それから10年、経済的に豊かになった日本人は、同時に「あの程度なら私にも歌える」という自信と「遊芸にかまけていてはいけない」という規範からの自由を手に入れる。カラオケは、ちょうどそんな時期に発明されたのであった。

それはまた企業の駐在員をはじめ、多数の日本人が海外に進出する時期とも重なっている。ならば、彼らが赴任先にカラオケを持っていっても不思議はない。こうして1975年、カラオケがブラジルにわたり、その2年後には本格的に普及し、そのまま細川周平の著作の表題を借りると『サンバの国に演歌は流れる』状況が現出した。

こうしてカラオケは、日本のお家芸の映像と音響のハイテクを吸収しながら、国内はもとより、着実に海外に受けいれられていく。たとえばアメリカには1988年に進出。やがて、店にそなえつけの衣装を身につけ、ギターを抱えて踊る姿をビデオ撮影してくれるカラオケボックス、専属の司会がとりしきるステージつきのバー、はては教会や病院や老人ホームなどにまで広がったほか、一般家庭にもホームパーティー用の需要を開拓していった(桐山秀樹「世界カラオケ白書」)。

イギリスでも、パブでピアノの生演奏に合わせて歌う習慣に、カラオケが取ってかわっていく。カラオケにのせて辛辣な社会風刺を歌いあげた日本人女性二人のグループ、フランク・チキンズがテレビやラジオで人気をよんだ時期のことであった。

米英だけではない。「カセットテープが演奏する」という意味の「十拉」に「OK」を続けて「カラオケ」と読ませる中国でも、ディスコやカラオケの数は膨大な数に増えた。むろん台湾や香港にも、度肝をぬく豪華な外観と内装のカラオケがあるし、海南島では「KTV」のネオンを掲げた多数のカラオケバーを目にしたことがある。ドイモイ政策の進行するベトナムでも、1993年の初登場以来、熱狂的な大衆の人気を集めている。

こうした状況のもと、カラオケは日本だけでなく、諸外国の研究者の興味を呼びおこし、学術研究成果を結実させてもいる。そこでは「カラオケのイギリスヘの適応」「カラオケと中国系アメリカ人のアイデンティテイ形成」などが論じられている。

ところで、自幡洋三郎『カラオケ、アニメが世界をめぐる』によると、イギリスのホテルのバーのマダムは、カラオケが日本語で、日本生まれの装置であることを知らなかったという。そこには、異国趣味に彩られることで外国に受容された、かつての日本文化とは異なる「人を楽しませる普遍性」がはらまれている。

ただし、カラオケの受容のしかたには違いがある。たとえば日本や中国・東南アジアでは、特定の人物が歌うのを聴衆が聞くだけの「独唱・陶酔型」である。しかしアメリカやイギリスでは「合唱型」になるらしい。そういえば英語の辞典が「日本でのカラオケは社交の緊張緩和」と記すのも、ことの真偽は別として、「普遍的な楽しみ」の受容のされかたの多様性を暗示しているのかもしれない。

1990年代後半の日本には、カラオケ人気にかげりが出てきたとする報告もある。しかし他方、通信衛星を利用したカラオケ・ソフトの配給が普及し、あらたに「3Dポリゴン」という立体アニメのキャラクターが歌手の「振りつけ」を見せてくれる「フリカラ」が登場し「ノリのよさ」で人気を呼んでいる。またまた日本のハイテクが楽しみの幅を広げているということであろう。


2.けいれつ【系列】
系列という言葉は、企業間関係に関する多様な現象をさしている。財閥系列、金融系列、流通系列、生産系列、等々、がそれである。ただ、これらに共通しているのは、縦型の閉鎖的な企業間関係というイメージである。これらの系列はかならずしも日本独自の現象ではないが、1980年代以降日本経済の競争力の強さの象徴として注目を浴びてきた。

そして、1990年代に入ると、内外の研究者によって外国に紹介されるようになった。
ただ、外国でとりわけ注目を浴びたのは、自動車産業や家電産業など組立産業における生産系列である。80年代に日本の組立産業の国際競争力の強さが先進諸国において評価されたが、こうした競争力を支えたのが生産系列であるとして注目を浴びたのである。とりわけマサチューセッツエ科大学のウォマックなどによる『リーン生産方式が世界の自動車産業をこう変える』が日本の自動車産業における生産系列の長所を高く評価している。同書がきっかけとなって日本の生産系列、最終組立メーカーによる部品供給網の組織化が世界中の注目を集めたといっても過言ではない。

アメリカの組立産業においては、組立メーカーによる部品の内製化が一般的であった。これにたいして、日本やドイツでは製品開発と最終組立は大企業、部品生産の多くは数多くの中堅。中小企業が担うという社会的分業が展開してきた。ただし、日本では、重層的な下請関係が特徴的であった。一次下請、二次下請、三次下請というような重層的な企業間関係が、第二次世界大戦後徐々に形成されてきたのである。他方、旧西ドイツにおいては、組立メーカーである大企業が直接数多くの部品・半製品メーカーと取引を行なっていた。たとえば、ベンツ社は、約二万社の中小部品メーカーと直接に取引関係にあったのである。

ところで、問題は、こうした国による違いをどう評価するかである。そもそも、部品供給については、三通りが考えられる。組立メーカーによる内製化、市場取引、社会的分業依存という三通りである。
現在の組立産業に要求されているのは、部品供給のうえで、品質、価格、納期について高いレベルで条件を満たすことである。のみならず、安定供給はもとより、変化に柔軟に対応すること、さらに部品開発に取り組むこともますます重要になっている。そのためには、高度の専門技術を多様に蓄積することが要求されている。

こうした部品生産を大企業がすべて内部化するには限界がある。部品点数は増加したし、生産ロットも多様化している。変化への対応や部品開発を迅速に進めなければならないが、規模の不経済性や組織の官僚制化が問題になる。他方、市場におけるスポット取引に依存していては、タイムリーな安定供給には無理がある。組立メーカーの要請による部品開発にもなかなか対応できない。

ということになると、中間的な形態として、わが国のように、社会的分業、企業間組織に依存するという方式の有効性がクローズアップされる。わが国では、もともと部品生産については、中小企業に外部化される傾向が強かった。その理由としては、低廉豊富な労働力の存在を前提にした低賃金の迂回的利用、大企業の資本節約、景気変動のバッファーなどが指摘されていた。

しかし、やがて組立産業の高度化・精級化に対応して、大企業はみずからが蓄積した生産技術や品質管理手法を関連中小企業に移転して企業グループの強化をはからざるをえなくなった。外部化した部品生産の質的向上をはかったのである。ただ、部品生産は、いったん外部化されれば、技術進歩の起動力は担当する中小企業が握ることになる。

現場での小さなイノベーションの蓄積によって、中小企業の技術力は着実に向上したのである。こうした傾向に拍車をかけたのが、1973年の石油ショックによる大企業の減量経営である。部品生産のよりいっそうの外部化を進めたものの、関連中小企業をモニターする購買担当者の削減を通じて部品生産技術に関する大企業の評価能力は落ち、大企業の技術的空洞化が進んだ。大企業は「ものづくり」の基礎的な過程を放棄して、組立に力を入れるようになったのである。

さらに、新製品開発にともなう部品開発にあたっても、当初から関連中小企業に依存せずには不可能という状況がつくり出された。同時に、中小企業の間には、完成部品専門、単体部品専門、加工専門というように、規模に応じて多様かつ高度の専門化が進んだ。こうした専門化を基礎にして情報を共有し、長期継続取引とフレキシブルな分業が展開したのである。

このような企業間関係は、上から見れば特定の大企業を頂点としたピラミッド型の系列であるが、下から見ればネットワーク状である。どのレベルの中小企業においても、一社専属の取引関係は見られず、取引先の多様化が進んだからである。

いずれにしても、数多くの企業のフレキシブルな分業関係が外国企業の注目するところとなったのである。典型は「トヨタ系列」であり、トヨタ生産方式がモデルにされた。90年代にはアメリカの自動車メーカーがこの方式を導入し、ドイツにおいても日本のような重層的企業間関係の形成が進んだ。

さて、日本の生産系列が外国の研究者や企業によって評価されるようになったと同時に、皮肉にも日本の系列は解体過程をたどることになった。90年代に入ると経済のグローバル化が進み、わが国組立産業の生産機能の外国へのシフトが進展した。世界大競争時代が到来し、適地生産が進んだ。こうして、世界最適調達が可能になったのである。

こうした状況下で、国内においては「空洞化」が生じ、下請企業数は減少傾向をたどっている。
のみならず、産業交代が進み、既存の産業を超えて企業間関係が変化した。そして、新しいネットワーク化の動きが展開し始めている。専門企業による柔軟なネットワーク分業である。同時に、能力に劣る中小企業の廃業が進んでいる。

いまやわが国においては系列は死語になりつつある。だが、外国においては、日本的経営がもはや垂範モデルにならなくなったにもかかわらず、系列は新たな展開をみせている。たとえば、アメリカにおいては、情報技術を駆使して受発注と生産を直結する「サプライチェーン・マネジメント」が急速に普及しつつある。系列を超えた新秩序が形成されつつあるといえよう。


3.こうばん【交番】
日本の警察の末端機構として、本署のある市街地には警察官が交代で勤務する派出所がある。本署からはなれた周辺地域には警察官の住宅を付設した駐在所がある。この両者をまとめて「交番」と総称する。そして交番の警察官は昔から、派出所なら「おまわりさん」と呼ばれて人びとに親しまれ、駐在所なら「駐在さん」と呼ばれて村長や学校長とならぶ「村の名士」とみなされてきた。
さて、駐在所に赴任した30歳前後の巡査の日記の体をとった井伏鱒二の小説『多甚古村』(1939年)に、こんな一節がある。

……いきなり「旦那さん」と云って駐在所に訪ねて来る人は、たいてい何かの事件を持って来る。……子供だと遺失物拾得だし、若い女だと営業願ひだし、中年の紳士だと道を尋ねに来るのである。老人だと、たいてい縁談のきき合せで、有志だと陳情であったりする。中年の婦人だと家のなかのもめごとで、飲食屋のおかみだと泥酔者の不始末だし、凡そあたらずとも遠からずだといふのである。
それが銀座あたりの派出所ならこうなる。

朝は、残飯ひろい、ダンボール集め、酒あさりの浮浪者が、よそのものをもってこないかと取締まる。8時ごろからは商用、私用の地理指導。夜は酔っぱらい、乗車拒否、飲食代が高いなどの苦情の処理。ネオン町のひけどきの夜中には車の整理。そして深夜は、ビル荒し事件の現場へ駆けつける。それから酔っぱらいの介抱……(小西千鶴「銀座のポリス・ボックス昼と夜の顔」)。

このように交番の仕事は警察活動のあらゆる面におよんでいる。そのため交番の外勤の巡査は、徒歩や自転車での周辺地域のパトロール(警遅)や戸別訪間、交番や路上での見張りなどを繰りかえす。それは、交通整理を除くと市民に姿をみせず、事件の通報によって現場にパトカーで急行する、ぞくに背後に存在するともいわれるアメリカなどの警察の活動とはまるでことなる(デイビッド・H・ベイリー『ニッポンの警察――そのユニークな交番活動』)。それは日本社会の治安の良さに大きく貢献してきた。

背景には、たぶん近世以来の伝統がある。じじつ江戸では、慶長年間に設けられた町の出入口の木戸番に加え、寛永末年には、武家地の路上に辻番、町人地の木戸のかたわらに自身番が設けられて都市の治安維持に貢献した。いずれも立番や巡回をつうじて挙動の不審な者を尋問し、ときに捕縛するほか、捨子や迷子や酔っぱらいの世話、変死人の届け出など、多彩な業務をこなしたのである。しかし、辻番は幕府の倒壊と旗本の離散で自然消滅、自身番・辻番は、新時代の路上交通のさまたげになるということもあって、1868年(明治元)の天皇の東下にさきだって撤去された。

その後、明治時代がはじまると市政裁判所付兵隊、ついで市中取締兵隊や府兵などが新設され、1871年(明治四)には市中の巡回や立番などを仕事とする遅卒の制度ができる。そして1874年(明治七)に東京警視庁が創設されると、巡査と名をかえた警察官が巡回と立番にあたる交番所が設置された。「交番」の名の起源は、昼夜三「交」代で「番」にあたったことにあるという。

以来さまざまな曲折をへて1888年(明治二一)、全国に警察署の末端機構として派出所と駐在所が制度化された。これらはいずれも、外勤警察官が「公衆に対する積極的な奉仕を行ない、良好な公衆関係を保持するとともに、管内の実態を的確に掌握する」ことを目的としている。

それが1960年代以降、ローマ字がきKOBANとして、ある種の英語の辞典に掲載される。その解説文の一例を翻訳すると、「日本の警察官派出所。徒歩による警選が特徴的。あらゆる小街区に、いつも近隣を巡回する1人から12人程度の警察官のいる交番があり、ひとりで約150世帯の安全を保障する責任を負っていて、少なくとも年に一度は個別の世帯に訪問する」。

いっぽう日本国内では、1960、70年代に急速な都市化が進行して、地域の人びとのつきあいが希薄化するとともに、「日米安保条約反対」「ベトナム戦争反対」などの反体制運動が激化した。
その結果、市民と警察の関係は疎遠になり、部分的に一種の緊張をはらむようになった。そこで警察は1972年(昭和四七)に「CR(コミュニティ・リレーション)戦略」を提起。従来よりも住民に親しまれる努力をはじめた。

こうした動きを反映したのであろう。1981年(昭和五六)には交番を、従来の「鉄格子のある四角いコンクリートの箱」から「地域の環境への親和性に配慮をはらつたデザインの建築」にたてかえる「文化のデザイン事業」が展開される。そして、コンペ形式や著名建築家への設計依頼によって、メタリックなハイテク調、山小屋風などの交番が姿をあらわしはじめる。

さらに「KOBAN」の文字の電光掲示板をはじめ、幼稚園や学校の近くなら警視庁のマスコット「ピーポ君」、駅や観光地なら警察官の「制帽」、婦人警官がいれば「女性用制帽」のマークを掲げるなど、親しみやすく、目につきやすい交番づくりを進めてきた。しかも交番の新事業として、地域住民との「ふれあい連絡協議会」、ひとりぐらしの女性のための「安全相談室」を開催したりもするようになった。

こうした動きが活発になるのと同じ時期にKOBANの海外進出が活発になる。たとえばシンガポールでは1983年から「ネイバーフッド・ポリス・ポスト(NPP)」という日本の交番によくにた制度が導入される。フィリピンでも「国民の相棒」を意味する「カババヤン」を全国に設置しはじめた。

アメリカでも1990年には自由連合州プエルトリコが本国にさきがけて首都サンファンにこうばんを開設。少年の保護と健全育成をめざす民間の運動にもKOBANの名をつけ、その文字を染めぬいたTシャツをきた人びとが活動しはじめる。そして1994年には首都ワシントンのパラダイス地区にKOBANが開設され、これがボルティモアやロサンゼルスなどに飛び火。ロサンゼルスのチャイナタウンでは地元の商店会が施設を提供して警察官を派遣してもらうようになっている(桐山秀樹「交番がKOBANになるとき」)。

なお、1989年版のOEDには、KOBAN(小判)の記述はあるが、KOBAN(交番)の記述はない。他方、1999年現在、インターネットで語彙検索をかけると、KOBAN(小判)が55件であるのに対して、KOBAN(交番)は215件(交番)が「外国語になった日本語」としては、いわば「発展途上にある」らしいことが判明する。


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