日本語が世界で有名になって使われている言葉|は行

1.はいく【俳句】
1603年に日本イエズス会が刊行したいわゆる『日葡辞書』の中に、俳諧の連歌の意味での「俳諧」があるのは別として、独立した詩型としての俳句を最初に外国に紹介したのは、駐日英国公使館日本語担当官のW ・G ・アストンの『日本語文語文法』の第二版であり、これは1877年にロンドンと横浜で刊行され、広く読まれた。

同書では、「発句」と「俳諧歌」の両語が使われ、三句が、作者名なしで、三行に訳されているが、「詩というに値するものを一七音節の狭い範囲内に詠み込むことは出来ない、という尤もな理由で、準古典的性格を持つという、俳諧歌の崇拝者たちの主張は、認められていない」という説明がつけてある。
このような、俳句観は、1873年に東京帝大の言語学教授として来日した英国人チェンバレンも、かなり長く懐いていた。

このような俳句の軽視は、当時の俳壇の情勢による所も大きかった。当時は、各地に宗匠たちがいて、その高弟たちによる運座や月並句合せがさかんで、常識的または教訓的な内容の句が多く詠われ、文学性より娯楽性が強かったので、日本でも、評価が低かったのである。

このような情勢を背景に、正岡子規の俳句革新が行なわれたのであるが、当時は、洋行帰りの外山正一、失田部良吉、井上哲次郎共著の『新体詩抄初篇』が1882年(当時子規一五歳)に起こした「泰西の(ポエトリー〉」の運動がさかんなころで、子規も一時この運動に関心を示したくらいであるので、子規が俳句や短歌のような短詩型の改革を志したについては、単に当時の俳壇への不満だけでなく、欧米の詩の立場から見てもこれらの短詩が勝れている、という確信を持ったからに違いない。

その証左として、まず、1892年、子規が東大国文科の学生の時に書いた、英文の『詩人としての芭蕉』が挙げられる。その冒頭には、「もし最上のものは最も単純なものであるという命題が修辞上正しいとすれば、我々の発句は、その意味で、文学の最上のものであるに違いない」と書かれている。また、子規は、1895年著の『俳諧大要』の冒頭にも、「俳句は文学の一部なり」と高らかに宣言している。

この俳句の価値に関する確信は、象徴詩の先駈者といわれる米国のエドガー・アラン・ポーが1850年に出版した『詩の原理』の中で「長い詩などというものは存在しない、というのが私の立場である」と宣言したことが、フランスの象徴派詩人たちか米国のホイットマンあたりを通じて、子規の目にとまったために生じたのか、または、H ・スペンサーの社会進化論に基づくものか、にわかに断じ難いが、子規は、コールリッジの『クリスタベル(姫)』など多くの洋書を読んでいたことはほぼ確かであり(『病体六尺』参照)、これらの洋書から俳句への確信を得たに違いない。

他方、子規は、俳句革新を志した1894年(『墨汁一滴』参照)以来、彼の『小日本』紙の挿絵画家、中村不折との交友を通じて、「写実」または「写生」の重要性を感じ、『俳諧大要』の中でも、これを強調したが、不折は小山正太郎の問下で、正太郎は、工部美術学校で1976年から約二年間美術を教えたイタリア人画家、A ・フォンタネージの学生で、助手も務めた画家である。フォンタネージは、自然の中に「真実の詩」を求め、明暗の神秘的な深みを好んだ人であるが、工部美術学校では、画の基礎としての写実をもっぱら教えた、という記録が残っている。

子規は、このような欧米の芸術観に直面することによって、俳句の近代化を志したものと思われる。
ラフカディオ・ハーンが来日して松江の島根県尋常中学校の教師となったのは、1890年という、まさに子規による俳句近代化が始まる直前であった。

ハーンは、1898年刊の『異国情緒と回顧』を始めとして多くのエッセーの中で、蛙、蝉、蜻蛉、蛍、蝶、蟻などに関する俳句を、「小さな詩句」または「発句」として、合計173句、行数不定で訳しており、「賛められるのは、語られざる何物かのスリルを(読者の)心に残すような構成の詩なのである」として、俳句の暗示性に注目し、また、「自然についての印象を想い出させ、旅行中の楽しい出来事を心に甦らせることによって喜びを与える」として、俳句が自然や人事を詠む詩であることに触れている。

俳句は、外国人としては、ハーンによって初めて、詩としての価値を認められたといえようが、これには、ハーンの島根県尋常中学校および東大における学生であった大谷正信が、正岡子規の門人であり、子規の『俳句分類』中の句を含め、古今の名句を多くハーンに提供したことが大きく貢献したと思われる。

チェンバレンも、ハーンの影響の下に、俳句への評価を高め、1902年には、『芭蕉と日本の詩的エピグラム』の中で、「発句(俳句及び俳諧とも)」として、後の追加を含め、合計205句を二行に訳した。彼は、俳句を、「叙述でなくて示唆」であり、「非常にモダンである。少なくとも現代の特徴と我々が考えている、自然に対する愛と知識にとっぷり浸かっている」として、ハーンの考え方に同調している。

1903年に来日して、一年足らずして帰国した、フランス人のクーシュは、チェンバレンの著作を読み、俳句の暗示性と余韻に深い関心を持ってパリに帰り、1905年、パリで『水の流れに沿って』という私家版ながら外国人初の句集を出版した。これは、パリからラ・シャリテまでの曳き舟の遡江の旅の、風物描写の、三行からなる句の連作である。

パリでは、彼を中心に俳諧作者(みずからを、俳人と呼んでいた)が増え、1920年には、『新フランス評論』(NRF)は、俳諧特集を行ない、「フランス俳諧」が将来マドリガルやソネットのような成功を収めるかもしれない、との期待をのぞかせている。この段階で、俳句は、短い三行で自然や人事の情景を詠う詩型と考えられていたようである。こうして、1924年には、俳諸コンクールが催され、約一千句の投句があったという。当時パリに滞在してい た、リルケなどの多くの外国詩人も俳句を詠み、または影響を受けている。

当時イマジストの代表格であった米国人のエズラ・パウンドは、「イメージこそ詩人の使う絵具である」「イメージは、知的、情緒的複合を一瞬のうちに表現するものである」「偉大な文学とはまさに能うかぎり意味を充電させた言語である」などと主張し、発句を賞讃し、「発句的な詩」を発表したりしたが、彼がとくに注目したのは、かねてから外国人に注目されていた、荒木田守武作と伝えられる「落花枝に帰ると見れば胡蝶かな」における「一つのアイデアの上に他のアイデアを置く重層法」すなわち「取り合せ」であり、この方法は、「や」のような切れ字により一句を三分し、二つの異質的なものを一つのイメージによって一瞬の中に統合する手法として理解され、その後の海外での俳句観に大きな影響を与えた。エイゼンシュタインは、映画製作上、モンタージュとして、この手法を採用したという。

第二次大戦後の俳句の海外普及には、R 。H ・ブライスの『俳句』四巻などの著作が非常に大きな貢献をした。彼は、芭蕉が「人生の最も大切なものに触れており、また、われわれの真の永遠の人生を構成する瞬間を誤りなく知っていた」点で、シェイクスピアにもダンテにも劣らないがゆえに、俳句は世界の巨匠たちと比肩し得るとし、「俳句は諸宗教の完成である」「俳句は、永遠の美や喜びというよりも、道しるべである」などと説いたので、当時米国などでは、俳句は禅と関連づけて理解され、後に、米国のビート・ジェネレーションの詩人たちにも影響を与えた。

なお、中国では、1980年以来、俳句を模して、漢字の五・七・五文字から成る「漢俳」が作られるようになった。
現在、俳句は世界中に普及しており、俳句の協会のある国も多いが、各国における俳句理解は多様であり、三行の短い詩型の中に詩的感動のエッセンスを詠み込むということ(これにも当てはまらぬ句もあるが)くらいが共通項といえよう。




2.ふとん【蒲団】
蒲団は、およそ幅1メートル半前後、長さ2メートル前後の、布で作った四角の袋に、綿を入れた寝具である。寝るときに敷く蒲団を敷蒲団、掛ける蒲団を掛蒲団と呼んでいる。また、座るときにも蒲団を敷くことがあるが、この一辺50センチほどの方形の蒲団は、座蒲団と呼ばれている。
蒲団は布団とも書き、現在は布団の字が使われているが、布団は当て字である。

蒲団ははじめ、座禅のときに腰の下に敷く、蒲で編んだ円座のような敷き物のことであった。これが、寝るときに敷く寝具の名称に転化したことから、蒲団は現在の敷蒲団をさしていた。敷蒲団は古くは褥といい、掛ける余と組み合わせて使われていた。『和漢三才図会』の褥の項には、「俗に蒲団と云ふ」と記されている。

寝る場所に敷く古代の寝具として、『万葉集』の貧窮問答歌に藁を解き敷いて寝る記事があり、類似の例が、『方丈記』の草庵の中に作られた寝床に認められる。その寝床は、蕨のほどろを敷いて造られた。ほかに、東大寺の正倉院に納められている、聖武天皇の遺品である床に付属する、褥が知られている。古代の末、すなわち、平安時代の後期になれば、『源氏物語絵巻』をはじめとするいくつかの絵巻に描かれた当時の生活の中に、寝ている場面もあって、寝具についても具体的に明らかになる。当時の公家たちは、寝殿造の住宅の中で、寝殿や対屋の板敷きの床面に畳を敷き、その上に褥を重ねて寝ていた。上に掛けていたのは会である。

褥も余も、布を何枚か横にはぎあわせて、幅を広げている。中世の絵巻をみると、裏の布を表の布より大きくして、表へ折り返している。この表の意匠が、余障子の語源になったと言われていることから考えて、このような作りの今衣や褥が、平安時代の半ばより前ごろから作られていたと考えてよい。

蒲団の名称が、いつごろから寝るときに敷く寝具を指すようになったかは明らかでないが、室町時代の将軍邸である室町殿への永享九年(1432)の『行幸記』では、西之御所の床に、御枕、御余とともに御文(読みはふとん)が飾ってあったことが記録されている。そのほかの建物にも、飾りとして枕や会をならべていた部屋があった。

江戸時代のはじめには、上方でも江戸でも、蒲団の名称が褥に変わって常用されるようになるが、江戸時代のはじめの蒲団は、まだ敷いて寝る寝具の名称で、掛けて寝る寝具までを蒲団と呼ぶようになるのは、上方の場合でも、17世紀の末ごろからであろう。これに対して、江戸では、町人の場合、蒲団を着て寝ることは幕末までなかった。

江戸では、掛けて寝る寝具を、夜着と呼んでいた。夜着は、長方形の蒲団と違って、大型で綿を早く入れた、着物の形の襟と袖のある寝具である。夜着は、『多聞院日記』の永禄八年(1565)に現れるから、かならずしも江戸に限って使われたわけではないが、上方では一般的には使われていなかったようである。江戸では、夜着のほかに、夜着より小さく、夜着よりやや薄く綿を入れた掻巻も寝具として使われ、また、綿を厚く入れ、着物の上に着る為に袖を広くした、防寒用のどてらも寝具として使われている。

江戸では、掛けて寝る寝具は、幕末まで夜着が主流で、明治に入ってもその習慣が続いているが、上方では、江戸時代の1700年ごろには、蒲団をかぶって、あるいは着て寝た記録があり、18世紀の末ごろまでには、掛ける寝具が蒲団に変わっていたようである。

『守貞漫稿』によれば、京阪では「今ハ下二三幅ノ布団ヲシキ、上二五幅ノ布団ヲ着ス」とあるように、幅方向に五枚の布をつないだ幅の広い蒲団を掛けるようになっていた。蒲団の幅は、五幅、あるいは四布半と呼ばれるように、反物を何枚はぎあわせるかで決まった。この幅の単位は、鯨尺(一尺は約三七センチ)の九寸である。

蒲団は敷蒲団、掛蒲団ともに綿を入れるが、綿は使っているうちに固まってくるので、再びふっくらとするように、綿を出して打ち直す必要があった。近年は、これまで使われてきた天然の植物性の綿に変わって、化学繊維のいわゆる化繊綿や、羊毛あるいは羽毛をいれた蒲団も使われるようになって、日常的な取扱いが変わってきている。また、掛蒲団とともに、あるいは季節によっては単独で、毛布、タオルケットなどが使われることもある。

蒲団は、使用するとき、敷蒲団にはその上に敷布を敷き、掛蒲団には、包み込むようにカバーを掛ける。また、蒲団などの寝具は、朝起きたときに、畳んで押し入れにしまう。押し入れは、奥行きが三尺弱であることから、しまうとき、敷蒲団は長手方向に三つ折りにし、掛蒲団は長辺、短辺ともに二つ折りにする。しまう時、敷蒲団と掛蒲団を重ねる場合には、掛蒲団が上である。

日本人の生活を、ヨーロッパに紹介したのは、16世紀の末にキリスト教布教のために来日した、宣教師たちの一人である、ルイス・フロイスである。フロイスの『日欧文化比較』には、直接的に寝具について説明した項目はないが、寝具に関連して、「われわれの夜具は、いつも寝台に敷かれたままである。日本の夜具は、つねに昼間は巻かれて、見えないところに隠される」「われらの病人は、敷布、敷蒲団、および長枕のついた折りたたみ寝台もしくは寝台に寝かせられる。(病気の)日本人は、地面の薦の上に木の枕を置き、上に着物をかけて寝かせられる」と記している(『フロイスの日本覚書』による)。

この両項目は、寝具の取り扱いに関する見たままを記しているが、両項目ともに、原文には蒲団や褥の名称は出てこない。これに対して、上に掛ける寝具の場合には、当てる適当なものがなく、日本独特であったために、日本語の「キモノ」を使っている。これは、掛けていたものが、彼らの文化の中に類似の寝具があると考えられる余や掛蒲団ではなく、着物のように袖に襟のついた寝具、すなわち夜着であったことを物語っている。フロイスの観察は、長崎から上方までの範囲であったから、この時期に、上方でも掛ける寝具として、夜着を使っていたことを、はからずして、証明したことになった。

明治に来日して、日本人の生活を記録したアメリカ人のエドワード・モースも、蒲団という名称を著書の原文の中で使っていない。敷くものも掛けるものもベッド・クローゼスと呼んでいて、区別していない。この記述は、モースが見たのが、夜着ではなく掛蒲団であったことを示唆している。そのほか、これらの寝具には綿がつめられていたこと、昼間は畳んでクローゼットにしまわれること、シーツを使う習慣がなかったことなどが記録されている。
現在、欧米諸国を旅するとfutonという看板を掲げた寝具店を各地で目にすることができる。インターネット上の検索サイトにはfuton関連で五万件以上のウェブ。ページが登録されている。




3.べんとう【弁当】
最近、海外渡航の機上で日本食が出ることが少なくない。海外のエアラインでも、日本航路ではときに和食にお目にかかる。数十年前に外遊した記憶からすれば隔世の感がある。その和食は、経験した限りではほとんどが「幕の内弁当」である。

なぜ幕の内弁当なのか? ちょっと考えてみれば判るが、幕の内弁当には機内食に適した条件が揃っている。まず、もてなしの場にふさわしい華がある。品数も多く、変化に富んだ食材を盛り込める。季節や暦にちなんだ食材のとりあわせも自由自在。視覚的にも美しく、色彩豊か。そして扱い勝手がよい。定型化された四角い箱にまとめて蓋をするから、積み重ねもできる。機内という制約の多い場での給仕にはすこぶる都合がよい。しかも簡便でありながら、粗末にならない。

海外航路で幕の内弁当が給されるようになったのは、まず日本食そのものが海外、とくに欧米で普及し、一般化した背景があってのことである。つまるところ幕の内弁当は、もてなしにふさわしい日本食の出し方としてもっとも簡便であったということだろう。
現代において、日本食が異文化の中に普及していったもっとも早くかつ大規模な例は米国である。

そのはじまりは戦前、西海岸を中心とする日系移民コミュニティにあった。戦後になると海外旅行で渡米した日本人、そして日本企業の海外駐在員を客とする日本料理店があらわれた。日本式の企業文化とともに接待も輸出され、そのための高級料理店も増えていった。そして、現地のアメリカ人を相手にした日本料理店が成り立つようになってきたのがここ20年ばかりの変化である。

はじめ現地では好奇の日で見られた日本食だが、1980年代に始まる健康食ブームをきっかけに風向きが変わる。野菜や穀類、魚介類を中心とする日本食が、すぐれた長寿健康食として注目を浴びはじめたのである。最近の日本食は、美しくディスプレイされた見栄えのよさも含めて、「太らない高級料理」として人気を博していると聞く。

このような形で海外に出ていった日本食の中で、異文化圏に入り込んでいったbentoの代表は、けっして毎日の日常的な弁当ではなく、「幕の内弁当」であるとしてさしつかえあるまい。
「幕の内弁当」は、その内容や配置にある種の定型はあるものの、料理そのものの名前ではなく、給し方の「かたち」に名がついている点にユニークさがある。これは同時に幕の内弁当の普遍性でもある。太洋はるか上空を飛ぶ機内で能うかぎりの最高のもてなしを提供せねばならないという極限状況で、その普遍性が生きてくるのだろう。

さて、日本人にとっての弁当は、もちろん幕の内だけではない。幕の内弁当が懐石料理の粋を凝縮したハレの弁当なら、反対の極には毎日の通勤、通学にたずさえる弁当がある。では「べんとう」はいつ、どこから始まったのか。
日本語の「弁当」の語源には、「弁当」= 「(一人前を)割り当てる」の意から来たという説、「当座に弁ずる」の意からという説、また「便利で重宝」という意味の「便当」が転じて「弁当」となったという説などがある。また別の説では「面桶」の読みかえで「べんとう」となったという。

「面桶」とは一人前ずつ飯を盛って配る曲物の容器のことである。「べんとう」を国語辞典で引くと、外出先で食事をするためにたずさえていく食品、またはそのための容器、とある。中身と容器の両方をひとつの語で呼ぶ「べんとう」という名前のあり方が、語源までさかのぼっているのは興味深い。
日常のべんとうは、竹皮のほか柏や朴の葉を十文字に組み合わせて飯を包んだり、雑穀食の多い地域では麻袋に入れて運んだりした。また「つと」や、柳や竹を編んだ籠や行李、本の曲物なども、古くから最近まで日本中で広く用いられてきた容器である。

弁当の起源をさかのぼると、古くは平安時代に宮中や貴族の邸宅で饗宴の際に、強飯を卵形に握ったむすびを下級者に配ったものを「屯食」あるいは「ツツミイイ」と言った。これが弁当の前身であるという。
「トンジキ」「ドンシキ」の語は、江戸期まで「握りめし」の意味で残っていた(『守貞漫稿』)。江戸時代になって、握り飯に副菜をつけたべんとうを芝居の幕あいに食べることが始まり、最初は芝居小屋でつくって出したり、後に天保年間には江戸で「幕の内」と称して売り出し名物となる店もあらわれる。幕の内弁当の飯が俵形をしているのは、握り飯の原型を残している。

幕の内弁当ははじめ、劇場関係者から楽屋の俳優へ、そしてひいきの客へと広がったそうだ。中身の多彩さはもちろん、それを入れる箱の方も塗りの美しいものを用い、妍を競うようになる。その流行は芝居の世界から花柳界へ、また広く花見などの行楽や、病気見舞いなどにも用いられるようになった。仕出し弁当のはじまりである。

このように「幕の内」と称する弁当は江戸時代に起源があるということだが、そこにつながる「野遊び弁当」の伝統は昔から日本にあった。茶道の野点はそのひとつの究極のかたちである。花見や野遊びのための「提げ重」を、いまも古美術商で見かけることがある。塗りに蒔絵も贅沢な、それは美事なものである。三段、四段の重に、皿、酒器までがすべて揃いの塗りもので、金物細工の持ち手のついた枠の内にぴたりとおさまるようにできている。コンパクトに凝縮して運べ、おろして緋毛配の上に広げれば目もあやな宴のしつらえがくり広げられる。凝縮と開花のわざである。

現代の弁当の代表格である「松華堂」を完成させたのは、日本料理の老舗「吉兆」であるという。
いわく、松華堂はもともと庵の名で、そこで四角い箱の中を十文字に仕切ったものを諸々の用途に使っていた。それに目をつけて点心を入れて出す箱としたのが現在の「松華堂弁当」のはじまりということである。一辺が約26センチほどの、黒い塗りの箱で、四マスのうちひとつは飯、あとの三つは刺身、日取り(前莱)、そして炊き合わせ(煮物)が入り、このほかに椀をつけて一食とするのが原型。まさに「野菜と魚介を中心とし、低脂肪」の健康食である。

利便性と華やかさを兼ね備え、しかもあれこれ入っているから、好き嫌いのある人や、日本食になじみのない人でも、何かしら好みが見つかる。そして栄養的にも健康食。国際的に受入れられる素地は揃っているといえる。
言葉としての「弁当」は、料理の名でもなければ、食事の時間を特定してもいない点が独特である。食物と容器を同じ名で呼ぶところも日本的で、これに相当する言葉は少なくとも英語には見当たらない。語感もbentoの語は歯切れよく覚えやすさがある。

「弁当」の、定型の中にあらゆるものを取り込むフレキシビリティ、どこへでも運べるポータブル性、全宇宙を四角い箱におさめる凝縮の技は、海外からはむしろ、日本製品の特性を体現する興味深い「現象」として見られているふしもある。モバイルコンピューターと通信機器と、白飯に梅干しの「日の丸弁当」をひとつのスーツケースにおさめた外国人アーティストによるオブジェなどを見ると、彼の地の目に「弁当」がいかに映っているか、あらためてこちらの目を開けられる思いがする。




4.ぼんさい【盆栽】
盆栽は中国起源で、日本に入ってきたのは鎌倉時代になってからといわれる。もっとも、これよりはるかに古く奈良時代の貴族たちが、風景のミニチュアとして小さな「仮山」をつくって楽しんでいた。正倉院には奈良時代から伝わる山岳風景をかたどる朽木の仮山が保存されているし、『万葉集』の巻一九には、貴族たちが雪で仮山をつくり宴会の景物に供したことが詠われている。

一方、小さな木を鉢植えにした古い例として『続日本後紀』に載る承和六年(八三九)の記事があげられる。これによれば、河内国志紀郡の志紀松なる者が小さいながら花を咲かせる宅中の橘を掘り取って土器に植えつけて献上したという。このような小仮山や鉢植えが盆栽の前史をなしている。

14世紀初頭に制作されたとされる『春日権現験記絵巻』や『法然上人絵伝(法然上人行状絵図)』には、住まいの縁側に置かれた盆栽が描かれており、これが確実なもっとも古い盆栽の描写である。盆栽は古くは盆石あるいは盆景と呼ばれた。現在は専門家の間で「石付き盆栽」と呼ばれているが、この形式の方が古い。『春日権現験記絵巻』に描かれているものも石と樹木からなっており、石付き盆栽といってよい。盆の上に石を置きそれに植物を植え付けたもので、のちに植物のみでつくられる「盆栽」が優位になっていったと考えられる。17世紀初頭につくられた『日葡辞書』には盆栽、盆石、盆景ともに載せられていない。鉢に植えた植物の枝を強く刈り込んで矮性に育て楽しむこんにちの盆栽は、近世になって広まったものといえよう。

盆栽は、1870年代にアメリカに持ち込まれたというが、その経緯ははっきりしない。海外における盆栽についての確実な記録は、万国博覧会への出品である。宮内省の庭園技師であった福羽逸人は、1878年のパリ万国博に出品され、フランスの富豪エドモン・ロチルドが購入したチャボヒバの盆栽を彼の別荘で見たと1900年パリ万国博の報告書に記している。ところがこれは、その後手入れできる者がいなかったため大きく生長していたという。1889年のパリ万国博にも盆栽は出品されたが、のちの手入れが難しいため、日本の輸出品としては有望ではないと判断された。

盆栽の存在は海外に知られてはいたが、bonsaiという表現は、明治期にはほとんど普及していなかった。日本の都市、住宅、庭園、および日本人の日常の暮らしについて詳しく紹介したモースの『日本人の住まい』にはいくつかの図とともに盆栽の記事が載っているが、小人の木、矮性の木と記されているのみでbonsaiという表記はない。該博な知識をもとに日本のあらゆる面にわたる紹介を試みたチェンバレンの『日本事物誌』にもbonsaiは現れない。第二次大戦まで、盆栽は中国・日本を中心とする不思議な東洋の趣味としてほんの一部の外国人に知られていたにすぎなかった。

海外で盆栽が関心を呼ぶのは第二次大戦後である。戦後アメリカではブルックリン植物園、ワシントンの国立樹木園で盆栽の栽培と研究が熱心に行なわれ、海外の盆栽熱の先鞭を切った。日本交通公社が戦後日本の紹介と観光客誘致をめざしてツーリスト・ライブラリーと題したシリーズを発行していたが、その第二五輯にbonsaiがあり、これが英語で書かれたもっとも包括的なはじめての盆栽紹介の書となった。

1960年代になって、盆栽に関する紹介書が、アメリカを中心に英語文化圏で出版されるようになり、盆栽への関心が高まった。しかしそのタイトルにはまだbonsaiは副題に用いられることが多かった。
bonsaiという表現が、そのままで用いられ広く受け入れられるようになるのは1970年代である。アメリカ、カナダをはじめヨーロッパにもすでに盆栽の愛好家組織があったが、それらがボンサイ・クラブなどの名称で活動を広げ、ボンサイを商売にする園芸商も生まれてきた。

現在海外でボンサイがさかんな国は、イタリア、スペインである。イタリア最大、というよりヨーロッパあるいは海外における最大の盆栽商といえるのがクレスピ。ボンサイであろう。創業者のルイーギ・クレスピが1959年ごろから盆栽に関心を抱きはじめ、20年間日本をはじめ東アジア各地を訪問し、修業をした末1979年に設立した会社である。現在ミラノを本拠地に、イタリア国内に千店を超す取引園芸商、支店を持つ。ミラノ郊外に広い盆栽苗圃を持ち、そこにはボンサイ博物館、ボンサイ大学を併設している。博物館には数百年の樹齢を有するといわれる中国、日本の古典盆栽のコレクションが展示され、大学では三年のコースで芸術史、植物生理学などの講義、盆栽造りや手入れの実習が行なわれている。

盆栽に関する書物も出版している。イタリアには盆栽雑誌がほかに少なくとも二誌あり、これらに紹介されているイタリア国内の盆栽愛好家のクラブは200近くある。スペインにも、愛好家の同人誌ではない一般向け盆栽雑誌が少なくとも二誌あり、国王ファン・カルロス一世も、またながらく政権を担当した前首相ゴンサレスも盆栽愛好家である。

このような世界の盆栽愛好熱にも動かされ、日本盆栽協会が中心になって世界盆栽連盟が設立された。メンバーには発祥の地中国をはじめ、東アジア、東南アジア、北米、南米、ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカなど世界各地の主要国の盆栽協会が加盟している。また各国の盆栽協会に加盟していない愛好家のグループも世界中に数多く存在している。

盆栽は中国で生まれたが、世界に広まったのは日本の盆栽による。というのもたとえば中国からの強い影響があったベトナムですら盆栽店の看板盆景ではなくbonsaiとローマ字表記されているほどである。いまやbonsaiが世界の共通語となっている。
しかもボンサイは、日本の影響、日本人の指導を離れて一人歩きしはじめている。素材は、はじめ日本のマツやカエデが多かったが、今では現地の樹木をボンサイに仕立てることが増えている。

また日本では、まだ老人趣味とみなされる傾向があるが、海外では若者にも人気があり、若者向けブティックやレストランのインテリアとしても用いられている。都会の目抜き通りで、日系人ではない若者が屋台の店を開き、現地の樹木で仕立てたボンサイを売っている姿が見られるブラジルは、ボンサイがいまどのように世界への広がりをみせているかがはっきり読みとれる典型的な地域といえよう。



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