日本語が世界で有名になって外国語になった言葉|あ行

1.いけばな【生花】
この風土における挿花芸術の総称として「いけばな」の語がそれまでの華道や花道などの語に代わって用いられるようになるのは、第二次大戦後である。「いけばな」という言葉自体は1930年ごろまでに広く一般に定着していたものの、まだ挿花芸術のあらゆるジャンルを含むという形では用いられていない。

「いけばな」という言葉のもとになった「いけはな」という語は17世紀早くの文献に見えるが、これがそれまでの挿花芸術の主流であったまっすぐな真を立て左右を違えながらもシンメトリー的な世界に帰結する「たてばな」にたいする新様式を示す語として用いられるのは18世紀に入ってのことである。それは新興の拠入花が天地人といった役枝を定めて様式的に確立したことの証しであり、生花、挿花、活花をはじめとするさまざまな字があてられた。

19世紀前半の生花の教本には「いけばな」という濁音による表記も見られる。いっぽう17世紀前半に様式を整えた「たてばな」は「りっか」と呼ばれるようになったが、これはずっとのちまで「いけはな」とは区別されたのである。

この「いけばな」という言葉が日本の挿花芸術一般をさすようになったのは、とりあえずは江戸時代後半における広範な展開によって「生花=いけはな(のちにはせいかとも発音される)」の様式がきわめてポピュラーなものとなり、挿花芸術の中心となったからだが、さらには昭和初期の挿花芸術の革新運動の推進者たちが華道などの古い語を排して意識的に平仮名で「いけばな」の語を用いたことも影響したと考えられる。

すなわち重森三玲、中山文甫、勅使河原蒼風らの日本新興いけばな協会の設立(1930年)とその「新興いけばな宣言」であり、重森を中心とする同様なメンバーは、1950年、雑誌『いけばな芸術』を創刊している。こうして1950年代半ばまでには「いけばな」の語が挿花芸術の総称として定着したのである。

さて現在、外国の主な辞典、百科事典にはたいてい「イケバナ」の項目があり、また各国の主要図書館で「イケバナ」の語で検索が可能になっているが、もちろんこれはかなり新しいできごとである。もっとも「いけばな」という言葉自体は早くから西欧に知られており、1933年に出版された『日本花芸図録』の中で角谷緑三は「イケバナといふ言葉は対外的にも広く宣伝され行渡ってゐる」と書いている。

しかし日本でもまだ総称になっていないくらいだから、公に用いられる言葉ではなかった。普通は「日本のフローラル・アート」か、「日本のフローラル・アレンジメント」という表現が行なわれていた。日本の挿花芸術をはじめて外国語で詳しく紹介したのは、ジョサイア・コンダーであるが、1891年に日本で英文で刊行されたその大著の初版の題名は『日本の花とフラワー・アレンジメントの美術』であり、8年後に刊行された改訂第二版の題名は『日本のフローラル・アート』であって、「いけばな」という語はいっさい用いられていない。

コンダーは明治政府が日本の建築の近代化のためにイギリスから呼び寄せたお雇い外国人だったが、日本の文化の全般に興味を寄せ、深い造詣を示している。彼はたくさんの教本類を蒐集、日本生まれの夫人の助力を得てこの著作をものしたが、「いけばな」という言葉こそ使わなかったものの、日本のいけばなが西欧のフラワー・アレンジメント一般とも、また中国の挿花とも異なる独自の世界を切り拓いたゆえん、すなわち植物の枝や茎を「線」として捉えることで、それが間までを考慮に入れた空間芸術として展開したことを指摘している。

コンダーの紹介は当時のヨーロッパでは単純化や花以外の素材の使用という点においてのみ受けとめられたようだが、第二次大戦後の西欧のフラワー・アレンジメントの世界で、かなりパターン的な理解ではあるものの、日本のいけばなに由来する線を活かす構成が意識された例がある。

いけばなについての外国語による著作は日本人によるもの、外国人によるものをあわせ、もはや無数と言っていいほどだが、その題名を見ると、もちろん例外はあるが、だいたい1960年代前半が転機で、それ以前の「フラワー・アレンジメント」が60年代後半以降、ほとんど「イケバナ」になってくる。これは先述したこの風土における用語の変化にまさに対応していると言ってよいであろう。もっともこれには、先述のいけばな改革運動に参加した勅使河原蒼風の努力も大きい。

蒼風は第二次世界大戦以前から欧米人にいけばなを教え広めることに熱心で、1933年には「欧米に日本の挿花を理解してもらう」ために重森三玲編の私家版バイリンガル教本を刊行している。

もっともその英文題名には「イケバナ」ではなく「フラワー・アレンジメント」が使われていたが。戦後、マッカーサー夫人の知遇を得る幸運に恵まれた蒼風はいちはやく活動を開始、1947年には英文の小冊子『イケバナ日本のフラワー・アレンジメントの美術』を刊行する。戦前にも日本の各流派の免状を持つ外国人がないわけではなかったが、この戦後早い時期にアメリカを中心とする大勢の女性がいけばなを習ったことの影響は大きかった。

1956年エレン・ゴードン・アレン夫人の提唱になるイケバナ・インターナショナルの結成もこれに繋がるもので、発足時で30カ国、140支部、1万人の会員という規模は、そのネーミングとあわせて「いけばな」を国際語とするのに大きな力を持ったと言えよう。日本でも1966年に発足した各流派の連合組織を日本いけばな芸術協会と命名したことで、「いけばな」は紛れもない挿花芸術の総称として確認されている。

「いけばな」の外来語としての定着の度合は、各国の辞書や事典の項目としてのたて具合で知れよう。管見によれば1950年代ではまだ「イケバナ」という項目をたてる辞書や事典はない。1960年代に入ると、フランスのラルースの百科事典、ドイツのマイヤーズ。レキシヨン、イタリアのガルザンテイの辞書などに「イタバナ」の項目が登場し、それぞれ10から20語くらいの説明がつく。

これが1970年代後半以降になると「イケバナ」の項目をたてるものがぐんと増えて、80年代後半には非常に詳しい長文の解説を載せる事典も現れる。その表現はさまざまだが、これらに基本的に多く共通して見られるのは、まず「いけばな」という言葉の成り立ちの解説で、「花」を「生かす」という意味だということが指摘される。

内容については、美的なだけでなく象徴的な意味をあわせもつと説明するものが圧倒的に多い。これは今日のいけばなの説明としては不充分とも思えるが、このあたりが異文化の紹介の難しいところであろう。試みに1999年3月刊の、あるイタリア語外来語辞典の解説を紹介しよう。ほとんど標準的といってよい内容である。「イケバナ日本語。男性名詞。花や植物の各要素を美的かつ象徴的な意図をもって調和よく構成する日本生まれの技芸、またその構成自体」。



2.うきよえ【浮世絵】
浮世絵をどのように解釈するかは、現在二つに大きく分れている。室町末期からやまと絵の領域で描かれ、狩野派が主になっていった風俗画は、桃山時代に発展するが、この近世初期風俗画から浮世絵が始まったとするものが一つである。他の一つは菱川師宣が版本の挿絵を独立させ絵そのものだけで作品を制作したいわゆる一枚絵の誕生から始まるという。

一枚絵はもちろん版画で、武家を中心とする近世初期風俗画の肉筆画とは様式的にもまったく異なるものであった。版画は一図を制作すれば、何百枚もの多量の作品が容易に生まれ、廉価にして庶民層の需要に歓迎されたのである。

近世初期風俗画も一枚絵もそこに描かれる内容は、主として庶民の生活を活写することであり、その点では同一で、浮世絵そのものが、庶民を描くものと考える立場からすれば、浮世絵の起源は近世初期風俗画にあるとしなければならない。しかし浮世絵を庶民のものとして版画に重きをおく考えにすれば、浮世絵は師宣(1694年没)が始祖となる。

「浮世絵」の初見は師宣絵本『月次のあそび』(1680年)ほかにもみられ、その翌年西鶴の『好色一代男』に「扇も十二本祐善が浮世絵」など以後多くみられるが、同じく西鶴の『男色大鑑』‐(1687年)には、承応年間に浮世絵をよくしたという花田内匠の名を記している。のちには「浮世ござ」「浮世袋」など、当世風の器物の名称に「浮世」をつける用例が多くなり、「浮世絵」もその一つで、「浮世(当世)人物を描く絵」に使用されたと思われる。

浮世絵を最初にヨーロッパヘ持ち帰った人物は、長崎出島のオランダ商館長を三回もつとめ、3年8ヵ月の在日期間をもつイザーク・テイチングであるという。1779年に商館長をつとめたことのある彼は、ヨーロッパに一1796年末に戻っていったが、その持ちかえった浮世絵もかなりの量であった。

18世紀の後半は、一枚絵の浮世絵というジャンルからいえば、師官丁杉村治兵衛の墨招絵とそれに手彩色をした懐月堂。政信の丹絵・紅絵時代が終わり、豊信・清満の二、三色摺の紅招絵から多色招(錦絵、鈴木春信が1765年に発明)時代に入り、春章。文調・湖竜斎・清長・歌麿。写楽・豊国・重政・栄之・俊満などの黄金期をむかえていた。

歌麿は1806年に没するが、以後美人・役者。力士を中心としてきた人物中心の浮世絵が、その後の時代を反映して形式化し、工芸的要素を付加しつつ変質し、国芳。国貞。英泉などが活躍する時期になる。幸いにも花鳥・風景画の巨匠、合理的な北斎・叙情的な広重の一門がその時代に出現、幕末の浮世絵を光彩陸離たるものにする。

広重は1858年没するが、56年パリの版画家ブラックモンドは『北斎漫画』が、輸入された陶器の包み紙となっていたのを見て浮世絵の絵画的価値をみとめ喧伝、そして、ジャポニスムの大きな動きへ進んでゆく。浮世絵自体はもともと西洋人としてはエキゾチックな風俗資料とみなしていた点が大きく、はじめ図書館に収蔵されていたものが、美術作品としての開眼によって美術館に移され収蔵されるようになっていった。

そして浮世絵はマネ、ホイッスラー、モネ、ゴッホ、ロートレックなどの画家に大きな影響を与えていった。このころの西洋画家は、浮世絵を西洋本来の油絵と比較、とくに浮世絵にみられる、人間と自然との親密な関係と日常的な光景― 江戸の遊里・芝居。日常生活の男女の生態――を描き出した趣向に、マネやドガをしてアカデミックなものの見方から解放して、新鮮な眼でパリの生活の男女を描くことに方向づけた。

ロートレックのムーラン・ルージュの踊り子や居酒屋・サーカスなど浮世絵の題材の影響によるところ大なるものがあった。一方浮世絵版画特有の色の純粋さと明るさは、西洋画にみられる陰影も色の変化もほとんどなく、同じ色で平らに塗られた色面はほかの色面と巧みに並びあい、また平面的な表現・単純化された線描で独自の美を作りだし、当時の西洋画家に驚きの日でみられた。
1867年のパリ万国博覧会以降はフランス・ドイツに浮世絵について重要な評価を下した有名な人々が続出する。

ドイツではザイトリッツ、ベルチンスキー、クルト、ミュンスターベルク。そのミュンスターベルクは1907年に「浮世絵版画は、日本本国よりも外国でより多くの作品に接し研究できる唯一の領域である」と記した。この一文によれば、明治末期までの浮世絵の海外流出がいかに大きかったかが理解でき、そして1891年にパリでゴンクールの『歌麿』、1910年ミュンヘンでクルトの『写楽』の著書が刊行されていることも裏づけることができよう。

アメリカでは欧州より一歩遅れて浮世絵に関係する人物が現われる。グーキン、バツキンガム(シカゴ=現在の所蔵先の美術館名。以下同じ)、ウェブスター、ライト(エルヴイエム)、スポールデイング(ボストン)、ミッチナー(ホノルル)などである。そしてこれら幕末から明治にかけての浮世絵の欧米海外流出は林忠正、小林文七、若井兼三郎などによって主として行なわれた。

1859年の横浜開港とともに、横浜を主題とした錦絵が描かれると、江戸時代中期より描かれた長崎絵(長崎でつくられた異国趣味の版画)は終わりをつげ、京坂で刊行された祐信・流光斎の本版招・合羽摺の上方絵もその勢力を落していく。このころ江戸で活躍した絵師として芳幾・芳年・暁斎とともに光線画といわれる風景画を描いた小林清親がいる。

しかし新聞が発行され、写真が一般化した上に、石版・銅版の発達により、時事報道面に特色をもっていた浮世絵は次第に衰退の道をたどることになる一方、版元制度を否定する山本鼎は1904年自画自刻自招を唱える創作版画運動の糸口となる本版画「漁夫」を発表する。浮世絵版画の特色は、版元制度によるもので、版元が絵師と彫師、招師の職方をまとめて作品をつくるものであったが、この制度でもう一度世に認められる作品を制作しようとしたのが渡邊庄三郎で、大正新版画運動という。

美人画に橋口五葉と伊東深水、風景画に川瀬巴水と吉田博、役者絵に名取春仙と山村耕花とおのおの個性ある作品を庄三郎はつくらせた。また外国人でこの版元制度を、程度の差はあれ、採用した浮世絵愛好の画家が存在する。エリザベス・キース(1956年没)、リリアン・ミラー(1943年没)、ポール・ジャクレー(1960年没)など、江戸以来の浮世絵から第二次大戦後の現代版画につながる版画史上に残る作家たちである。

近世初期風俗画が上方に起こり、それが江戸へ移行するにあたって岩佐又兵衛の存在が大きいとみられるが、17世紀の中ごろよりみられる「寛文美人図」が浮世絵肉筆画として庶民の手によって制作されはじめ、肉筆のみを描いた長春・井特が存在するが、その伝統は版画絵師の多くが肉筆にも手を染めている事実が明らかにしている。

浮世絵は多くの流派を形成した。そのなかで幕末もっとも多くの門弟をもった歌川派も伊東深水で終わったものの、唯一鳥居派は元禄期の初代清信から連綿と芝居世界を背景に生き続け、鳥居派中紅一点の九代清光を名乗って現代で活躍している。浮世絵独自の彫・招の技法は確実にこんにち伝承されてきているが、その後継者の育成は難しく、その高度の技法を駆使する絵師も少ない。


3.おきなわ【沖縄】
沖縄は南西諸島の中心たる沖縄本島をさす地名で、現在は日本の47の都道府県の一つである沖縄県の意味でも使われている。琉球王朝時代では沖縄(ウチナー)は周辺の離島からみた王府の所在地、すなわち首里・那覇周辺の沖縄本島南部だけを呼ぶ名称であった。沖縄が登場する最初の文献は思托著の『唐大和上東征伝』(779年)で、そこでは遣唐使藤原清河の一行が帰朝途中「阿児奈波島」に漂着したと記述されている。

『平家物語』長門本と『おもろさうし』には平仮名で「おきなわ」または「おきにや」と記されている。島津の琉球入りの後では「沖縄」はしばしば薩摩藩の公文書に使われ、それをふまえたうえで新井白石が1719年(享保四)の『南島志』で「沖縄」と書いており、『大日本史』などはそれに従っている。語源については様々な説があるが、東恩納寛惇の「沖の島」よりも島袋源七や伊波普献の唱えた「按司」(領主)または「沖」の「那覇」=漁場という説は説得力があると思う。

ところが『隋書』「東夷列伝」に出てくる「琉求国」以来、中国の文献では沖縄および南西諸島域は「りゅうきゅう」と呼ばれ、この読みに対してさまざまな漢字が与えられた。
実はこの地名は西洋の文献に現れる、もっとも古い日本語である。また単なる地名だけではなく、おきなわ【沖縄】複雑な意味合いで、ヨーロッパの思想史の中に役割を果たした。

すでに15世紀後半のアラブのインド洋航海案内において沖縄はアル・グール島として記述され、そこではまたジャワ島ではアル・グールが「リキヴー」と呼ばれていることも述べられている。1498年にポルトガルの大航海士バスコ・ダ・ガマをアフリカからインドのカリカットまで案内したアラブの水先案内イブン・マージドは数多い航海記録を著したが、彼がダ・ガマに金銀などの恵みあふれる「リキヴ」について紹介して以来、琉球は西洋人の間で東洋の楽園、地上のパラダイス、金銀島のエル・ドラドとされ、16世紀前半を通じてむしろ日本よりもはるかに注目され、日本が「発見」されたことさえもこの琉球への関心の副産物であったといってもさしつかえないだろう。

江戸前期に入り琉球王国の外海貿易ネットワークが消滅し、ヨーロッパと日本との間の交流も次第に限られてくると、「りゅうきゅう」はヨーロッパの視野から消えていったが、模範としての日本というきわめてポジティブな日本観がネガテイブに変わってきた啓蒙主義時代の19世紀初めには、琉球があらためて「再発見」される。

1815五年(文化一二)沖縄に寄港したイギリスのバジル・ホールの報告はヨーロッパやアメリカで広く読まれ、武器を捨てた真の平和の中で暮らしている小国家琉球はこれで一挙に有名になった。
とくにセント・ヘレナ島に島流しにされたナポレオンが、武器をもたない民族がこの世にあると聞いて驚いたというエピソードはよく知られている。

人類は戦争を止め、平和に暮らすことができるという、イギリスやアメリカで活躍した平和運動の希望と模範となり、多くの文献で取り上げられた。その一例を挙げると、1839年ポートランドで出版された偽作文は代表的なものといってよい。

フランスのデュルヴイル著の偽作『世界漫遊記』またはロシアのゴンチャロフの『日本渡航記』はいずれも青空の下で珊瑚の海に平和的に暮らす琉球のイメージを強く打ち出している。琉球の島々はいうまでもなくヨーロッパとアメリカの列強の覇権争いの的でもあったが、 一般市民の間にはむしろこの南洋の楽園のイメージとそれへのあこがれの合が強かった。

琉球が近代国家日本にいわゆる琉球処分で併合されると、琉球に関するヨーロッパ言語での文献が1890年代に急速に増えた。1900年代にはいると、「琉球」という名称が消え、今度は「沖縄」がそれに代わって用いられる。しかし、琉球の島自体はあまり大きな関心を呼ばなかった。

第二次世界大戦後、こういった事情は再び大きく変わる。1945年4月1日にアメリカ軍を中心とする連合国軍は沖縄本島に上陸し、約3ヵ月の血戦で日本帝国陸軍を征服した。第二次世界大戦の最後のこの戦いは沖縄戦と呼ばれた。

米軍が慶良間諸島に上陸した1945年3月26日に発表された米軍政府布告第一号において「琉球」という言葉が使われたのは偶然かもしれないが、平和という意味合いが濃い「琉球」と戦いを連想する「沖縄」は今でも明確に分けて用いられているようだ。沖縄空手と琉球舞踊はまさにその良い例である。

ただ例外もある。ヴェルン・シュナイダーが1951年(昭和二六)に著した小説『八月十五夜の茶屋』は「沖縄」という言葉で始まり、非常に理解と同情にあふれたかたちで、戦争直後の苦難を乗り越える沖縄住民と占領軍とのやりとりを描いている。これは後に劇作となり、マーロン・プランドを主役とした映画として全世界に平和な沖縄のイメージを伝えた。

しかし1960年後半からアメリカのベトナム戦争が激化するにつれて、沖縄は改めて軍用基地として注目され、「太平洋のキーストーン」と呼ばれ、現在にいたっている。


4.おんせん【温泉】
日本における温泉の利用は、縄文時代にさかのぼる。だが、文献上の資料としてこんにちまでのこっているのは、奈良時代からである。『風土記』のたぐいがそれである。たとえば、733年(天平五)に編まれた『出雲風土記』には、出雲の国造が、その代がわりの新任にさいして朝廷に参向うとき、こ務役所の西に位置する忌部(御沐の忌里の意)の神戸というところにある玉造川のほとりの温泉で、ミソギをして清浄潔斎したことを伝えている。

『出雲風土記』のこの玉造温泉のくだりは、さらにつぎのようにつづいている。出湯のある場所には、老若男女が日ごと集まって、まるで市がたったようにみんな入り乱れて酒宴をし楽しんでいる。温泉は日本人にとって、ながらく湯治場として親しまれてきた。湯治が目的の旅が、庶民のあいだでもさかんになるのは、江戸時代のことである。幕藩体制のもと、庶民の旅は厳しく規制されていたが、社寺参詣と療養湯治にかぎって例外とされていたからである。

外国人による日本の温泉の発見も、やはり江戸時代のことであった。鎖国のなかとはいえ、長崎にやってきたヨーロッパ人の江戸参府の旅行記には、当時の温泉の情景が描かれていて、興味ぶかい。のちに「出島の三学者」といわれたケンペル、ツンベルグ、シーボルトは、長崎から近いせいもあって、いずれも嬉野温泉を訪れている。

ケンペルは、1690年(元禄三)の嬉野温泉での体験を、「その湯には匂いも味もなかった。それで効能は単に温度のせいだということに、私は何ら疑念を抱かなかった。われわれを案内して来た者は、それが普通の湯ではないという証明をするために、あたりに枝をひろげているクスノキ(カシワの木ぐらいの大きさで道中われわれの注意をひいた二番目の大木であった)の小枝を折って、それを煮えたぎる湯の中へ浸し、皆に一枚ずつ葉をかませると、すぐに唾と回の中が黄緑色に染った」と記している。

シーボルトも、1826年(文政九)の日録に、「日本の医者は、慢性病や痘蒼・麻疹の病後の療養として、また麻痺のような運動器官の弱っている場合、痛風やリウマチなどの時にこの嬉野温泉の利用をすすめる。1回5文ないし10文(五百文は約一グルデン)と入浴料金が安いから、裕福でないひとでも温泉を利用することは容易である」としたためている。

温泉の医学的な効用については、すでに江戸時代の中期に、医師の後藤艮山によって説かれはじめていた。しかし、日本の温泉治療を近代医学の立場で本格的に推しすすめたのは、東大医学部の「お雇い教師」として来日していたベルツ博士である。かれは、1884年(明治一七)に「持続温浴について」と題する論文をドイツの医学雑誌に発表して、日本の温泉を世界に紹介したのであった。ベルツは、温泉医学を推進させただけでなく、箱根や草津温泉の温泉場の開発にもおおいに貢献した。わけても、「お医者さまでも草津の湯でも、恋の病はなおりゃせぬ」とうたわれた草津温泉が、たいそうお気に入りだったようである。

『ベルツの日記』の1904年(明治三七)をみると、ベルツは土地の人々に各種の改革を提案したが、当初はさっぱり受けいれられなかったらしい。「だから自分は、そんな連中に愛想をつかし、もう草津のために尽力することをよしてしまった」という。けれども、「今では、この土地もはなはださびれ、訪れる人の数は減った。そこで土地の人々も、これではいけないことに気がついた。

今後はいっさい、自分の言葉に従うとのことなので、自分は、一人の医師に勧めて、夏のあいだ、同地で開業させることにした。これだけでも、客を引寄せることだろう。それから、日本人の療養所と西洋人のとを建てねばならないし、それにホテルも必要だ。草津には、無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、まったく理想的な飲料水がある。こんな土地が、もしヨーロッパにあったとしたら、カルルスバード〔ドイツのボヘミア地方にあるヨーロッパ第一の温泉場〕よりもにぎわうことだろう。しかし、この草津へ来るのは、ほとんど下層社会の人々ばかりである」と書きとめている。

ちなみに草津は、1925年(昭和一〇)にベルツの顕徳碑を建てて博士をしのび、現在では、ベルツの故郷のビーティヒハイムと姉妹都市をむすんでいるのである。
日本の温泉の利用法は、あくまでも入浴が中心である。飲泉を主とするヨーロッパの温泉とは、いちじるしく異なっている。43度以上の高温泉が多いことも、日本の温泉の特徴である。

イギリスの初代駐日公使だったオールコックの『大君の都』は、滞日3年間(1859―62)の記録である。かれは短期間に幕末の日本各地を踏査して、その経験を丹念に書き記した。箱根湯元の温泉に立ちよったさいには、「入浴民族である日本人」が、「入浴するためにひじょうに遠くの方からやつてくる」ことに感心しながら、この箱根の浴場は、さながら「ローマ人における浴場、フランス人におけるカフェのようなもので、堂々たる娯楽場である」と評している。

チェンバレンも、『日本事物誌』(1890年)のなかに「鉱泉」という項目をもうけて、日本各地の温泉を紹介した。「幾百とある日本の温泉の中でもっとも有名なものは次の通りである。硫黄泉では、草津、産の湯、日光の近くの湯元、那須、塩原、長崎の近くの雲仙。鉄鉱泉では伊香保、有馬、別府。塩泉では、熱海、磯部〔妙義山麓の鉱泉〕。宮ノ下は、外国人にもっとも有名な温泉の一つで、ほんの少量の塩と炭酸しか含有しない。したがって、医者の助言も必要とせず、ただ遊びのためにのみ用いられているとのべている。

日本の温泉は、明治以来、こうして世界じゅうにひろく知られるようになった。けれども、「温泉」という言葉それ自体が、まだ外国語として定着するにはいたっていない。温泉は、古くより地球上のあちこちで湧き出し、発見されて、療養の場として利用されてきた。しかも、その土地の自然と風土を離れて輸出されることが、すこぶる困難な装置でもある。

日本の温泉は、治療。休息と遊興・歓楽とが利用法の二大柱であった。もっともこんにちでは、後者の方にすっかり重点がうつってしまっていることは否めない。いずれにしても、入浴の快楽(R ・ベネディクトの用語にしたがえば、「一種の受動的な耽溺の芸術としての価値が国境をこえうるかどうかが、「温泉」がどこまで外国語化の道をたどるかを占ううえで、ひとつのカギとなるであろう。


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