日本が移民していた時代にハワイからペルーへ移民先を変えた結果

1.ペルー佐倉丸移民事件
大洪水に打ちのめされた明治29年から31年にかけて、新潟県の専業農家は800戸も減少し、北海道・東京などへの挙家離村や出稼ぎが増加した。もともと新潟県下層民の東京流出は多かった。明治17年の古物商・屑拾い・遊芸人・車引き・乞食などの旅人宿宿泊者の調査でも、新潟県原籍者は東京隣県の埼玉・千葉・神奈川に次いで多かった。明治26年の松原岩五郎『最暗黒之東京』をみても、東京四谷鮫ヶ橋スラム街居住者の出身地には、越中・越後・加賀・越前など北陸が多いという記述がある。

海外への移民も増加した。もともと、ハワイ移民などに関しては北陸方面は「後進県」であり、明治25年の新潟県からのハワイ移民は99名にすぎない。それが大洪水をへた32年には1387名を数えるようになった。

この年、森岡商会をはじめとする大手の移民会社4社が続々と「移民後進県」新潟に乗り込み、営業所を開設している。前年、アメリカがハワイを併合したことにより、ハワイにもアメリカの移民法が適用されることになる。それによって契約移民のハワイ送出が困難になることを見越した、駆け込みの移民募集が狙いであった。

その結果、森岡商会だけをとってみても、明治31年末から14カ月の間に、新潟県下から1558名の申請者を獲得している。強引な募集のやり方を危倶した地元有力者たちは、その「山師的利益第一主義」から県民を護るために、32年に新潟殖民株式会社を設立した。

同社の設立趣意害に「地の利全く消耗して富力欠乏し、貧民益と増加して其極寛に骨肉相食むの惨状」とあることをみても、洪水禍に苦しむ貧民の「救済」として移民(棄民?)という方法がとられたことがわかる。
そのなかで悲惨をきわめたのはペルー移民だった。

森岡商会は移民のハワイ送出が困難になったのをみて、新たな移民先の一つにペルーを選んだ。そして、事前調査もしないまま、全国から790名の移民を送り込んだのである。そのなかの373名、47%が新潟県民だった。

ペルーに渡った移民たちは、契約と違う長時間労働や、マラリヤなどの風土病に苦しめられ、死者か続出した。そのなかには「思郷病性発狂」で畑で狂い死にと記されたケースもある。やがて、「カッケ病に迫られ棒をつきながら門に立し、カップを出し貰を乞う」と記した必死の訴えが日本の家族のもとに届いて、一躍社会問題となった。だが、結末は624名(渡航者の79パーセント)が異郷の地で亡くなったのである。新潟県から移民した373名のうちでは、267名が犠牲となった。







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