1. 日本語のルーツはアルタイ語なのか別の言語が存在していたのか

日本語のルーツは
私たちが日本語と呼んでいる言語は、いつごろからこの島で作られて語られたのでしょうか。

3世紀中頃につくられたという「魏志倭人伝」には、日本に関する記述があり、その中に、日本の地名と官職名などが書かれている。対蘇(トサ)・奴(ナ)・邪馬台(ヤマ卜)などの国名のほかに、彦・伴・姫子・夷守などの、普通名訶や、役の名などがある。

これらは、中国語の文字で、その当時の字音で書かれているが、8世紀以後の日本の地名や名詞と連絡のつくものがある。日本語には、古事記や万葉集など、8世紀の文献があるが、その8世紀の日本語は、これによって3世紀の半ばまでは、さかのぼることができるものと見てよいと思う。

日本語の古さは、ここまでは文献的にたどることができる。しかし、これ以前については、私たちは直接の言語資料によって、日本語の古さを確かめることはできない。

明治時代以来、日本語の系統論という一つの領域が、言語の学問、国語学の中にうちたてられた。これは、ヨーロッパの言語学が課題としたところを日本語に適用して、問題に取りあげたのである。

ヨーロッパで英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語などの諸言語を、一つの系譜の中に収めることができたには、今から二千年・三千年前の言語の記録が、各所に残っていたという幸福な事情があった。

しかし、こと日本語に関しては、さかのぼって8世紀まで、断片的には3世紀半ばまでの記録があるにすぎない。隣国朝鮮は、15世紀になって初めて自分たちの言語を自分たちの文字で記すことを始めた。蒙古語も、13世紀の記録が古いとされる。

琉球語は、12世紀の資料までしかさかのぼれない。何千年かの古さを持つ中国語は、日本語とは全然性格の異なる言語であるから、比較してもあまり意味がない。これらの条件の悪さは、まさに致命的である。それにもかかわらず、言語学者たちは、さまざまに研究の努力を重ねた。そしていくつかの事実が明らかになった。

日本語はアルタイ語(トルコ語・蒙古語・満州語・朝鮮語など)と文法的構造はかなりよく似ている
・朝鮮語とは単語の上でも対応するらしいものがある。しかしそれは、二百語前後である。

・古代日本語には、アルタイ語と共通な母音調和と呼ばれる現象がある。しかし、単語の上の対応は日本語とアルタイ語との間では極めて少ない。
琉球語は日本語と同じ系統である。

・南方の言語には、日本語と文法的構造の非常に異なるものが多く、日本語と親戚関係にあると思われるものは、まだ見出されない。ただ、日本語と同じような、完全な母音終りを持ち、また、簡単な頭子音組織を持つ言語として、ポリネシア語・パプア語などがある。

チベット語・ビルマ語は語順が日本語と似ている。しかし単語の対応は見出され言語は決して言語のみで成立しているものでなく、それを語る「人」があるはずであり、その「人」は、着物を着、物を食い、結婚し、死んで葬られる存在である。人間は古代にさかのぼればさかのぼるほど、強い慣習の絆にしばられている。言語が多くの場合、文化と複合して共存しているのは自然である。

日本の最古の文献時代である8世紀の歌謡や、それ以後の物語などによれば、日本には母系的な結婚の習俗が根強く行きわたっていたことは明白である。単に母系的な結婚の習俗だけではない。女王や、女の巫子、太陽神の崇拝。さらには、神話の内容、神の観念などにおいて、古代日本文化に見られる南方的要素は、時代がさかのぼるほど濃くなってくる。

ところが、古墳時代以後、日本に対して優勢だったのは、北方シベリア的遊牧民族の文化であって、ここには母系的な文化を見ることがない。それでは母系的な文化は、いったい、何時、日本に入って来たか。

つまり、この南方的な文化は、水田稲作や金属器、機織を持った弥生式文化によって圧倒され、下敷きにされ、やがて社会の下層へと追いやられたものなのではなかろうか。

従って、弥生式文化が日本に入って来て、それまでの縄文式文化の生活を一変させ、次第に東へ勢力を拡大し、近畿地方にまでその力を及ぼした際、それらの地域にその文化を持った言語が広まったのではないかと考える。満州人が満州語を忘れて中国語を使うに至った過程は、三四百年間と見てよく、フランスにラテン語が広まって、それ以前に行なわれていたケルト語を駆逐してしまったのは、数百年間の出来ごとであるらしい。

それゆえ、西暦紀元前3世紀くらいに始まった弥生式文化の時代になってから、紀元後3世紀までに、それ以前の日本語がアルタイ語的な文法組織を持った言語に代えられたという推測は、あり得ないことではないと思う。こう考えれば、文化史の上の事実と言語の上の事実とが、よく調和すると思う。その具体的な言語として南インドのタミル語を擬している。

2. 一方、日本には文化あって以来アルタイ語的な言語が行なわれていたもので、言語的な転換など、行なわれなかったと主張する人もある。しかし、縄文式時代の西部日本の出土品は、北方シベリア地方で発掘される形式のものと、だいぶ相違しているという事実がある。

文化は文化、言語は言語、別々のもので、それを直ちにひきつけて考えてはならないという言語学の信条を、そのままここに適用することもできるが、文化と言語とが、しばしば相重なり、複合しているという事実もまた見逃してはならない。

日本語がアルタイ語系に属するとしても、アルタイ語の特徴ともいうべき母音調和が、どうして、日本語については8世紀までで滅びてしまったのか。また、なぜ日本語だけがアルタイ語の中で、孤立して、完全な母音終りを持っているのか。

それを、弥生式文化期に起ったタミル語の進入以前に、日本の土地に行なわれていた言語の、何らかの影響によるものと考えている。即ち、縄文式文化の時代には、南方のアウストロネジャ語の中の一つが日本に行なわれ、弥生式時代になって、タミルの文化が日本に進入して来た時に、その言語が、それと共に進入してきて前の言語の上にかぶさり、広まったのではなかろうかということになる。

日本語の成立は、古代日本文化史との関連なしには、考えることができない。そして、文化史と言語史とを結び合わせるには、右のような考えに多くの妥当性があると思う。
ともあれ、8世紀以後の日本語と朝鮮語とを比較すると、文法形式の酷似すること、単語の対応などの点で、この二言語が関係をもっていることは確かである。従って、文字以前の日本語について、最も注意すべきはタミル語及び朝鮮語との関係である。

アイヌ族は本州東北部に住んでいたが、低い文化生活を営んでいて、文字もなく、日本語に大きい影響は与えなかった。
これが、歴史以前の日本語についての大体の姿である。







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