日本を徹底分析して世界でのイメージやランキングを公開
目次
軽自動車は日本の技術で世界の人にマイカーの夢を現実にした
1.ヒマラヤ登山のベースとなっているネパールの首都カトマンズ。主要な道路は常に車でごった返していますが、そこで目立つのが「SUZUKI」のロゴです。スズキはインド政府との合弁でインドにマルチ・ウドヨグ(現在のマルチ・スズキ・インディア)社を設立し、日本国内で販売されているアルトの海外版である軽自動車「マルチ800」を大ヒットさせました。そのマルチ800が、カトマンズでしきりに走っているのです。車体が小さく小回りがきくため、道幅の狭いネパールの交通事情には最適です。今ではカトマンズのタクシーのほとんどが、スズキ製と見られます。
ネパールは人口2900万人。2008年に王制から共和制に移行しました。国民ひとり当たりのGDP(国内総生産)は約1200米ドル、1ドル90円で計算して足らず。
平均年収は250ドル(2万2000円)です。
ネパールの人にとって車に乗るなどということは夢のまた夢でしたが、今では、仕事をするのに車を使うことは当たり前で、マイカーを持つ人も増えています。
インドネシアも同じです。こちらはスズキだけでなく、トヨタ、ホンダ、ダイハツ、三菱など日本製の軽自動車がそろい踏みし、現地での生産・販売・輸出を行なっています。日本が、キャデラックのような高くて富の象徴である大型車ではなく、安くて便利な軽自動車を創り出したことで、途上国でも、車とは無縁だった庶民が車に乗れる時代がやってきたのです。
ネパールなどの途上国で起きていることは、日本では1950年代に起きました。日本で庶民が車を持つ先駆けとなったのは、1958年、富士重工業が発売した「スバル360」です。排気量が360ccと小型ですが、大人4人が乗れます。丸みをつけたユニークなデザインから「てんとう虫」というニックネームをつけられ、人気を呼びました。
軽自動車は当時、2人乗り、もしくは大人2人と子ども2人を乗せるのがせいぜいだと考えられていたのですが、富士重工業では、大人4人が乗れる軽自動車を目指しました。また、当時の日本はほとんどの道路が舗装されていなかったため、泥道や砂利道のような悪路を時速60キロで走行できること、そして価格を35万円までに抑えることも日標とされました。いずれも無謀な試みでしたが、富士重工業の技術陣は、「庶民が下駄履きで乗れるようなクルマを作ろう」という信念で開発に取り組み、難題だった車体の軽量化やスバルクッションと呼ばれる優れたサスペンションの開発などに成功しました。こうして世に出たスバル360は、大ヒットしました。発売後10年余りで40万台近くが売れたのですが、これは画期的なことでした。というのも、それまで乗用車の価格は1台10万円を超え、朝鮮特需以降の好景気で億万長者となった成功者しか買えない代物だったからです。
同じ1959年に富士精密工業(現在の日産自動車)が発売した国産初の普通乗用車「グロリア」は147万円。クルマは当時、新築の家よりもずっと高価で、まさに富の象徴だったのです。ところが、スバル360は発売当時、42万5000円でした。35万円という目標には届かなかったものの、クルマの値段を一気に半分以下に下げ、庶民でも何とか手の届くところまでマイカーの夢を近づけたのです。
これ以後、日本人はマイカーを持つ時代に突入しました。今や個人が所有する自家用車の数は5000万台を超え、一家に1台どころか、セカンドカーを持つのが地方では当たり前になっています。軽乗用車はまさに、庶民がクルマを持てる時代を切り拓いたのです。当初のブームが去り、軽自動車は一時、販売不振に陥りましたが、その軽自動車が復活する端緒となったクルマがスズキのアルトでした。
「アルトきはレジャーに、アルトきは通勤に、またアルトきは買い物に使える、アルト便利なクルマ。それがアルトです」1979年、スズキの鈴木修社長(当時)が、社運をかけた新車「アルト」の発表会でこう挨拶すると、会場はドッと沸いたと言います。軽妙なダジャレによって新車の名前を連呼するとともに、軽自動車が庶民の足であることを宣言した名演説だったからです。そして、「新車の価格が47万円であることを発表すると大歓声が起こった」と、鈴木社長は自叙伝に書いています。
アルトは発売されると、爆発的に売れました。モデルチェンジをしながら国内でロングセラーを続けてきましたが、それだけではありません。インドや中国、インドネシアなど100以上の国と地域でも販売され、2009年、販売台数は国内外の累計で1000万台に達しています。
とくに、インドではインド政府との合弁会社マルチ・ウドヨグ社を設立し、1983年にアルトの海外販売モデル「マルチ800」を売り出しました。マルチ800はインドで爆発的にヒットし、販売台数は年間30万台を超えました。それによって、スズキはインドのクルマ市場でトップの座に躍り出たのです。冒頭に書いたように、その波はお隣りのネパールにも押し寄せました。
庶民の乗れる車を作ろうという軽自動車のコンセプトは、日本だけでなく海外でも受け入れられ、各国でマイカーを持ちたいという庶民の夢を現実に変えたのです。
2. 軽自動車のケースが示すように、技術革新によって大きな物を小さく、コンパクトにするというのが、日本のいわばお家芸です。ということは、日本が今後、どのような技術を開発すべきか、それは自ずと明らかになってきます。
そのひとつが、軽旅客機です。旅客機の難点は、長い滑走路と広い空港を必要とすることです。また、人を不快にさせる騒音や燃費の悪さもデメリットとなっています。そうであれば、日本が目指すべきは、滑走路の要らない軽旅客機でしょう。空港の発着場所からそのまま真上に上昇し、飛んでいけばよいのです。その際、騒音を100分の1に、燃費を半分にすることを技術開発の目標にする。スバルのような旅客機ができれば、人類をまたひとつ幸せにすることは間違いありません。
スペースシャトルや原子炉も同じです。小さく、高性能にすればよいのです。軽スペースシャトルや軽原子炉の可能性についても、真剣に検討してみる価値があると思います。
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