浮世絵は世界でも有名な葛飾北斎など絵師しか名を残していない

1.日本を代表する文化として最初に浮かんでくるのは浮世絵という人も多いでしょう。歴史や美術の授業で慣れ親しんでいる方は実に多いはずです。そして浮世絵に関しての認識は、明治に衰退して消滅したという歴史です。そしてその価値を真に見出したのは外国人である、ということです。

でも浮世絵に関しては多くの誤解があるようです。まずは浮世絵は、絵師しか名を残していないということです。現代の出版業がそうであるように浮世絵も実は、絵師・彫師・摺師という極めて高度な技術を要する専門の職人達と、彼らを統べる版元と呼ばれる元締めが存在しました。分りやすく言えば、作家(画家)・編集者・印刷業者・出版社ということになるでしょうか。

木版画は他の手法を用いた印刷物(西洋由来を含めて)と比較すれば、確かに一段低い評価に感じるかもしれません。浮世絵も誕生した頃は肉筆画であり、それが一色刷りの木版画となり、多くの変遷を経て多色刷りの、広く知られているあの浮世絵の姿となったのです。機会があるなら、版木にも注目してください。絵師が必死で描いた流麗なラインを、風格を損なう事無く彫り上げる(しかも左右が逆の構図)というのは、超絶的な技術と精神力を必要とするのですから。摺師に関しても見当(目当てという意味に使われる語源)を頼りに何度も色を重ねて作品を完成させる重要な役割を担っているのです。

そしてプロデューサーである版元。その手によって浮世絵は商品として世に出されたのでした。一枚一枚が手作業の肉筆画よりは大量生産の分だけ評価が劣る点もあるでしょう。でも江戸の文化文政期以降の庶民の生活でこれらは大いに持てはやされ、時代の華となったのです。複雑な経路を経て西洋へ輸出された産品(陶器が代表でした)を保護するための詰め紙として渡った奇妙な東洋の絵が、一部の美術愛好者達に評価され、後に芸術家達の間でも大きな影響を与えました。

でもこれは彼らが編み出す新しい芸術誕生の契機に過ぎないと言えば過言でしょうか。いいえ、そうではないでしょう。作りだしたのは彼らですから。明治以降の西洋画の画家達もその多いなる影響を受けたということも見方を変えれば皮肉と言えますか。その証拠に前に書いた絵師と版元以外は歴史に名を残していないという点が重要です。文化としての価値が認められていなかったわけではありませんが、脇役であるにせよ彼らの存在に焦点が当てられることは無かったのですから。西洋文化の導入がもっと早ければ、おそらく非常に手間のかかる浮世絵は誕生していなかったかもしれませんね。

出来得るだけの技術で、作れる限りの品を。これが真相だと思います。現に文明開化以降、浮世絵はその存在意義を喪ったかのように急速に衰退しましたから。少なくとも日本人は浮世絵という印刷技術に見切りをつけたのは事実です。ではその後すぐに途絶えてしまったか。その答えは一人の画家が導き出してくれます。月岡芳年という幕末から明治にかけて活躍した人なのですが、彼はその奇特な嗜好により評価が分れており、表立って紹介される機会が少なかった、ある意味不運な人生でした。でもその作品の内容はともかく、質に於いてはどの浮世絵の大家・名人にも劣らない資質の持ち主でした。

知らない人はその絵の細部までじっくりと鑑賞する価値があるはずです。彼は明治の中頃まで積極的に筆を握っていました。本来の浮世絵とはまた違うかもしれませんが、その伝統を踏襲して作品を作り続けたのは事実なのです。このことからも急速に消滅したのではないということの証拠となるでしょう。浮世絵の伝統は実は現代でも途切れてはいません。過去の名作の復刻を中心に、精力的に活動されている方々が現実に居られるのです。でもそのことを知っている人がどれくらい居るのか。日本人自身が無知であったかことに気づき、改めて知る努力をすべきではないでしょうか。



2.江戸時代の浮世絵師である「葛飾北斎」は世界で最も有名な日本人の一人です。 アメリカの雑誌で「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」の中で、 ただ一人の日本人として86位にランクインしています。

代表作は版画「富嶽三十六景」で、遠くの富士山を飲み込みそうな大波を描いた「神奈川沖浪裏」は 「ザ・グレート・ウェーブ」と呼ばれ、イギリスの大英博物館やアメリカのメトロポリタン美術館にも 収蔵されています。

存命中から北斎の作品の評価は高く、時の将軍の面前で絵を披露したこともありました。 シーボルトが北斎から買ったという絵もオランダに残されています。 人気画家でしたが、お金には無頓着で貧しい生涯でした。

北斎にとってはお金など無価値で、いい絵が描けるかどうかが喜びの尺度だったのでしょう。 「あと十年、いや五年、天が命をくれるなら本物の絵描きになってみせる」と言って 90歳で息を引き取ったと言われています。

北斎の没後20年ほどたった1870年ごろ、日本が明治になって間もなく、フランスでは北斎を はじめとする浮世絵の一大ブームが起こり「ジャポニスム」と呼ばれました

それまでは写真のように絵を描く写実主義が主流でしたが、モネ、ゴーギャン、ゴッホなどは印象派と呼ばれ、 物の特徴のみを単純化して描く革命を起こしました。

この印象派の画家たちに決定的な影響を与えたのはジャポニスムだと考えられています。 今でこそ日本のマンガやアニメが世界の注目を浴びていますが、鎖国の時代の東洋の片隅の国で描かれた絵が、 すでに世界を驚かせていたのです。







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