日本と世界を結ぶ支倉常長の慶長遣欧使節団

1.世界史の中の日本について考えるには、日本人が世界とどのように関わってきたかが重要ですが、中国大陸とのつながりははるか紀元前にまでさかのぼることができます。でも、真の意味で世界を視野に収めるなら西洋との関わりを欠かすことはできません。

となると、その先駆けとして、マルコポーロが東方見聞録で13~14世紀のヨーロッパにもたらした情報は見逃せません。これによって日本は黄金の国としてヨーロッパの人々に強く意識されることになりました。

さらにこの情報が刺激となってモンゴルが覇を唱えていた地帯にシルクロードが通じ、東洋と西洋はほぼ8か月の旅で結ばれました。絹織物を具体的な象徴として東洋のすぐれた文化を知ったヨーロッパは、黄金の国への憧慢を募らせます。

また、海では大航海時代に突入します。いわゆるコロンブスのアメリカ大陸発見もマゼラン船隊による世界一周も、めざす最終地は黄金の国ジパングだったのです。これらの航海は、発見した土地の征服、つまり植民地化と同義語でした。その先陣役を務めたのがキリスト教の宣教師たちです。このことはスペインやポルトガルが進出した南米や東南アジア地域の様相を見れば、明らかとなります。

その波が具体的に日本に及んできたのが、1543年のポルトガル人による鉄砲伝来、そして1549年の宣教師フランシスコ・ザビエルの来日、ということになります。
しかし、これらはヨーロッパがアジアを、日本を、どのように見、どのように受け止めたかの問題です。世界史の中の日本を語るには、日本人が世界に出ていって何をなしたかを見なくてはなりません。

2. 初めてヨーロッパに出かけていった日本人といえば、ザビエルの帰国に伴って向こうに渡った日本人もいますが、歴史に刻むものとなると、やはり1582年に日本を出発した九州のキリシタン大名が派遣した天正少年使節、ということになるでしょう。

しかし、この少年使節はイエズス会の神父ヴァリニャーノの発案というのでもわかるように、イエズス会の布教活動と日本での成功をローマ教会に知らしめ、イエズス会の存在をヨーロッパにアピールするのが何よりの目的でした。日本人が意志的にヨーロッパに関わっていったとはいえません。

日本人が主体となってヨーロッパに渡り交わった最初となれば、支倉常長が正使となって1613年に日本を出発、1620年に帰国した慶長遣欧使節団を取り上げなければなりません。慶長遣欧使節は謎の多い使節団です。

正使の支倉常長は俸禄600石の仙台藩の中堅武士です。派遣したのは伊達政宗ということになっています。しかし、渡航に使ったガレオン船は日本で建造しています。これは徳川家康の許可なしにはできないことです。事実、仙台藩で行われた建造には幕府の船大工が参加しています。

また、日本人の総勢約150人の一行の中には堺や大坂、名古屋の商人も交じっています。通商使節の性格も備えていたのです。一行にはフランシスコ会の宣教師ソテロが付き添っていますから、イエズス会への対抗意識といった宗教的な意味合いもあったでしょう。
しかし、それはあくまでも従で、使節団の成り立ちを見ると、徳川家康の許可というよりも後ろ盾があった、ととらえるのが正確だと思っています。

使節団は大平洋を渡り、まず当時イスパニア(スペイン)領だったメキシコに上陸、さらに大西洋を横断してスペインに到着、そして20人の日本人がローマに至っています。ところが、一行が帰国したときには日本ではキリシタン禁教令がしかれており、支倉常長は2年後に死亡しました。そのために、この使節団は何ら成果を上げることができなかった、失敗した使節団である、という評価が行き渡っています

しかし、これは明らかな過小評価です。
現在、支倉常長の肖像画は仙台市博物館に所蔵されています。小さなものですが、日本人を油絵で描いた最初の肖像画です。常長はヨーロッパの僧侶風の衣服を纒って、敬虐な顔つきをしています。常長は旅行中にキリスト教に改宗しました。そのこともあって常長を宗教的な枠に閉じ込め、キリシタン禁止の日本に戻ってからは何らなすことがなかった、という評価になっています。仙台市博物館の肖像画のイメージが常長の間違った評価に連なっていることは否定できません。

常長の肖像画はこれだけではありません。中でもローマのボルゲーゼ美術館にある常長像は注目に値します。やや派手めの絹織物の衣服で、大小の太刀を差した侍姿です。履き物は金の草履です。常長は泰然とした表情でこちらを見ています。この肖像画にはヨーロッパが受け止めた日本への驚きと讃美が凝縮していると思います。この肖像画に込められたヨーロッパの反応こそ、支倉常長がヨーロッパで何をし、日本に何をもたらしたかを如実に示しています。

徳川幕府は鎖国しました。西洋に対して幕府にこのような方針を固めさせたのは常長のもたらした情報が大きかったと思います。
鎖国といえばきっちりと国を閉ざし、世界から隔絶し、内側に閉じこもるイメージです。ですが、徳川幕府のとった鎖国はそのようなものではありません。オランダには門戸を開き、交易を認めています。

なぜ、オランダなのか。オランダはプロテスタントの国です。キリスト教布教を先兵として侵入し、侵略・征服し、収奪するキリシタン(カトリック)勢力との違いを幕府が的確に見抜いていたことは確かです。徳川幕府の対西洋政策は賢明でした。

その情報のもとになったのは常長がもたらしたものが大きかったことは疑いようがありません。それは常長がヨーロッパで何をしたかを示すものです。
支倉常長はヨーロッパの人々と深く交わり、情報を的確に吸収し、分析し、認識を固めるだけの知性を備えた人物でした。







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