英語から入った言葉の多くが漢字の組み合わせた新造語になった

洋語を翻訳して受け入れる

江戸幕府は崩壊し、江戸は東京と名を新たにした。東京に明治天皇は中央政府を置いた。新時代の精神は五箇条の御誓文によって明らかにされた。「広く会議を興し万機公論に決すべし」。「官武一途庶民に至るまで各其の志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す」。「知識を世界に求め大に皇基を振起すべし」等々。

今日から見れば明治維新は、民主革命としては不徹底のそしりを免れないが、しかし、封建制度を打破して中央集権の組織が作られた。すでに経済力に、政治思想に、自然科学に、格段の進歩を遂げたヨーロッパ諸国に追いつき、これを追いこそうとする決意は、着々と各方面で具体化され実行に移された。学校制度が整えられ、国民は義務教育を受け、文字の理解は飛躍的に広まった。それまでの日本文化は、ほとんどすべて否定された。

一般にヨーロッパ化はすなわち進歩であり、ヨーロッパ文化は、先進文化として優秀であると見なされた。ヨーロッパの文物は急激に摂取された。制度にも、文物にも、思想にも、日本にはかつて存在しなかったものがヨーロッパには多数あった。それらは日本語に翻訳されなければならなかった。

明治5年刊行のへボンの英和辞典(第二版)によると、切匡且里は、アンソクニチ(安息日)、ヤスミ、ドンタク、ニチヨービ(日曜日。ガク(学)、ジュツ(術)、リ(理)、ドーリ(道理)、ミチ(道)、ドー(道)。四画目は、シャシンエ(写真絵)と訳されている。

また、和英の部には、衆議院・種痘・形容訶などがあり、憲法という見出しもある。憲法はしかし、単に法律、おきての意味とされ、国家の最高の法を指してはいなかった。また民法という単語は、まだ載っていない。
このように、数多くの言葉が、不統一な訳語を与えられていたが、明治十年代に至ると、これら英語から入った言葉の多くが、漢字の組み合わせによる新造語に置きかえられた。

訳語が決定されて行ったが、その多くが、漢字の新しい組み合わせによるものであった。
ヤマト言葉では、これらの新しい概念を一語にまとめあげることが多くの場合できなかった。そこで、漢字二字の組み合わせによる新語が続々と作り出された

ところが中国語よりも日本語の方が、音節構造が簡単であるから、中国で区別している音も、日本に入ると同音として扱われ、同音語が多く生まれた。だから新しく生まれた漢語は、耳で聞くよりも目で見て意味を察するものが多かった。

しかし、江戸時代を通じて知識階級は、相当多くの漢語を消化していたから、明治時代の学生・官吏もまた漢字・漢文の知識を持ち、和語にしみついた古い感覚のない漢字の組み合わせは、かえって諸事一新の気分に合致し、ヨーロッパ語は漢字に訳されることによって、日本語の中に入って来た。

明治19年出版のへボンの和英辞典では、一万語以上の漢語が増補されている。この中には多くの新造語が含まれており、今日われわれの普通に使う、幾何・藝術・公園・唱歌・心理・商法・動物園・民法などが、すでにここに見出される。

つまり、今日の学問用語・政治体制用語その他の多くが明治初年、十年代にはその基礎を持った。ここにおいて、漢語は近代日本の民衆の生活を営んで行く上で必要欠くことのできない位置をしっかりと獲得した。しかしこれらの漢語は耳で聞いて分るようにとの配盧なしに作られた。それが後に起る国語問題の一因となった。

もともと山の手と下町とは江戸時代から分れて、商業地の下町には下町言葉が行なわれた。山の手には全国各藩の下屋敷などがあり、各地の方言がそれぞれ語られていた。

山の手には士族が多く、人口比率では下町に及ばなかったが、士族は明治政府の軍人・官僚の関係者を占め、中流・上流階級を形成した。この層は教養もあり、文化の前進に大きな役割を果した。彼らは新しい漢語語彙を日常語に導入したばかりでない。

江戸時代に藝者や茶屋女などが使う言葉であった「です」を地方出の官吏や書生が東京語と思って使いはじめ、やがて、下町へも広まって標準語として定着したごとき、また、「であります」という遊里の女の言葉を、田舎出の官員や洋書生が使い、演説に使う言葉となし、やがて、教師が説明のために使ったりする言葉としたごとき、山の手の住人たちの東京語の成立に果した役割は小さくない。

だいたい江戸は、江戸時代後半から文藝害の出版によって、わが国の言語文化の中心となりつつあった。それゆえ東京の言葉は、明治初年からすでに全国に通用する共通語の位置を得ていた。そこで、その東京の口頭語で文章を書こうとする新しい機運が動いて来た。

明治初期の文化の一目標は自由民権の思想である。人民の権利と義務の自覚を促しやすい。活動のためには理解し易い文章が必要である。そこで、啓蒙思想の先駆者福沢諭吉は学問のすすめその他を少ない漢字によって書き、植木枝盛は『民権自由論」を民衆に分り易いマス体で書いた。

ついで、いわゆる鹿鳴館時代に入り、極端なヨーロッパ主義が文化の主流を占める。社会一般の激しい欧化主義の中で、漢字を捨てて、ローマ字を用いよ、仮名を用いよという国語改良論が力を得てくる。

「かなのくわい」「羅馬字会」が発足し、仮名やローマ字による文例が発表され、賛否の論が新聞紙上でたたかわされた。しかし、そこで使われた文章は依然として漢文直訳体であり、分ち書きに関する工夫が足りなかったので、社会一般の流れを左右することはできなかった。




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