ギリシア神話と日本神話の違いと文化の終着点であった日本

多神教のギリシアでは自然哲学が発達した
古代ギリシアでは、紀元前8世紀頃、ポリスを中心に都市国家が建設されていきました。
ギリシア人たちは、地中海や黒海沿岸に植民地をつくって、ギリシア世界を成立させたのです。彼らは、ユダヤ人のような一神教の宗教ではなく、多神教の宗教を信仰したということを、私たち日本人は注目すべきです。

西洋では、ギリシアの文化が多神教であり、人間性に富んでいたために、キリスト教文化と併存していったのです。後の時代に「ルネサンス」とよばれ、西洋に花開いた文化も、ギリシア文化の復活と位置付けられて語られるようになりました。つまり、西洋の文は、ユダヤ教のような一神教的な文化と、ギリシア的な多神教の文化を総合していたのです。

そういう意味でも、私たちは、ギリシア文化というものの性格を知っておく必要がギリシア文化は、多神教という点で、日本の文化と似たところがありました。そういうと、法隆寺の回廊の柱が、古代ギリシアのパルテノン神殿の石柱のエンタシスと似ているということをいう人がいます。しかし、注目したいのは、そういう形の上での類似ではなく、神道とギリシア神話の類似性です。

ギリシアでは、紀元前8世紀頃、東地中海一帯に都市国家がつくられはじめました。これはポリス社会といい、市民、貴族、平民、奴隷から構成されていたといわれています。
家内奴隷や農業奴隷が生産活動をになう一方、市民はポリスの中心につくられたアゴラとよばれる広場で議論をするなど、開放的な精神風土を育んでいたといわれます。

貴族や平民、そして奴隷という身分もあったことから、後世の歴史哲学者であるヘーゲルなどは、階級差別のある遅れた世界だったと見なしています。しかし、それは誤った見方だということができます。

そうした見方では、奴隷がいたということが強調されます。しかし、都市間の戦争があれば、負けた都市の人々は必然的に捕虜になります。それが奴隷とよばれるわけですが、彼らは、私たちが想像するような、過酷な状態に置かれていたわけではなさそうなのです。

最近の研究によれば、奴隷の中にも平民になる者もいたようで、彼らが、鞭打たれながら強制労働をさせられていたというような一面的なイメージだけでは語れないということがわかってきたのです。たとえば、これまで、ピラミッドをつくるために、奴隷が駆り立てられたといわれてきました。確かに、ヘシオドスはそうしたことを書き残しているのですが、実際は、農民が農閑期を使ってつくったということがわかってきました。ですから、奴隷の実態はどうだったのか、ということは、改めて検証されなければならないと思います。

ギリシアでは自然哲学がたいへん発達しました。ギリシアは多神教だといいましたが、彼らは自然を重要視しました。ギリシア領である小アジアのイオニアでは、万物の根源を水と考えるターレスや、同様に、万物の根源は火であると考えるヘラクレイトスなど、自然を万物の根源と考える自然哲学が生まれているのです。

さらに、紀元前4世紀になると、アテネにソクラテスやプラトン、アリストテレスらが現れます。彼らの考え方、思想がその後の西洋の思想の原型となっていきました。ソクラテス、プラトンの観念論・イデアという考え方、アリストテレスの哲学、物質に対する分析的な考察の手法が、後世、科学に結び付いていきました。そういう思想を、ギリシアは生み出していたのです。


ギリシア神話と日本の神話は何がどう違うのか
もし、日本人が、もっと早くから文字をもっていたとしたら、ギリシア哲学のようなものを生み出していたのではないか、と思います。しかし、日本人は文字を使わずに、口承によるコミュニケーションの形をとっていたために、そうしたものは何も残されていません。しかしそれは、文字として残されなかっただけであって、そうした思想や哲学は、古の日本人たちによって語られていたのではないか、と思うのです。

一方、ギリシアには、詩人ホメロスによる『イリアス』『オデュッセイア』などの文学や、ターレス、ピタゴラス、ヘラクレイトスらの自然哲学、ヘロドトスやトゥキディデスらの歴史、さらにソクラテス、プラトン、アリストテレスらの哲学などが残されました。

演劇も盛んに演じられていました。これは、ギリシア文化が、文字をもっていたということが大きかったといえます。ギリシア文化が世界的に評価されるのも、そのためだといえます。日本の文化が、文字によって残されていたら、ギリシア的なものであっただろうと思うのですが、ギリシアと日本では、違いがはっきり見られる点があるのです。

それは、ギリシア神話と日本神話の違いです。ギリシア神話では、神々でさえ殺し合います。オリンポスの神々の中で主神とされるゼウスは、ティターン族を一網打尽にしてしまいます。しかし、日本の神話では、天照大神が須佐之男命を殺したりするようなことはありません。争いごとがあっても、殺し合うというようなことは起きないのです。そうしたところに、やはり根本的な違いがあるのだということは知っておかねばなりません。


日本にはユーラシア大陸のさまざまな文化が入っていた
いずれにしても、ユーラシア大陸では、マケドニアやギリシアやペルシア、ローマのような大帝国が勃興し、アレクサンダー大王が東方遠征を行うなどする中で、日本にもそうした世界史の影響が及んでいたということは知っておかねばなりません。

日本は、そうした世界史の動きとは無関係に孤立していたという先入観をもっている人が多いようですが、それは間違いです。

日本という国は、ユーラシア大陸の東端にあることから、そこに向かってきたのは、ユーラシア大陸のさまざまな文化を通過してきた人たちだったのです。ユーラシア大陸のさまざまな文化を身に付けた人たちが、日本にやってきているのです。

日本の『古事記』や『日本書紀』といった神話には、ユーラシア大陸からもたらされたであろうさまざまな神話の要素、その影響を想像することができます。正倉院には、ペルシアや中央アジアなどからもたらされた宝物がたくさん残されています。お水取りなどの儀式にもゾロアスター教の影響を見ることができます。

いずれにしても、ギリシア、ペルシアなどのユーラシア大陸の動きと、日本の弥生時代(縄文時代とする説もある)の動きは同時代として重なっており、その後のローマ帝国、中国の秦・漢帝国の時代と弥生~古墳時代は同時代として重なっています。そういう目で、日本を含む世界の歴史を見ていく必要があるのです。


外国の文化を取り入れ、それ以上のものをつくってしまう日本
日本では、この時期に『古事記』や『日本書紀』もつくられて、その神話の中には、ギリシア神話や大陸に起源をもつであろう話が、流れ込んでいるというふうにいわれています。それと同じように、日本の仏像も、インドから中国、あるいは中央アジアを経てやってきているということをここで改めて押さえておきたいと思います。

それは、日本が、世界の文化の受け手になっている、最後の終着駅になっているということです。そして、8世紀につくられた日本の天平仏において、当時の世界最高レベルのものが結晶しているということです。興福寺の阿修羅像、そして東大寺の大仏や三月堂の彫刻群、不空絹索観音をはじめ日光・月光菩薩、あるいは戒壇堂の四天王、さらには新薬師寺の十二神将、等々、まさに天平仏の最高傑作が生まれています。

これは単に、仏像が仏教を広めるためのものとしてつくられたのではなく、仏師が魂を注いでつくりあげた深い表現が込められているのです。

日本語は、その言語構造が世界でも他の言語構造とはまったく異なっています。主語が示されなかったり、動詞が最後にきたり。そして、相手と自分との関係性によって適切な敬語を使い分けなければいけないということもあるわけです。

そのために、外国人にとっては日本語を習得することが非常に難しいということがあるのですが、それは同時に、日本人の外国語習得を困難にしているということでもあるのです。しかし、それにもかかわらず、なぜ日本が外国の文化を取り入れることができるかというと、「形」からの認識力、受容力を日本人がもっているからなのです。

ですから、仏像が伝わってくれば、それを見て、新たにいい仏像をつくってしまうのです。あるいは建築なども、新しい発想でつくり直してしまいます。飛鳥寺や法隆寺の建築の美しさ、それは建築のあり方からしても、四天王寺様式のような中国から来たと思われる形式ではない建築をつくってしまいます。

また、五重塔にしても、中国の仏塔とはスタイルがまったく違います。木材によって、非常に新しいスタイルにつくり変えてしまいました。そういう「形」からくる日本人の発想というものが、日本の文化を支えているのです。日本の独自性は、さまざまな要素を日本で総合し、それを美しくつくり変えてしまうというところにあるのだろうと思われます。




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