漢字は日本語と構造・性格の違う中国語を書くために発達した文字

日本人が初めて文字を獲得する

さて、私たちは、いつ頃から文字という技術で、思想や感情を表現したのであろうか、5、6世紀頃に成った中国の史書「晴書倭国伝」には、わが国に「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於て仏経を求得し、始めて文字あり」とある。

現在までに発見された、日本での文字の遺品の最古のものは、弥生式時代の出土品の中にある王葬の「貨泉」である。これは西暦一世紀のはじめの、わずか16年間に造られた貨幣で、その表面に貨泉の二字が鋳こまれている。しかし、当時の日本人が、それによって文字というものの機能を理解したかどうかは不明である。

古墳時代に、朝鮮から渡って来た多くの人々は、文字を自由に使いこなしていたであろう。ヤマトの人々は、文字ー自己の思想や感情を音声で現わし、耳で聴く他に、表現を、目で見る形に変える新しい技術を、畏敬の念と好奇の感情で捉えたであろう。
人々は自己の言語を、その特性のままに、自由に、たやすく、早く表記したいと欲したである語り。

この欲求こそが、仮名文字を発達させ仮名文を創り出した基本的なささえである。この欲望がどのようにして達成されていったかということが、即ち日本の文字の歴史となる。しかし、この欲望はたやすく成就したものではなかった。

その達成を阻んだ第一の原因は、中国語と日本語とが、言語の構造の上で根本的に相違していることであった。漢字は、日本語と全く構造・性格の違う中国語を書くために発達して来た文字で、本来日本語のための文字でないことはいうまでもない。

すこし詳しく言えば、中国語は、言語学的には、単音節語言といわれる。つまり、一つの音節で一語となる。そして、動詞や助動訶の活用などという語形変化はない。これは孤立語といわれている。しかし、日本語は多音節語といわれ、一つの音節で一語となるものもあるが、(例えば、タ(田)、ナ(名)など)、多くは、二音節以上で一語となる。その上、中国語と日本語とでは、単語の順序が、時として全く逆になる。このように中国語と日本語とでは、言語的性格が全く相違している。それにもかかわらず、その中国語を書くための漢字が、当時考えうる唯一の文字であった。そして、文章といえば、その漢字を連ねて書いた漢文であった。

日本語と中国語との構造上の根本的な相違に、日本の知識人たちは絶えず苦しまなければならなかった。人々は非常に多くの時間をかけて中国語を学習した。しかも、それを自由に使用できるようになることは、ほとんど不可能であった。中国語のアクセントの区別の多さ。その平声、上声、去声、入声という複雑なアクセントに対して、日本語のアクセントは、高と低との2種類があるだけである。中国語の頭子音は、7世紀ごろ37の区別があるが、日本語では13の区別しかない。それに加えて語順の相違がある。従って日本人が、美しい、正しい格に合致した漢文を書くことは、極めて少しの人々にしかできなかった。それにもかかわらず、人々は漢字を覚えなければならなかった。漢字と漢文は、切り離しては考えられなかった。

それは、漢字と漢文とが、法律・道徳・宗教・医学・天文学その他もろもろの知識学問の荷い手として日本に進入して来たからであった。金属器も知らず、稲作もなく、石器・土器の制作と骨角器の利用に明け暮れた縄文式時代からようやく、弥生式時代へ移り、やがて古墳時代へと進んだばかりの日本文化にとって、漢字の使用は蒸気タービンの利用による近代の産業革命にも比すべき重大な文化的激変であった。漢字は漢文によって、多くの精神文化を導いてきた。それらは、未開な日本人に対して圧倒的な力を持った。

その力が、一見無関係に見える日本語の運命に対しても決定的な影響を与えた。日本の文字・単語・造語力などに対して、むしろ宿命的というのが正しいほどの刻印を押した。日本文学の展開もまた、この漢字・漢文の影響から無縁であることは不可能であった。当時の日本人は、まだ高く深い思索を、自分の言語で営むほどに発達した段階にはいなかった。そこへ、高い精神文化を持った中国語・中国文字が入ってきた。

そのために、日本では抽象的な観念を、自分の生まれた時から覚えた言葉で、造語して表現する習慣が確立せずに、もっぱら中国語でそれを表現する慣習が成立してしまった。また、学者は現象を自分で観察して、記述したり、分析したり、総合したりするよりも、中国語を諸記・諸詞すること、中国語についての知識をためこむことを任務と心得るようになり、本当に必要な発明と発見の態度が養われなくなるのに一役を買った。また今日のわれわれが、耳で聞いて区別できない単語(同音異義語)の多さに苦しむのも、みな、この漢字の輸入によってもたらされた問題である。中国語の複雑な発音を、簡単な日本語で受け入れるので、同音の漢語が多くなったのである。

ともあれ、日本人にとって、最初に出合った文字は漢字であり、文章とは漢文なのであった。言語的性格の違う、いわば、相性のよくない相手を、受け入れざるを得なかった日本人が、その漢字と漢文の不自由さを克服し、日本語の特性を生かして、自由に、やさしく、感情のすべてを豊かに表現できる文字と文章とを獲得したい、という気持をいだいたのは自然である。その欲望は人々の間に広まり、やがて人々はそれを実現していく。しかし、それは多くの年月をかけた、多くの人々の努力を必要とした。




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