ペリー来航で台場に砲台要塞を作ったが射撃することなく開港した

高まる異国船の脅威
現在臨海新都心として近代的な町並みを誇る埋立地御台場のあたりには、江戸湾防備の施設がおかれていた。ペリーの来航直後に、幕府が人工の島をつくり大砲を設置した品川御台場を設けたのである。
17世紀なかばの鎖国以来、日本人は長期にわたって平和な生活を楽しんでいた。ところが18世紀に入ると、ヨーロッパ列強のアジア進出がさかんになった。

そのため、18世紀のなかばすぎに日本近海に外国船があらわれるようになった。林子平は『海国兵談』を発表して、いちはやく海岸線防備の必要性を説いた。

彼は、「江戸の日本橋より唐、阿藺陀迄境なしの水路なり」といい、江戸が海上からの攻撃にまったく無防備であることを指摘した。確かに海から砲撃されれば、江戸はひとたまりもない。幕府は、このことに気づきながらも有効な策をとれずにいた。ようやく老中水野忠邦のもとで、西洋流の砲術の導入が図られた。
天保12年、長崎の町年寄、高島秋帆が江戸によばれた。彼は、かねてから西洋流砲術を身につけており、秋帆が板橋の徳丸ヶ原で五門のオランダ砲発射の演習を行なうと、見物人はその威力に圧倒された。

水野忠邦は、秋帆のもつ大砲の中の二門を買いあげ、高島秋帆に旗本、御家人に砲術を教えるように命じた。ついで、諸藩の砲術の教習も許可した。さらに幕府は、徳丸ヶ原と四谷角筈に大砲場を設け、海岸防備のために、羽田奉行と下田奉行を任命した


ペリー来航の衝撃
ペリー来航以前に、幕府はある程度東京湾沿岸の防備をすすめていた。海岸部には、四藩の軍勢が持ち場を決めて駐留していた。房総半島側は会津藩と忍藩が、三浦半島側は川越藩と彦根藩が守っていた。そして、要所には、台場とよばれる砲台を中心にした要塞がつくられていた。

そして、観音崎と富津岬とのあいだ、つまり東京湾の入口のもっともせまい所が「打沈め線」とされた。外国船渡来の知らせが浦賀奉行にくると、奉行は各藩に迎撃準備の指令を出す。そして、外国船に城ヶ島と州崎、つまり東京湾の入口のあたりでとどまるように説得する。そこで薪や水をあたえて帰ってもらえばそれですむ。

しかし外国船が強引に侵入しようとした場合は、打沈め線の沿岸の台場からの砲撃と警備艇の攻撃によってそれを沈めてしまう。このような方針が出されていた。
ところがアメリカ船は、やすやすと打沈め線の少し手前にあたる浦賀まで侵入した。弘化3年に、アメリカのビッドルひきいる二隻の軍艦が浦賀にきて通商を求めた。幕府の兵力では、彼らを城ケ島のあたりでとどめることはできなかった。

幕府がアメリカの求めを断ると、ビッドルはおとなしく帰ったが、嘉永六年になってペリーの四隻の艦隊が浦賀に来航した。4隻のうちの2隻は蒸気船であった。
ペリーは、国書を受け取らなければ江戸に向かうと強硬な態度をとった。その知らせが伝わると、幕府はあわてて江戸の台場の警備を固めた。

浦賀奉行は国書を受け取ったが、幕府はなかなかそれに返事をできない。そこで、ペリーは艦隊を率いて打沈め線を越え、羽田沖に達した。自分たちはいつでも江戸を攻撃でいかくるというのだ。幕府は2万人近くの軍勢を動員したが、ペリーに威嚇射撃をすることさえできなかった。結局、幕府はペリーの要求を受けて翌年に開国せざるを得なかった

火力で優る米国船
ペリー艦隊の艦砲は江戸警備の砲の火力を上回っていた。東京湾の備砲で砲弾の重量が一貫目以上のもの(一貫目は約3.75キログラム)は99門で、そのうち50門が一貫目砲だった。

ペリー艦隊4隻の砲は全部で63門で、数においては劣るものの、その火力は強力で、六貫目砲に相当する32ポンド砲が42門、それ以上の火力をもつ8インチ砲が3門、10インチ砲が2門であった。

幕府は、ペリー艦隊に対抗しうる砲は、わずか19門しかもっていなかった。
しかも、固定された陸上の砲台と自由に移動して火力を集中できる艦砲とが戦った場合、艦砲がはるかに有利になる。そのことは、太平洋戦争で艦砲射撃が大きな威力をもったことからもわかる。
つまり、ペリーが本気になれば江戸幕府を武力で屈服させることができたといえる。



品川台場がつくられた理由
幕府はペリーがいったん帰った直後に、江戸の防備の見直しに着手した。韮山代官で海防政策に通じた江川英龍がその任にあたった。

彼は、打沈め線のそばの旗山崎と富津台場のあいだの約4キロメートルの海中に約200メートルおきに台場を築くことを提案した。これは、当時の大砲の射程距離が200メートル程度であったことにもとづくものである。

しかし、幕府はその工事が困難であるために、江戸のそばの品川と深川のあいだに防衛線をおくことにした。そのため、品川沖から深川沖までのあいだに人工の島をつくり、11の台場を設けることにした。

実際には財政難によって、五基の台場が完成されるにとどまった。第一、第二、第三、第五、第六の台場はできたが、第四と第七の台場は未完成に終わり、第8以下の台場の工場は着手されなかった。
海岸の台場と品川台場とのあいだの距離が、約2キロメートルになる。そこに入ってきた船は海岸の台場と品川台場の両方から狙われる。そして、品川台場の1キロメートル余り外までが台場の射程内になる。

こうなると、江戸の海岸から3キロメートル以内に近づけないことになる。当時の大砲では、3キロメートル以上離れた海から江戸を攻撃することは不可能であった。
御台場は、海面を埋め立てて五角形もしくは六角形につくられた。
その広さは2000坪から3000坪程度で、満潮時の海面より一丈(約3メートル)の高さにつくられていた。

しかし、幕府に品川台場によって江戸を防衛できる自信があったわけではない。勝海舟がつぎのように記している。
「幕府の当局者が江戸の人心をしずめるためにやったことであるから、地理を考えず、築造の方法がよくなかったのも、精査する余裕がなかったためである」
海防の担当者でさえ、御台場づくりは気やすめ程度のものと考えていたらしい。




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