日本とアメリカが軍事力を持って戦争へと向かっていく歴史背景

日本人はアメリカを強く意識していた
1587年、ヌエバ・エスパーニャと言われた、いまのメキシコからスペイン船が日本にやってきて、日本人船員を乗せて戻りました。また、1610年には田中勝介という人物が20人の日本人を引き連れ、アメリカに渡っています。この訪問をスペイン人探検家ビスカイノが歓迎し、当時スペインが占領し支配していたカリフォルニアと日本が関係を築くことを提案したりしています。

日本とアメリカの関係はこのあたりが序章です。そして1613年、支倉常長の使節団が現在のカリフォルニア州メンドチーノ岬にたどり着きました。さらにビスカイノの導きで、ヌエバ・エスパーニャを訪れます。

これだけを見るなら、単に日本人がアメリカ大陸に着いたというに過ぎません。しかし、これはいわゆるコロンブスのアメリカ大陸発見から120年ほど後になります。イギリス人がメイフラワー号でやってくる以前です。

スペイン人はすでにやってきてメキシコ一帯を占領していましたが、ヨーロッパ全体となるとまだアメリカ大陸への認識は十分ではありませんでした。そういう時期に150人もの日本人がやってきたというのは、日本人がアメリカ大陸を強く意識しており、日本人の先駆性を示すものだといえるでしょう。歴史の中で日本人をとらえようとすると内向きの理解になりがちなのは、誤りといわなければなりません。

支倉常長の一行はそこからメキシコを横断、大西洋に出るのですが、その過程でネイティブ・アメリカン(インディアン)たちの存在も見ているに違いありません。これについては記録がないので推測になりますが、このことについては実に残念なことがあります。

実は常長はこの旅行中こまめに筆をとり、19冊もの記録を残しているのです。それは丁寧に保存されてきましたが、なんと明治になって失われてしまいました。非常に残念でなりません。しかし、散逸はしても、必ずどこかにあるはずです。これが見つかれば、常長の事跡の核煙に光を当てることができると信じて、調査を続けています。

それはさておき、1787年にアメリカ合衆国憲法ができ、その4年後にジョン・ケンドリックというアメリカ人が日本にやってきています。ケンドリックは紀伊半島の南にある紀伊大島に11日間停泊したといわれますが、その間にやったことはいかにもヨーロッパ的です。

アメリカ国旗を押し立て、紀伊大島の領有を主張しているのです。行き着いた土地を領有化する。渡り着いた土地を自分のものにする。こういう感覚は日本人にはありません。それは日本人が善人だということではなく、日本人は移動する民族ではないという、その民族のもつ資質の表れと見るのが正確です。ケンドリックの領有主張は、ヨーロッパ的な民族性をもろに表現しているといえます。

その後もアメリカ人の来航は何度かありました。たとえば1837年には、オレゴンの海岸で座礁した船に乗っていた3人の日本人を送りがてら、自由貿易を求めて実業家チャールズ・W・キングが商船モリソン号で浦賀水道にやってきました。このときは日本から数回にわたって砲撃を受け、接触できませんでした。船で送られてきた3人の日本人は結局帰還できなかったわけです。

また1846年には同じく自由貿易を求めてジェームズ・ビドル提督が来航します。これはアメリカ政府の命令によるもので、船は17門の大砲で武装していました。東京湾に停泊しての交渉は、合意に至りませんでした。その2年後に、今度はジェームズ・グリン艦長が長崎に来航、この交渉は成功しました。このときも船は武装していて、やはり交渉には武力的示威行動が処要だ、と述べた記録が残っています。これらの集大成として登場するのがペリー提督による黒船来航です。

1853年浦賀水道に姿を現したペリー提督は武装した艦隊を率いていました。通商を求めるのに商船ではなく武装した艦隊で来る。いざとなれば占領し、植民地化するぞ、という威嚇の意図は明確です。

そこで日本です。日本はこれとは対照的でした。日本は大砲の技術も銃の技術ももっていました。しかし、江戸時代の250年間、大砲や銃を使う戦争は一度も行われませんでした。平和の中で大砲や銃の技術は休眠状態となり、技術として残るだけで全く使われなかったのです。

黒船の来航は、国家にとって軍事力の行使がいかに重要であるかを日本に気付かせる端緒となりました。軍事力は国内の戦争で優劣の序列を決めるためにだけ使われるものでしたが、国外との関係では占領、植民地化といったことも含め、決定的なものであることも日本は知りました。これは日本の一種の覚醒といっていいでしょう。そしてこのことが、明治維新につながっていくのです。



日本とアメリカが戦争へと続いていく過程
第一次世界大戦後、軍事力をもとにアメリカが世界を制覇する姿がはっきりと現れてきます。第二次世界大戦に向かう過程で富がアメリカ一国に集中し、軍事力で突出してくる形が明確になってきます。これは第一次大戦でヨーロッパが戦場となり、多くの国が戦火を被って疲弊した中で、アメリカはまったく戦場にならなかった、という事情もあります。また、世界中から移民してくるアメリカに移民国家としての統一性が出てきたということも大きな要因になっています。

このような情勢の中で日本は大平洋を挟んでアメリカと向かい合うことになります。
移民国家であるアメリカの人種を含めた構成は複雑ですが、20世紀に入ると、軍事力を握るアングロサクソン、つまりWASP(アングロサクソン系白人新教徒)と金融を握るユダヤ人の二つの連合、というあり方にまとまっていきます。

このような中でヨーロッパではナチスが台頭してきます。ナチスはドイツ民族の優越を唱え、ユダヤ人を迫害しました。これへの対抗として、ユダヤ人の多くは社会主義に傾くことになりました。このことはあまり語られることはありませんが、非常に重要な事実として忘れてはならないことです。
社会主義のイデオロギーがユダヤ人から広まったのです。マルクスもユダヤ人でした。そのユダヤ人たちがナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命してきます。彼らは民主党政権下でルーズベルト大統領の周辺に入り、内政や外交をにないます。

世界恐慌の後、1933年、民主党の力が強まり、非常に左翼的な施策がとられます。ニューディール政策です。そこにユダヤ人勢力の影響を見るのは容易です。それと同時に、太平洋を隔てて向かい合う日本に対して、一つの方向付けがひそかになされました。

当時、アメリカは日本をどう見ていたかといえば、天皇を戴く非常に封建的な国家である、という認識でした。この認識から出てきた対日方針とは、民主主義の名をかたった社会主義化でした。このことは数々の証拠によって裏付けることができます。

ユダヤ色が浸透した民主党を導くルーズベルトが、この方針を実行していきます。
それが日米開戦への道となったのです。日米交渉がその舞台でした。日米交渉のどん詰まりに出てきた最後通牒。これは国務長官ハルの名を冠してハル・ノートとよばれますが、ユダヤが握る金融の力を存分に発揮するものでした。石油輸出の全面停止。日本の海外資産の全面凍結。日本が到底受け入れられない条件を提示したのがハル・ノートだったのです。

日本の出口は戦争以外にはなくなりました。
念のためにいえば、この時期は東西対立の冷戦状態とはまったく逆で、ソ連を支持し、支援していたのはアメリカだったのです。ナチスと対時するソ連のユダヤ人とアメリカ・ホワイトハウスの連携はうなずけるところです。ハル・ノートを作成したのはホワイトハウスとソ連のスパイである、というのは事実であり、歴史を見る上でこのことを無視してはなりません。

さらに念のためにいえば、ハル国務長官夫人はユダヤ人です。なお、ルーズベルト家は、オランダから移住したユダヤ系の家系であるといわれています。

最後は原爆の話です。
戦争を早く終わらせるための原爆投下だったというのが通説です。しかし、原爆投下を単に孤立した軍事行動ととらえることはできません。日本を、封建的社会を変え、社会主義化しようとする以上、日本を変えるためにはまず徹底的な破壊が必要とする一つの象徴的な行為が原爆投下という軍事行動だった、と理解するのが妥当です。原爆投下はそうしたアメリカの政策だったのです。

この時期、アメリカは非常に左翼化していた、ということを歴史を見る上ではしっかりと念頭に置かなければなりません。
この視点を認識すれば、原爆に関わったのがオッペンハイマーをはじめとする左翼ユダヤ人科学者たちだったことも、注目されてくるはずです。

さらには戦後、日本を占領下に置いたアメリカが日本に対して行ったことも明瞭になるでしょう。すなわち、東京裁判、財閥解体や学制改革、農地改革、そして憲法などがそれです。
それは二段階社会主義革命の一段目だったのです。そこに左翼化していたアメリカの姿を見るのは容易です。その当時のアメリカへの認識を改めねばならないのです。




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