日本と似たもの同士のイタリアで支倉使節の大歓迎式が行われた

日本と似たもの同士のイタリアで支倉使節の大歓迎式が行われた
外交とは何であるか。書簡を交わして成り立つようなものではありません。やはり究極は人間と人間とが直接出会い、精神的なつながりをつくる外交の基本はそこにあって、これは現代でも変わるものではありません。そのことを如実に見せてくれるのが、支倉常長を正使とする慶長遣欧使節です。

支倉常長の一行は最終的な目的地イタリアに入り、チヴィタ・ヴェッキアに着きました。その翌日に法王パウロ五世がぜひ会いたいということで謁見しました。スムーズに謁見が実現したのは、日本が金銀の国である、というマルコ・ポーロの情報のお陰もあったでしょう。

でも、それだけではありません。はるか東の彼方から海を越えて使節を送ってくる外交への意欲。それを実現させる日本という国の力。このことへの評価もあります。そして日本とイタリアの国としてのあり方の類似性も大きかったと思います。

当時のイタリアは都市国家に分かれていて、統一した国家ではありませんでした。その中にバチカンを中健としたローマ法王庁があって、キリスト教という宗教の精神性に立ってイタリアを代表している、という形です。その中世にいるのが法王で、その長い継続によってキリスト教国が保たれてきました。

日本もこれに似ています。徳川家康が天下を制してはいますが、内部は各藩に分かれています。この形の上に神道という宗教の精神性を備えた権威である天皇がいます。
長く継続する天皇の存在によって日本の統一は保たれています。宗教>的祭祀を執り行うことで権威を具現し、精神的支配者として統一の柱となる神道の長とカトリックの長。常長は天皇の名代ではありませんが、こういう国のあり方の類似性が、支倉使節を迎えたパウロ五世に親近感を与えたのだと予想されます。

1615年10月31日、支倉使節を迎えて大歓迎式が行われました。バチカンを出発してローマを横断する大行列です。市民の熱狂的な歓迎ぶりは余すところなく記録されています。そして、法王庁であるキルナーレ宮での式典では、常長と堺・大坂・京都の商人、それに武士一人、加えてソテロがローマ市民章を受け、貴族に列せられました。この様子はキルナーレ宮の壁画に描かれています。

この盛大な歓迎ぶりは、異なった風俗の東洋からの来訪者が珍しかったからだ、という見方があります。しかし、法王庁は支倉使節を正確に把握していました。それは、支倉使節がキリスト教徒ではない、と認識して遇していることでもわかります。支倉使節の歓迎式典が行われたキルナーレ宮の部屋が、天正少年使節を迎えた部屋とは違うところに、それがはっきりと現れています。

それにもかかわらずこの大歓迎。やはり、支倉使節の外交は大成功だったのだととらえるべきでしょう。前にも述べましたが、侍姿の支倉常長の肖像画を収めているボルゲーゼ美術館。この館の主はパウロ五世の弟です。このことからも、支倉使節がいかに重要視されたかがうかがえます。支倉使節によって高い文化をもつ日本の存在はヨーロッパに広く知られ、浸透していったのです。

ところが、このことを語り評価する歴史家が少ないのです。支倉使節が帰国したときはすでにキリシタン禁教今がしかれており、支倉常長も間もなく没しました。このことから、支倉使節は成果がなかった、という評価がもっぱらなのは残念なことです。

支倉常長は伊達政宗の書簡を法王に渡しました。その書簡は通商を認めるとともに、宣教師派遣を望んでいます。でも、キリシタン禁教令はすでにしかれ、それは不可能になっています。書簡が書かれたのが禁教令以前だったとしても、その予想はいくらかはあったはずで、そうなると、政宗の意図がどこにあったのかが問われます。そこから、伊達政宗はキリシタン勢力と組んで徳川に挑み、天下を取る意図があったなどと、奇説珍説が飛び出すことにもなっています。

常長が旅行中に記録し、どこかに散逸してしまった19冊の日記。確実な解答を出すにはこれを見つけ出す以外にないと思います。
この当時、ミケランジェロは亡くなっていましたが、彼が設計したサン・ピエトロ寺院は建設が進み、すでにファサードは完成していたはずです。支倉常長はいま私たちが見ることができるサン・ピエトロ寺院の姿を、しっかりと見たに違いありません。

このあと、支倉使節の一行はフィレンツェに向かいました。外交という観点ではすでに目的を達していて、特にフィレンツェに行く雌要はありませんでした。それでも出かけていったのは、メティチ家が支配するこの都市の文化的重要性を知っていたからに違いありません。

その頃のローマは古代からの遺跡、遺産が盛んに発掘され、彫刻家のベルニーニ、ボロミーニ、画家のカラバッチオなどの芸術家が活躍し、バロック時代を迎えていました。一方、フィレンツェは「ルネサンス」の中営地でした。支倉使節はその両方に身をさらしたわけです。

この支倉使節のフィレンツェ行きはほとんど知られていませんでした。おもしろいのはその発見の過程です。
時代はくだって1872年、岩倉使節団はヴェネッィアに向かいました。そしてその公文書館で支倉常長がフィレンツェに行ったことを示す資料を発見するのです。

ヴェネッィアは通商が中僅の都市国家です。外交が何よりも重要であり、そのためには情報が不可欠です。ヴェネッィアは各地にスパイを派遣し、情報戦に非常に長けていました。フィレンツェにいたヴェネッィアのスパイが支倉使節の来訪をキャッチし、それを観察した報告書が公文書館に収まっていた、というわけです。当時のイタリアの国情がうかがえると同時に、支倉使節への注目度の高さも伝わってくる話です。




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