ドイツは国家として理論的・体系的・思想的方法に優れていた

国家として理論的・体系的・思想的方法にすぐれていた
支倉使節はドイツとは無関係のように思われていますが、決してそうではありません。支倉使節の側はともかく、ドイツの側はこの使節に大変な関心をもっていました。

その証拠があります。支倉使節にはアマチという人物が同行していて、詳細な旅行記を書いているのですが、これはイタリア語版とほとんど同時にドイツ語に翻訳されています。このドイツ語版は現在も残っていて、私たちも読むことができます。また、あるドイツ人が支倉使節のボルゲーゼ家に贈った漆塗りの書棚を見て、その素晴らしさを絶賛したりしています。

日独関係の歴史といえば、オランダを経由してオランダ人として日本にやってきたシーボルトあたりを語られることが多いのですが、支倉使節の時代からドイツは日本に関心を向けていたのです。そこには、プロテスタントの国として伸びていたドイツが日本の発展を予想して関心を寄せ、情報を得ようとしていたふしがうかがえます。まさにそのとおりでした。

時代は下って明治維新。日本が近代国家を理論的に進めるに当たって、もっとも重要視したのがドイツだったのです。伊藤博文が国家という大綱をどう理解し、憲法をいかにつくり上げるかということで、1882年にベルリン大学に学び、ウィーン大学のシュタインに師事して、それが大日本帝国憲法の土台となったことは、このことを端的に示しています。

近代化にはヨーロッパを体系として受け取ることが不可欠でした。その点で日本がドイツを重要視したのは、ドイツが国家として理論的・体系的・思想的方法にすぐれていたからです。日本がヨーロッパに学ぶというのは、もっぱらドイツに学ぶという趣がありました。

たとえば、東京帝国大学はヨーロッパから多くの外国人教師を招鰐していますが、医学のエルヴィン・フォン・ベルツ、哲学のラファエル・フォン・ケーベル、化学のゴットフリート・ヴァグナーというように、その多くがドイツ人でした。

陸軍軍医に採用された森鴎外が、衛生学と医療体制などの研究のためにドイツに留学したのもその現れです。
しかし、これは決してドイツの罪ではないのですが、ドイツに偏したあり方が日本の学問に悪影響を与えた、ということは指摘しておかなければなりません。体系的なもの、言葉で書かれた理論的なものが現実よりも優先する、という思想がはびこることになったのです。

理論や言葉が現実よりも先行するという考えが正しいこととして、広く日本の知識人に植え込まれました。これが日本における思想、特に社会主義思想の土壌となります。

ドイツといえば、哲学の国という趣があります.確かにカントまでのドイツ哲学は人間の思想に限られていて素晴らしいものがあります。これがヘーゲルが登場して国家や歴史を哲学の理論で解明する動きとなり、さらにマルクス、フォィエル、ハッハらの社会主義思想が流入してこれに発展させます。ドイツ哲学は人間、社会、国家、世界と、あらゆるものすべてを理論で語り、理論で規定するという歪んだ形で日本の近代に輸入され、定着したのでした。

しかし、この誤りをただすのに、もはや多言を要しません。ソ連の崩壊という事実が、理論至上の思想の非現実性を余すところなく明らかにしています。もう一度繰り返しますが、理論至上で日本の近代が社会主義思想などに踏み迷った誤りは、ドイツ哲学の罪ではありません。これは日本が近代化する試金石であったととらえ、しっかりと検証していけばいいことだと思います。

それでも、近代的個人主義が最高の理想、といった思想の延長線上に、妙な理論が飛び出してくることが絶えません。たとえば、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」が説く幻想共同体論の、ナショナリズムを否定し、国家を否定する思想です。

そもそもこういう思想は、日本人に馴染むものではありません。日本語では言語を言葉といいます。日本人にとって言語は、こと(事)の葉っぱなのです。といって、言葉を軽視しているわけではありません。和歌や物語文学、随筆文学などにおける言葉の隅々まで磨きをかけた繊細な表現を見れば、このことは容易にうなずけるはずです。幹でもなく根でもなく葉っぱであるという感性は、言葉を最高、唯一の武器とする理論至上に馴染むものではないのです。

国家を規定し、国家観を論じ、それを否定するといった理論にも日本人の感性はしっくりしません。なぜなら、四方を海に囲まれた列島という環境で生きる日本人にとって、国家は自然に存在するものだからです。
こう見てくると、日本人にとって大切なのは、まず自分の足元を見ることのようです。




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