日本の海上交易は瀬戸内海航路より日本海航路が先に発達した

古代に栄えた海上交易
近代以前において、水上交通が大きな意味をもっていた。鉄道も自動車もないので、大量の物資の輸送は船にたよるほかない。道路が整備されても、荷馬車に積める量は限られるがゆえに、江戸時代にもっとも重要な物資であった米、酒、海産物などの輸送には、菱垣廻船、樽廻船などの帆船が用いられた。陸路の発達していない古代にあっては、人の往来にも船が用いられた。

そのため飛烏時代ごろまでの人にとっては、船で行き来できる北九州と朝鮮半島南端とのあいだは、北九州・大和間よりはるかに近く感じられた。六世紀はじめに、北九州の豪族、磐井が朝鮮半島の小国新羅の後押しで、大和朝廷から独立をもくろんで反乱を起こしている。当時の地理感からいえば、そのことはきわめて現実的なもくろみであった。

古代の物資の移動をみると、大和朝廷の全国統一以前に日本海航路がきわめて重要なはたらきをしていたことがわかる。北九州にもたらされた大陸の先進文化は、日本海航路と瀬戸内海航路の二方向に広がったが、前者が後者より重要であった。

瀬戸内海航路による文化の広まりは大和で止まるが、日本海航路はいまの富山県のあたりまで機能した。そして、大和朝廷が強大化する三世紀なかばより前には、より多くの青銅器や鉄器が日本海航路に流れた。

島根県斐川町荒神谷遺跡からは、二世紀なかばの銅剣が358本まとまって出てきている。それは、大和朝廷成立以前の出雲に、神政国家とよぶべき有力な国家ができていたことを物語るものである。

日本海航路上の土地と瀬戸内海航路上の土地との交流は少ない。出雲の政権は、山を越えた吉備(岡山)とつながるより、より北方の越(福井県、石川県、富山県)との交流を重んじていた。出雲のものと同じ形式の銅剣、銅矛、銅鐸が越から多く発見されている。また、二世紀末に出雲で生まれた四隅突出型墳丘墓とよばれる小型の墳丘をもつ首長墓は、北陸地方に広く分布する。

現在過疎化のすすむ島根県に、なぜ日本文化のふるさとともよぶべき神政国家ができたのだろうか。神道の原形も、日本神話の核となる大国主命神話も出雲でつくられている。



青銅器からわかる古代航路
日本海航路が繁栄したもう一つの理由に、日本海沿岸に自然の地形のままで良になる潟港とよばれるものが多く分布することがあげられる。潮の流れでつもった砂州がよくのびて防波堤の役目をつとめるのが潟港である。そして、淀江潟が出雲氏の拠点、神西湖と波根潟が神門氏の拠点になっていたと考えられる。

考古学者の研究によって、弥生時代にすでに西日本と東日本の一部にわたる交易路が開けていたことが明らかになっている。

これは、隔たったところから同形式の遺物が出てくることを手がかりにつかんだものである。
その中の青銅器の道を紹介しておこう。
たとえば広鋒銅矛は、北九州でつくられたものだと考えられている。福岡平野の福岡県春日市須玖・岡本遺跡とその周辺からそれの鋳型が集中的に出土する。

そのあたりは『後漢書』や『魏志倭人伝』に出てくる小国の一つ奴国の中心部である。
奴国で広鋒銅矛が生まれ、そことそこの周辺の首長が広鋒銅矛を製作したのだろう。
そして、広鋒銅矛の分布は北は対馬から朝鮮半島南端に、南は大分県をへて愛媛県、高知県に至っている。それが、対馬海峡の航路と、豊後水道から四国西岸にかけての航路の二方向で広まったことがわかる。

銅鐸は、近畿地方を中心に分布する。たとえば神戸市出土の桜ヶ岡一号鐸と滋賀県守山市の新庄鐸と鳥取県東伯郡の泊鐸とは同じ鋳型でつくられている。
日本海航路と瀬戸内海航路が有力な交易路であったが、弥生時代にすでにそれ以外の沿岸航路や陸路も広く使われていたのである。近年の発掘成果から、日本国内で古くからしきりに交易がなされていたありさまが浮かび上がってきた。

日本は、島国で海上交通が容易なうえに、山で道をふさがれない限り海岸部の平野を用いた陸上交通も可能である。交通の大きな障害になる砂漠や高山地帯もない。このことが古代以来日本列島内の交流をさかんにした。そして、そこから日本は一つとする考えが生み出されてきたのであろう。




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