日本の長崎や横浜・神戸は天然の良港として幕府が開港した

イエズス会が目をつけた天然の良港
長崎の町は、長崎半島と西彼杵半島のつけ根にある。そこは、九州のはずれといった位置にあたる。古代の航路上で長崎が注目されることはなかった。戦国時代にあっても、そのあたりは、小大名大村氏の領地の中の寒村にすぎなかった。

ところが、幅約1キロメートル、長さ約4キロメートルの長崎湾が天然の波よけの役目を果たす。そこで、小さな漁村にすぎない長崎を整備すれば、巨船の泊まる貿易港ができる。イエズス会の神父たちはこう考え、キリシタン大名であった大村純忠に長崎開港をすすめ、元亀2年(1571)に長崎が開港された。

長崎湾には山がせまり、平地が少ない。現在の諏訪神社のあたりから、長い岬が海中に突き出していた。その岬の突端の高台に、コンパニア・デ・イエズス教会が建てられていた。そして、教会の前に三筋の道が設けられ、その道に沿って町が建設された。大村純忠が、わずかな平地に万才、大村、分知、外港、平戸、横瀬浦の町をつくった。これを6か町という。町の外側には、外敵を防ぐための二つの堀がつくられた。

大村純忠が天正7年(1579)に長崎をイエズス会に寄附したため、長崎6か町はさながら日本の中の異国のようであった。


出島から追放されたポルトガル人
豊臣秀吉は、九州平定にあたり、天正15年(1587)に長崎を没収して直轄地にした。そのとき、教会が廃され、長崎の町の鎮守として諏訪神社がつくられた。

豊臣秀吉がキリシタン禁令を出したが、長崎での外国貿易はさかんであった。秀吉は、長崎の町中の地子銀(税金)を免除している。そのため、鎖国令が出されるころまで長崎につぎつぎに新しい町ができ、長崎は合計23か町になった。その範囲は「内町」とよばれ、寛永18年の内町の人口を約3000人とする記録もある。後に、「内町」の外側に「外町」が開けていった。「外町」は浜町、古川町など四三か町になった。

江戸幕府が成立し、しだいにキリシタン弾圧が強化されていった。幕府は、ポルトガル商人が宣教師を後援することを警戒した。そのため、長崎に出島がつくられることになった。出島は扇形の人工島で、寛永二年(1634)に完成した。ただちに幕府は、町内に散宿していたポルトガル人をそこに集めた。

出島は東西約210メートル、南北60メートルの広さであったが、明治時代に出島の周囲が埋め立てられてしまったために、当時の面影はない。寛永16年(1639)、幕府はポルトガル人の来航を全面的に禁じた。これが最後の鎖国令といわれるものだ。

これによってポルトガル人は追放され、出島は空地になった。すると、南蛮貿易で栄えた長崎の町のにぎわいが失われることになる。ゆえに幕府は、そこが良港であることやそこの商家の資本力を考えたうえで、平戸にあったオランダ商館を長崎に移すことにした。

寛永18年(1641)、オランダ人が出島に移住させられた。オランダ人はそのあと、幕末まで対日貿易を独占することになる。オランダ商館員は、カピタン(オランダ商館長)をはじめとする十数人からなっていた。それに日本人の雇い人をあわせた約30人が出島に居住していた。
出島の周囲は、土塀に囲まれ、外部と通じる橋が一本かけられていた。その橋を渡ったところに番所がおかれていた。


なぜ寒村の横浜を開港したのか
今日もっとも有力な港町になっている横浜と神戸は、江戸時代末の開国のときに貿易港として開かれた。横浜は江戸に、神戸は大坂に近かったため、それぞれ関東と関西の中心的な外港として大いに開けることになった。

幕府は外国の侵攻を恐れ、江戸や大坂の港を開こうとしなかった。このことがなければ、それ以前にしきりに国内の物資の輸送に用いられた江戸と大坂の港が貿易港として開かれ横浜と神戸の繁栄はなかったろう。

横浜も神戸も、古くからあった港のそばの漁村を開発する形で貿易港になっている。これは、日米修好通商条約で神奈川と兵庫を開くことになったが、幕府が神奈川や兵庫の中心地に外国人がくることを恐れたことによるものだ。江戸時代の東海道は、神奈川の南西にある藤沢から大船、戸塚、保土ケ谷の内陸部に続き、京浜急行線の神奈川駅のところで海岸部に出る形をとっていた。そこが神奈川の宿場で、神奈川は港町としても栄えていた

開国のときに、神奈川の南方の寒村であった横浜を開港場にすることになった。現在の桜木町の駅から山下公園に至るあたりが、かつての開港場であった。そこの海岸は砂州と入江になっており、その背後の一部は、吉田新田とよばれ江戸の商人の手で新田化されつつあった。しかし、開港当時のそのあたりには沼沢地が多く、いまの横浜駅西口の周辺には、明治30年代まで沼が残っていた。

開港場には、貿易を管理する御運上役所を中心に、本町、南仲通、北仲通、弁天通、浜通の五つの町がつくられた。そして、そこの東側の半分は外人居留地となった。御運上役所があったところは、現在は神奈川県庁になっている。

明治時代はじめに、県庁や洋風の横浜公園、吉田橋から海岸通りに続く馬車道がつくられた。そのため、現在の関内に洋風の町が出現することになった。とくに、山下居留地は外国商館がならぶ横浜の心臓部として発展していった。




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