日本語が世界で有名になって使われている言葉|ま・や・ら行

1.まんが【漫画】
日本の木版芸術がヨーロッパに紹介されたのは、けっして意図的なものではなく、偶発的な経緯によるものであった。すなわち、陶磁器などの工芸品の包装や梱包材料として本版画がいわば紙クズとしてつかわれ、それを偶然に発見した輸入商がその芸術性に気づいたのである。印象派の画家たちにすくなからぬ影響をあたえた浮世絵についてもそもそもの発端はそのような事情による。そして「漫画」もその例外ではなかった。

日本でさいしょに「漫画」ということばをつかったのは葛飾北斎。かれはその想像力を駆使して、風刺をこめた『北斎漫画』を制作し、それを発表した。その「漫画」の何枚かは梱包材料としてヨーロッパにはこばれたが、1856年にこれをフランスのフェリックス・ブラックモンドが発見し、画壇に紹介した。その大胆な画法とおもしろさは画家たちの関心をよび、たとえば北斎の「象にのぼるひとびと」からヒントをえて、シャルル・レガールは「短靴の来襲」というエッチングをのこしている。

もとより、日本には12世紀の鳥羽僧正による『鳥獣戯画』のような「戯画」の伝統があり、その根源をさらにつきつめてゆくと『餓鬼草紙』などにもさかのぼることができるかもしれないが、この北斎の「漫画」によってはじめて世界舞台に登場したのであった。

また、このあと来日したイギリスのC ・ワーグマンとフランスのG ・ビゴーは日本さいしょの漫画雑誌japanpunchを1862年に発刊したが、かれらもまた日本の漫画の伝統に感銘をうけ、この雑誌を1887年にいったん廃刊にしたあと、こんどは誌名をtobaeに変更して続刊した。

この「漫画」はその後、日本では岡本一平などおおくの漫画家によって継承され、とくに昭和初期からは少年少女雑誌にさまざまな漫画が連載されるようになったが、1960年代にはいると漫画は「マンガ」とカタカナ表記されるようになり、とくに「劇画」は若者はもとより成人の日常の「読み物」に変貌した。1998年現在の日本の出版界での統計によると、日本の出版物の売り上げのうち、その25パーセントちかくはマンガの単行本、雑誌によってしめられているが、このあらたな日本の民衆芸術としてのマンガが1970年代から世界に進出しはじめた。

そのマンガ輸出の経路は、おおきくわけてふたつあったようにみえる。第一はマンガ雑誌そのものの直接輸出。その事例は、たとえば東南アジア諸国での『ドラえもん』。これは日本の作品としてこれら諸国に輸出され、ベトナムでは1993年からこのマンガが全50巻つづけて出版され、それぞれ10万部がすぐに売れた。1995年、台湾では『クレヨンしんちゃん』が各巻50万部の売り上げを記録した。こうした「単品」の輸出だけではなく、雑誌そのものが現地化した事例もかぞえきれない。

著作権条約に加盟していなかった国々では日本の『少年ジャンプ』『少年マガジン』などのすべて、あるいはその一部分がそのまま「海賊版」として1970年代から現地出版社によって発行されてきたが、90年代からは日本の出版社との契約にもとづく現地版が正規におこなわれるようになり、たとえば『少年ジャンプ』のばあい、台湾版10万部、香港版6万部などのほか、タイ、インドネシアなどをふくめて合計20万部ほどが毎週発売されている。いや、そればかりではない。日本の出版社のなかにはマンガ雑誌の編集技法の研修のため、アジア諸国から編集者をうけいれているところもある。

マンガ輸出の第二のルートは日本製アニメーション映画(以下「アニメ」と略称)の世界各国における放映であった。たとえばフランスのばあい、1970年代からすでに『リボンの騎士』『ジャングル大帝』などが国営放送で放映されていたが、1982年にはじまったテレビの「自由化」の結果、日本から『ドラゴンボール』『シティーハンター』『セーラームーン』などが続々と登場することになる。フランスのこども向け番組「ドロテ・クラブ」は毎日数時間にわたってアニメを放送しているが、その大部分は日本製で、これらの番組は圧倒的な人気でむかえられたのであった。

こうしたアニメが起爆剤になって、その原作マンガや、さまざまなマンガがフランスをはじめヨーロッパ諸国に伝播してゆく。1996年、フランスではMangaという月刊雑誌が発行され、また「原本」の日本マンガ雑誌を地下鉄のなかでひもとく若者のすがたもめずらしくはなくなった。書店にもmangaというコーナーが出現している。1999年現在、日本のマンガ本を専門にあつかう書店はパリだけで8店、フランス国内の合計は50店と報告されている。

ヨーロッパにはベルギーの漫画家ヘルゲの創作による「テインテイン」(フランスではタンタンを主人公にしたマンガが有名で、ブリュッセルにはヘルゲを記念した「漫画博物館」もあるが、こうした伝統的漫画にくらべると、日本の現代マンガはアニメのコマおとしのような活動的な物語の展開があり、しかも構図や線のつかいかたが大胆だ。つまり、日本マンガには欧米になかったあたらしい形式と内容がみられるのである。あきらかにマンガには「日本方式」というものがあるらしいのだ。

このようなマンガの世界進出はおもいがけない効果をしめしはじめている。さきほどパリのメトロのなかで日本のマンガ雑誌を読んでいる若者のことを紹介したが、かれらのなかにはこうした「原書」によって日本語学習をはじめたひとびともいる。ちょうどアメリカ占領時代の日本の若者がアメリカ製コミックから英語をおぼえたように、マンガは日本語学習の「教材」になったりもしている。さらに、テレビで放映される日本製アニメをつうじて日本の生活様式を知る、というひとびとの事例も報告されているから、いまやマンガは国際文化交流の重要な手段になっているのかもしれぬ。じじつ、1990年に東京で創刊された月刊雑誌mangajinは在日外国人用に3万部、アメリカ国内用に3万部の安定部数を確保している。

このようにマンガが輸出産業になりうることに着日して、韓国では1996年から漫画学科のある九大学に特別予算を計上するようになった。マンガはすでに日本を離脱して世界産業にまで進化したかのようである。ちなみに1999年現在、世界の学術文献をあつめた社会科学データベースで検索してみると、参考文献としてあげたショッドの書物のほか単行本3点、学術論文2点のほか、雑誌データベースヘの登録件数は5人にのぼっている。




2.やくざ
ヤクザとは日本の多様な組織犯罪集団につけられた伝統的な呼称である。ところが、それが30年前に、警察とメディアによってあらたに暴力団という名で呼ばれるようになった。おそらくは「ヤクザ」という語にまつわるロマン的要素を払拭するためであろう。英語辞典yakuzaという項目の解説では訳語にgangsterという語が用いられているが、この語は「ギャングの一員」という意味に加えて、主としてイタリアのマフィアとの関わりをも暗示している。この20年間で、ヤクザという語は西欧ではかなりよく知られるようになり、そのまま日本のアウトローの組組織をさすのに用いられるだけでなく、日本のロマン主義に含まれる暗黒面――犯罪的なもの、恐怖をかき立てるもの、死に関わるものなど― を暗示するようになってきている。

ヤクザの起源を辿ると、長く続いた戦国時代の後期、江戸時代初期あたりに、かぶき者。浪人・旗本やっこ・町やっこなどの集団が出現し、力のある首領のもとにそれらがさらに集団を組織していったころに求められる。その後1700年代中ごろまでに労務者周旋業者の集団、博徒の集団、香具師(後にテキヤと呼ばれるようになる)の集団などが、親分、つまりボスの指導力と、組織と行動に関する厳しい掟を中心に組織化を進めた。

それは、渡りの職人、行商人、浪人、そのほかの周縁的集団の人々が共通に守っている掟がもとになっている。1700年代半ばにはこれらの集団は、たがいの絆を発展させ、疑似家族的組織を形成し、親分―子分の絆を強めていった。儀式によって結ばれた疑似親子関係においては、父である親分は息子である子分に仕事や保護、忠告を与え、その感情的な支えとなり、一方息子たる子分は、親分に絶対の忠誠を誓い、その求めにはかならず応じる。各集団は縄張りを定め、ライバルや新入りに縄張りを荒らされれば戦いにもなった。

19世紀の終わりごろまでには警察は博徒を厳重に取り締まるようになったが、テキヤは少なくとも名目上は合法的活動をしていたので、栄え続けた。20世紀初頭にはヤクザは政治に関わりはじめ、政治家や官公吏の側に立つこともしばしばであった。このような集団の中には初めは政治組織(通常は右翼団体)としてスタートし、それが後に犯罪集団になったり、周縁的人々や犯罪者を集める政治集団に変わっていったものもあった。

第二次大戦中とその直後には、ヤクザは制服を着て政府の協力者になるか、投獄されるかのいずれかになった。アメリカ占領下では、日本の警察が無力であったため、彼らは思う存分に活動できた。闇市での儲けが加わり、ヤクザは大きな力を持つようになった。60年代初期にはおよそ18万人のヤクザがいたが、これは自衛隊の人数を上回るものだった。そしてこうした拡大は血生臭いヤクザ集団間の抗争を招いた。

60年代にはヤクザ映画ブームが日本を席巻し、ヤクザにロマンを与え、神話化するというプロセスが始まった。ヤクザの外観も60年代に変わりはじめた。アメリカ映画のギャングの影響を受け、サングラスをかけ、白いシャツにダークスーツをまとい、髪は角刈りになった。1985年には、山口組から分かれた一和会が山口組組長を暗殺し、血生臭い抗争の火蓋が切られた。抗争の間、ヤクザはアメリカで資金調達の道を探った。西欧世界がヤクザ世界について詳しく知るようになったのは、おそらくこの時のことだったろう。アメリカでさかんにヤクザ映画が製作されたのもこの時期のことだった。

ヤクザについて西欧で知られるようになったのは児玉誉士夫の存在がきっかけであろう。おそらく占領軍は戦争中の活動から彼のことを知っていただろうと思われる。だが彼の名が世界に知れ渡ったのはロッキード事件で彼が果たした役割による。このスキャンダルはアメリカの法人、日本の大企業、日本政府、さらには当時現職の田中総理大臣までをも巻き込んだ。最近合衆国でヤクザが捕まった。彼らはアジア人や白人の女性を相手に「芸能人」の求人と偽り、高給を約束するが、仕事の詳細を見ると会話や歌やダンスの域を超えた真正の売春であるという仕組みだった。

これはフィリピンでは長い間続けられており、ヤクザは日本に来る若いフィリピン女性を集めるために「ダンス学校」を開校するほどだった。アジアでも合衆国でも、タレントスカウトや広告業者を装う白人が日本で働くホステスや芸能人の求人活動をしているという。『白い果樹園の娘たち』(別名『大阪への死の旅立ち』)というアメリカのテレビドラマは実話であり、求人にきたヤクザに騙された女性の話だといわれている。アジアでは香港、シンガポール、サイゴン、台北やくざ海南、上海などの犯罪組織とヤクザとのあいだの交渉はめずらしくない。

国際面ではヤクザは売春ツアーも含めた旅行産業、バー、レストラン、そのほかの娯楽産業ばかりでなく、ドラッグ、銃器、コンピューター・チップス、軍需産業、メタンフェタミン(覚醒剤ヒロポン)交易なども手がけている。総じていえば、ヤクザは国際的に活動しており、中でも日本人がビジネス、スポーツ、科学、外交、教育などの名目で集まっているところでは活発に動いている。

彼らは初めは日本人人口の多いハワイに進出し、それから米国本土に進んだ。南カリフォルニア、それから西部の州全体に広がり、ついには東部にまで進んできた。合法、非合法の両方のビジネスにかなりの投資をしており、これらの活動が加速度的にヤクザという語を西欧へと広げている。大衆文化においては、国際的にマスメディアや映画が競ってヤクザを取りあげるようになった。

ヤクザ世界を描く多くの記事、著書、写真集、映画が世に出され、最近ではインターネットのサイトまで登場した。そのほとんどが当然ながらヤクザの異国情緒的側面に注目する。封建的カルト、名誉の掟、儀式、刺青、儀式において切られる指、独特の外観、戦いや価値観に漂うサムライ的オーラ、愛国精神、封建時代のサムライとアルカポネが結合したもの……。

このうち映画を例にとれば、ヤクザを取り上げたアメリカ映画の皮切りは、ロバート・ミッチャムと高倉健が主演した『ヤクザ』である。この映画はヤクザの歴史を説明しており、敬意・敬称が前面化されたヤクザの儀式的な集まりを見せている。映画の終わり近くでは、ミッチャム演じる登場人物が指を詰めて、ヤクザ的な償いをする。その他にも二一世紀のヤクザ物語『ジョニー記憶法』や、『アメリカンヤクザ』(IとⅡ)『ブラックレイン』『リトルトーキョーの対決』『ライジングサン』など枚挙に暇がない。最近のヤクザについてのアメリカ映画がヤクザの活動の場をアメリカ、主としてロサンゼルスに置いているのは注目すべき現象だろう。

『ブラックレイン』と『ライジングサン』は中でも特に興味を引く。どちらの映画でもヤクザは典型的なステレオタイプで描かれており、西欧のライターたちがいまだに昔のイメージから脱し切れず成長を見せていないことを示している。ヤクザのヒーローは一方で残酷で情け容赦のないギャングとして、また一方ではロマンに満ち、理想主義的で、明確な伝統的価値観を確固として抱いている騎士道的なアウトローとして描かれている。彼らはただのゴロツキではない。『ブラックレイン』に登場する親分は、ヤクザと日本社会一般に対するアメリカの汚染的な影響力を、隠喩的に「黒い雨」(原爆投下後広島で降った黒い灰の雨)と呼ぶ。『ライジングサン』の中のヤクザは騎士道に則ったふるまいをし、(虚構か現実かの問題は別として)仁侠の古い生き残りのヤクザとしてみずからを犠牲にする。

ヤクザの可視性、地下組織ならぬ地上組織であること、長い間警察や一般人から相対的に容認されていること、そして日本文化に深く根を下ろした存在であること――こうした特徴が多くの外国人作家や写真家、ジャーナリスト、研究者、映画監督などの想像力を惹きつけたのである。

西欧では「ヤクザ」という語は、現在のところ日本の組織犯罪の世界と、その構成員をさす。しかし日本のギャングのメンバーをさしながらもそれが暗示するのは、どれも、ヤクザの「神話」であって、現実のヤクザではない。ヤクザがその神話の衣を脱がされるのは、「バブル経済」へのヤクザの関与がニュースとして報道されるときだけである。そのような場合でさえ、古い神話的ヤクザの尻尾がかならず残っている。映画や本やインターネットのゲームや「ヤクザ」というレスラーの名前は、その大半が現実のヤクザではなく、神話としてのヤクザを題材としているのである。

最後になるが、ヤクザを日本社会全体の隠喩として用いているケースが少なくとも一つはあった。
ミヨシとハルートニアンの共著『世界の中の日本』の序文の中で、2ページにわたって以下のような考えが展開されている。


3.ラーメン
ラーメンは日本語である。日本で最初にこの言葉が使われたのは北海道の札幌であった。 1921年(大正一〇)に札幌の北海道大学前に中国料理専門店「竹屋食堂」が開店した。この店はかなり繁盛していたようだが、中国からの留学生に人気はなかった。その理由は素人のにわかコックが作っていたから。なんとか名誉挽回をと経営者の大久保昌治は、料理が上手なコックを探していた。

翌年(大正一一)、中国人コック王文彩を雇った。彼は帝政ロシアに起こった革命騒ぎに巻き込まれ、シベリアから北海道、札幌へ逃げて来ていた。王文彩はシベリアのニコライエフスクにあった中国料理店のコックをしていた。
彼は料理だけではなく、小麦粉で作るひも状の長い麺(麺条児)を作るのも上手だった。王文彩の作る処は道具をいっさい使わず両手で練り粉の固まりを棒状にし、それを両手で引っばって折る。

この動作を再三繰り返し、太さ3ミリくらいの長い麺に仕立てた。両手でラーッと引き延ばすことから中国では拉麺と呼ばれていた。分りやすくいえば、拉麺は手延べの細くて長い麺である。平たいものもある。

王文彩は客の注文が入るたびに早技(1人前30―40秒)で手延べした。味つけした肉のスープを鉢に入れ、麺をゆでて加えた。そしてこの麺料理の名称を「ラーメン」とした。これが大ヒットした。ために翌年(大正一二)手延べでは注文に応じきれないので製麺機で大量に生産した。この機械で作る麺をゆで、肉のスープに浮かせても「竹屋食堂」では「ラーメン」と称して売った。ラーメンが中国式のスープ麺の代名詞となったのである。

「竹屋食堂」のラーメンが人気を得ると、それをまねしてラーメンを売る店舗が増え、昭和初年には札幌市内の喫茶店でも売られるようになった。
拉麺が中国の山東省で生まれるのは、明代とされているが、定かではない。それ以前に宋代には索麺と呼ぶ、手延べの、細く長い麺があった。麺の表面に植物油を塗り、手である程度細くしてから竹の管にかけ、引き延ばした。

拉麺はまったくの手延べであるが、それを可能にしたのは、小麦粉を水で練る時にカンスイを加えたことによる。カンスイは強度のアルカリ水である。これを加えることにより、小麦粉に含まれるプロテインがゴムのような弾力を生じ、引っぱってもちぎれない。ために、細く、長く手延べできたのである。しかも、麺の色は黄ばみ―香が出て食欲をそそる。カンスイが入手できない土地ではヨモギ科の植物や木を燃したあとに残る灰を利用した。灰を水溶きし、その上澄みを利用した。

さて、日本にラーメンが登場する以前には、当時の言葉で「シナそば」と呼ばれた麺類があった。「シナそば」を日本で最初に売り出したのは、東京の浅草にあった「来々軒」である。1910年(明治四三)のことであった。

ラーメンそばと呼んではいるが、タデ科のソバの粉を使っておらず、中国式の小麦粉にカンスイを加えた機械製の麺をゆで、肉のスープに入れたものであった。スープの味つけは醤油であった。ために日本のそば(麺)のかけ汁に「シナそば」のスープの味や香が似ていた。小麦粉から作った麺の食べ方を伝統的な日本そばと区別するために「シナそば」と呼んだ。

来々軒のコックは横浜に在住していた中国人だから、この店より横浜の方が「シナそば」の流行が早いことになる。
「シナそば」は東京や横浜を中心に日本人に食べられていた。昭和20年代後半になると札幌ラーメンがマスコミュニケーションの発達で、東京の麺好きな人たちに知られ、飛行機でわざわざ食べに行く通人までが現われた。

この札幌ラーメンを全国的に有名にしたのは花森安治である。彼は、当時『暮しの手帖』の編集長として有名であった。花森は1954年(昭和二九)に発売された『週刊朝日』に、「札幌・ラーメンの町」という記事を載せた。この記事はローカルな札幌ラーメンを全国に知らせるきっかけになった。
第二次大戦後、「シナそば」は「中華そば」と名を変える。シナは中国を軽蔑する呼び名だからというのが、その理由であった。

昭和30年代に入っても東京や大阪でも「中華そば」をラーメンと変える店はなかった。
その固い殻を破ったのは、日清食品株式会社を創業した安藤百福氏であった。彼はアメリカの余剰農産物であった小麦を使い、安く、おいしい、栄養のある食品の開発を思い立った。
東京や大阪、札幌の屋台の麺を食べるのに行列ができる姿を見て、これだ、日本人は麺好きと合点し、早く、安く、おいしく、栄養のある麺の開発に取り組んだ。だが、失敗の連続であった。

1958年(昭和三三)にやっと完成し、「チキン・ラーメン」と名づけて発売にこぎつけた。小麦粉を醤油やスパイスで味つけした鶏のスープで練り、製麺機で細い麺にし、油で揚げてから袋詰にした。油で揚げると麺はふくらみ、ミクロな穴が沢山でき、熱湯をそそぐと早く吸い、食べるまで3分待つだけの即席麺であった。この製法は安藤百福氏の独創である。続いて彼は歩きながらでも食べられる即席のカップ入りの麺も発明した。

チキン・ラーメンが発売されたころ、日本の民間テレビでは企業のコマーシャルを流す時代に入っていた。日清食品は「チキン・ラーメン」をテレビで宣伝し、たちまちブームを呼んだ。後続のラーメン会社もテレビを通じてラーメンを宣伝する。その結果、「ラーメン」という言葉が日本全国で認知、周知されたのである。その後は生の麺をゆでて肉のスープに浮かせていた「中華そば」はラーメンと名を変えていった。まんが『サザエさん』に登場するのは1961年(昭和三六)のことである。これで市民権を得たのである。

ラーメンは日本にはフレッシュとインスタント乾燥麺があるが、外国ではラーメンといえばインスタント・ラーメンをさす。ウェブスターの辞典に採録されている。今では麺を食べる文化を持たなかった国々でも食べられており、アメリカやヨーロッパ、中南米、インド、アラブ、東南アジア、東アジアなど約33カ国で年間408億食消費されている。

具体的には、アジアをみると、韓国、中国、インドネシア、タイなどを中心に、1998年現在、年間約90億食が生産されている。全般的にはチキン味が中心だが、カレー味、ココナッツミルク風味など地域によって特色がある。東南アジアでは一日5食の習慣があることから、一食あたりの量が少な目になっている。

また、ブラジルでは袋麺を中心に年間約1億5千万食が生産されており、チキン味、ビーフ味が主流である。インドでは年間約8千万食が生産されているが、宗教上の理由から牛肉・豚肉はいっさい使わないという。また、食べ物については保守的なヨーロッパでも、イギリス、フランス、ベルギーを合わせて9千万食が生産されている。どの地域をみても、それぞれの土地の嗜好や事情に合わせた製品が生産されている点では共通している。

1998年には自由生産をしている国々が東京に集い、「世界即席麺サミット」を開いている。
会長はインスタント・ラーメンの創製者である安藤百福氏である。



4.らく【楽】
らく【楽】
「楽」と表わされる名称そのものは本来楽焼を創始した長次郎を家祖とする架家の姓をさすものであるが、ここでは楽焼と称される陶芸の一般名称として取り扱うこととする(以下楽焼と表記する)。楽焼は桃山時代のはじめ(天正年間)長次郎によって始められた陶芸である。作品は赤茶碗(土が赤い茶碗)と黒茶碗(黒釉の茶碗)の二種があり、それらは抹茶を喫するための茶碗である。楽焼創始に関して注目すべきことは茶の湯の大成者とされる千利休が長次郎の茶碗制作に深く関わりを持ったと考えられる点である。どのような関わりが利休と長次郎のあいだにあったのか、それを具体的に物語る資料はすくないが、当初長次郎は利体の注文によって茶碗を焼造したことなどが少なくとも伝世している利体の手紙などで推測することができる。

桃山時代は日本各地で茶の湯の焼き物(茶陶)が生産されているが、楽焼の特色はほかの焼き物と異なり利休の化び茶の美意識を濃厚に表現した茶碗として独自な特色、歴史背景を持ったものといえる。当時長次郎の茶碗は楽焼とはまだ称されておらず、唐物茶碗(中国の茶碗)、高麗茶碗(朝鮮の茶碗)、瀬戸茶碗(美濃、瀬戸地方の茶碗)にたいして今焼茶碗とよばれていた。今焼茶碗、すなわち当世焼かれた茶碗という意味であるが、やがて当時のシンボル的な建築、衆楽第の名をとって「衆楽焼き茶碗」と呼ばれるようになり、こんにちの楽茶碗の基となる名称が生まれた。それには利休が衆楽第に一時住まいしていたこと、衆楽第付近から取れる陶土(衆楽土)を用いたこと、豊臣秀吉より楽の字の印を拝領したと伝えられていることなどによるものと考えられている。

楽焼は技術的にもほかの日本陶芸とは大きく異なる部分を含んでおり、そのことが後述する外国語としてのRAKUに発展する起因となっている。当時日本において茶陶を生産する窯はすべて嘘櫨成形による大窯、あるいは登り窯を使用する高火度焼成の量産窯であった。これにたいして楽焼は軌輔を使用せず、手捏ね(手ひねり)によって制作され、窯は小規模な内窯と称される窯で一碗ずつ焼き上げられる一品制作である。

焼成温度は低く一般に低火度焼成の軟陶質の焼き物の範疇にはいる。焼成を完了した時点でまだ溶融状態の作品を窯から引き出し急冷する。この方法は一般に引き出し窯と称され、この点に関しては美濃(岐阜県)地方の瀬戸黒の焼成技法と共通する。長次郎の代表的な作品は黒楽茶碗銘大黒、黒楽茶碗銘俊寛、赤楽茶碗銘無一物などがあり、いずれも重要文化財に指定されている。長次郎の作品としてゆいいつ年紀銘の彫り込まれた作品に獅子像留蓋瓦があるが、この獅子像は動性、量感が力強く獅子の生命感が生き生きと表現され桃山時代の彫塑的焼き物を代表する優品といえる。腹部には天正3年(1574)の制作年が彫り込まれており、長次郎の作陶を考える上で重要な作品と言える。

初代長次郎は天正17年に没するが、その窯は柴家二代常慶によってひきつがれ、その後さらに業家の子孫によってその陶法はこんにちまで伝えられている。そのような歴史の経緯によって、楽焼の名称は狭義においては築家の人々による作品をさすものであったが、時代の経過にともなって架家以外にも楽焼をする陶家がふえ、こんにちでは楽焼は萩焼や唐津焼などと同様、日本の伝統的な陶芸の一般名称となっている。とくに近年の発掘調査によって長次郎没後には早くも長次郎の楽茶碗を模したものが京都などを中心に生産されていることが判明した。さらに時代が下がるにつれ各地において架家以外の窯で茶碗を始めとして楽焼の茶陶が生産された。それらの中には楽焼を家職として伝える家も存在する。

その代表的なものに架家四代一入の子、一元が元禄元年(1688)ごろに京都府玉水村でおこした玉水焼がある。玉水焼は初代一元の後、八代まで代を数えるが、明治初年に入って跡絶えている。そのほかに金沢の大樋家、大樋焼がある。大樋焼は初代を長左衛門と称し、築家四代一入との縁によって楽焼を学んだと伝えられている。寛文年間(1661―73)には金沢に下り楽焼窯を開窯、大樋焼と称してその後こんにちにいたるまで、代々その伝統を伝えている。これらは窯の所在地名や家名をそれぞれ焼き物の呼称としているが、広義においては楽焼のひとつと数えられている。

また家職によらず個人による楽焼もさかんであり、そのもっとも代表的なものに本阿弥光悦の楽焼茶碗制作がある。本阿弥光悦が京都、鷹峯で楽焼茶碗を制作するのは元和年間(1615―24)以降のことと考えられるが、その作陶には架家二代常慶、三代道入が深く関与している。光悦は当初常慶から楽焼制作を学び、道入など架家の人々の手助けを受け茶碗、香合などを制作した。光悦の作陶は陶工としての職業的なものではなく、素人としての趣味の作陶であったが、その自由な個人による個性的な創造の発露は光悦茶碗を比類まれな芸術性豊かなものとしている。楽焼の技術は手捏ねであり、また大規模な窯を必要としないゆえに、専門的な陶工によらなくても制作可能であるといえる。そのことは光悦をはじめとして、千家歴代家元など個人の趣味を背景にした素人の作陶を可能にした。

江戸時代には大名の陶芸趣味を反映したお庭焼きがさかんに催された。その代表的なものに紀州徳川家10代徳川治宝が文政2年(1819)紀州屋敷、西浜御殿の庭で行なった御庭焼き、偕楽園窯がある。これには柴家10代旦入が携わった。明治以降近代に入って個人の楽焼制作はさらに増加する。さらに近年電気窯やガス窯の開発によってさらに手軽に行なえることとなった。なかでも楽焼は低火度焼成で、引き出し窯であることからすぐに窯から出して結果を見ることもでき、その手軽さによって電気窯などで焼成する低火度施釉陶器をすべて楽焼と称する傾向もある。

なかには観光地でみられる即席で絵付けをして焼くお土産焼きなども楽焼と称される場合があるが、これは技術的にも本来の楽焼とは違ったものである。またそのような楽焼の広がりをうけて昭和53年(1978)財団法人架美術館が設立され、業家に伝承された歴代作品、茶道美術品、関連資料が柴家14代覚入によって寄贈され、公開されることとなった。これによって楽焼の公的な研究機関が確立され一般の楽焼研究に大いに貢献している。

さて、こんにち「楽」の名は陶芸技法の名称としていわば外国語として定着している。世界で行なわれている「算には日本の伝統的な楽焼の技法にその起源を持っていることは確かではあるが、明らかに日本の楽焼とは異なる技法も多く含んでいる。きわめて日本的な文化背景の下に始まった楽焼がそのまま世界に普及するとは当然のことながら考えられない。世界におけるRAKUはまず楽焼の特殊な焼成技術が新しい陶芸技術として受け入れられたものである。

海外における楽焼の紹介はイギリスの陶芸家バーナード・リーチによるものが最初であろう。彼は日本に滞在中、日本の陶芸を学び海外に紹介した。楽焼もそのとき彼によって海外に紹介されたと考えられる。バーナード・リーチの功績は大きいものであるが、彼の専門は楽焼ではなく当時の陶芸運動の一つであった民芸であった。リーチの楽焼への理解はそれほど深くはなかったようで、部分的に誤った情報も含まれている。彼以降は個人的なレベルでの紹介はあっても、出版や講演会など公的な場における楽焼の紹介はなかったものと考えられる。

楽焼がもっとも早く受け入れられ、広まったのはアメリカである。すでに1970年代にはRAKUはアメリカである種の陶芸ブームを起こしていた。1978年、そうした状況の下にWORLD CRAFTS COUNCILの京都での世界大会において、アメリカのRAKUの作家ポール・ソルドナー、リチャード・ハーシュ両名が招待され、京都、岡崎公国内の会場で柴家14代当主柴吉左衛門(覚入)と意見を交換、ワークショップをおこなった。

アメリカでのRAKUブームはその後ヨーロッパ、チリ・アルゼンチンをはじめとする南アメリカ諸国、南アフリカ共和国などのアフリカ諸国、アジア諸国に伝えられ現在では作家、コレクターはじめ多くの愛好家を生んでいる。しかしそれはあくまでも技術に関する名称として広められたものである。こんにちそうした状況にたいし原点である日本の楽焼に関する正確な情報と知識を求める声が強まっている。そのような要望の下に1997―98年、柴美術館。国際交流基金の共催によってイタリア、フランス、オランダの都市で海外初めての楽歴代展「RAKU」が開催された。この展覧会の反響は大きく、世界における楽焼紹介の第一歩としてその意義は深いものがある。

これを機に日本の楽と世界のRAKUは大いに交流を深めつつある。RAKUは今後さらに世界に広められるであろう。それは同時に日本の伝統的な楽焼の概念との隔たりをさらに広げるものとなるであろう。しかしそれは少なくとも日本を含めた世界の陶芸の未来にたいし、ある可能性を持ち込むものであることは間違いのないものと思われる。


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