1.日本語で似ている意味の言葉の正しい使い分け│ことば編

→あ~か →さ~た →な~は →ま~や →ら~わ

あ~か行
愛人vs妾
よく、「あの人には愛人がいる」「妾がいる」などとウワサがたったりする。
では、「愛人」と「妾」は同じ意味なのか?
単に婚外恋愛の相手なら、愛人と呼ぶのが正しい。「愛人」は、とくに不倫の関係に限らなくても、深い関係にある異性や、愛している相手全般に用いられる語だ。
だが、妾は、妻のほかに妻のような関係をもち、扶養している女性に限られる。妻のいる男性が他の女性と浮気をしても、扶養していなければ「妾」とはいわないのだ。
「妾」は、「二号」「側室」などと同義語で、日本ではなんと明治中頃までは法律で公認されていた。男性上位社会のうえに家意識が強かったので、性的欲求を満たすためや経済力を誇示するため、または子供を得るために妾をもつ男性が多かったのだ。
とくに正妻に男子が生まれないとき、家を継ぐ男の子孫を産ませるために妾を囲うのは、道徳に厳しかった江戸時代の儒者たちも、倫理的に肯定していたのである。

アウトサイダーvsアウトロー
「彼はアウトサイダーだ」とか「あいつはアウトローだからね」などということがある。これらはともに枠組みから外れている人を指す言葉だ。
「アウトサイダー」とは、局外者や部外者、門外漢という意味。独自の思想を持って行動する人という意味合いで使われる。
これに対してアウトローとは、無頼漢や無法者・ならず者を指す言葉である。
つまり「アウトロー」とは、文字通り社会秩序からはみ出したり、法を無視したりする人ということなのだ。
アウトサイダーという言葉は、イギリスの批評家コリン・ウィルソンの著作「アウトサイダー」で評価されて一般的になった言葉である。
美術の世界では、専門的な美術の教育を受けていない人が、伝統などの影響をまったく受けずに、湧きあがる衝動のまま表現した純粋な美術をアウトサイダーと呼んでいる。このように呼ばれる人の中には、社会的に恵まれていなかったり、心身に障害をもっていたりする場合も多い。


イギリスvsイングランド
歴史映画や歴史小説などに中世や大航海時代のイギリスが登場すると、国名は「イングランド」になっていることが多い。
この「イングランド」、「イギリス」とどんな関係にあるのだろうか?
じつは、我々日本人がイギリスと呼んでいる国は、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国に分けられる。それが合併を繰り返して現在の連合国となったのだ。つまり、「イングランド」は、イギリスを構成する4つの地方のひとつなのである。
イギリスの国全体を指すときには、日本では「イギリス」と呼んでいるが、じつはこれは日本でしか通用しない。この国の正式名称は「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」である。
日本でだけ「イギリス」と呼ぶようになったのは、連合王国成立前の16世紀にポルトガル人がイングランドを「イギリス」と呼んでいたことに由来するという。もとはイングランドを指していた語が、日本では連合王国全体を指すようになったのだ。


おざなりvsなおざり
「おざなり」と「なおざり」は語感が似ているし、いいかげんな対応を示している点も共通しているので、同じ意味だと思うかもしれない。
だが、「おざなり」と「なおざり」は、厳密には違う言葉である。
「おざなり」は「お座敷のなり」を縮めた語で、お座敷(宴席)での取り繕った言動になぞらえ、形ばかりのいいかげんな対応をするという意味をもっている。たとえば「勉強をおざなりにする」といえば、遊びに行きたくて気もそぞろながら、いちおう机には向かっていることになる。
しかし、「勉強をなおざりにする」というと、勉強をしていないという意味になる。
「なおざり」の語源は、一説によると「直去り(何もせずに遠ざけておく)」といわれており、一般的に、何の対応もせずに放っておく場合に用いられる表現である。


伯父・伯母vs叔父・叔母
父親や母親の兄弟は、おじさん、おばさんと呼ぶが、おじさんとおばさんは、「伯父さん」と「叔父さん」、「伯母さん」と「叔母さん」とに使い分ける。
伯父さんと叔父さんの区別は、その人物が自分の父親や母親にとって兄にあたる人か弟にあたる人かで決まる。兄ならば伯父さんで、弟ならば叔父さんだ。
おばさんの場合も同じで、父や母の姉ならば伯母さん、妹ならば叔母さん。
同様に、伯父さんの奥さんは伯母さんで、叔父さんの奥さんは叔母さんになる。
配偶者の場合は、父親や母親の年齢とは関係がない。たとえ父の兄である伯父さんの奥さんが父親より年下でも、その女性は伯母さんになる。


お墨付きvs折り紙付き
間違いないと保証する意味で、よく「お墨付き」とか「折り紙付き」という慣用句が用いられる。
この二つを同義語と思っている人もいるかもしれないが、そうではない。たとえば、「彼女は折り紙付きの才媛だ」という使い方は正しいが、この「折り紙付き」を「お墨付き」に変えたら間違いだ。
両者の違いは、語源を探ってみればわかる。
「お墨付き」の語源は、かつて将軍や大名が家来の石高を上げるとき、墨でしたためた文書である。それをもらえば、内容が取り消しになる心配はまずなかったという。そこから、権力をもつ人が与える保証や承諾を「お墨付き」というようになったのだ。
もう一方の「折り紙付き」は、奉書紙などを横半分に折った「折り紙」に由来する。
折り紙は、平安時代から公式文書に用いられるようになり、のちに書画・骨董などの鑑定書にも使われるようになった。
そこから、専門家が鑑定して値打ち物と証明されたものや、さらには優秀と証明された能力を「折り紙付き」と形容するようになったのである。



回答vs解答
「かいとう」には回答と解答がある。どちらが正しいのだろうか?これは、「回」と「解」の文字の意味を考えるとわかりやすい。
「回」はかえすという意味で、「解」はときあかすという意味。つまり、「回答」は、出された質問や要求などに答えるときに、「解答」は、問題を解いて答えを出すときに使うのである。
なお「解答」は、「高齢化問題に対する一つの解答」といった使われ方もする。このように「解答」は、回答より比較的難しい問題に対する解決策の意味としても用いられている。



関東地方vs首都圏
東京は「関東地方」であり、「首都圏」である。神奈川県も関東地方で、首都圏とも呼ばれる。この関東地方と首都圏というのは、同じ地域を指す言葉なのだろうか?
天気予報などでよく見かける関東地方という区分に含まれるのは、東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、栃木、茨城の一都六県。これは明治以前に構成された関八州(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野)とほぼ同じだ。
これに対し首都圏というのは、1996年に制定された「首都圏整備法」で定められているもので、東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬、栃木、茨城、山梨の一都七県。つまり、関東地方に山梨県が加えられたのが首都圏である。ただし、首都圏には、関東地方である伊豆諸島や小笠原諸島といった離島は含まれない。
この分け方はあくまで公共機関で用いられるもので、一般的に民間で首都圏という言葉が使われるときは少々あいまいだ。
都心から30キロ圏内を首都圏と呼んだり、それが50キロ圏内であったり、あるいは東京と埼玉・神奈川・千葉の一都三県だけを対象にしていたり、都心への通勤圏内を首都圏と呼ぶこともある。

休刊vs廃刊
最近では、これまで発行されていた雑誌が廃刊になったり、休刊されることがよくある。好んで読んでいた人にとって、廃刊や休刊はショックなもの。でも、廃刊になったら二度と読めないけれど、休刊なら少しは希望があるのでは。
確かに、「廃刊」とは定期刊行物の出版をやめることであり、「休刊」とは定期刊行物の出版をある一定の期間休むことである。したがって、休刊ならいずれはまたその雑誌に出会えると考えるのが普通だ。
しかし実際のところ、休刊雑誌の発行は、必ずしも再開されるわけではない。
雑誌には日本出版取次協会の共通アイテムコードとして、共通雑誌コードというものがあるが、一度廃刊にしてしまうと、その雑誌が持っていた雑誌コードを失ってしまう。このコードを新規に取得するには大変な時間が必要だ。
そこで出版社では、事実上は廃刊の雑誌を休刊扱いにして雑誌コードを残し、その雑誌コードを新雑誌に流用するケースが多いのである。


クーデターvs革命
軍事的な反乱によって現在ある政府を転覆させ、新たな社会・時代を築こうとするための方法として、古くから各地で「クーデター」や「革命」が起きてきた。アメリカ独立革命やフランス革命は有名だし、日本では二・二六事件というクーデターが起きた。クーデターとは、法律に違反する軍隊などの奇襲で政府を転覆させて政権を奪おうとする行為である。つまりクーデターは、1国の支配階級内の不穏分子が武力を用いて権力を得ようとするものであり、民衆の意思は働いていない。
それに比べ革命は、あくまで主役は民衆である。支配者階級が、その中で権力闘争をするのではなく、被支配者階級が、時の支配階級を倒して政治権力を握り、政治や経済、社会体制を根本的に変革しようとするのが革命なのだ。
民衆の後押しが強い革命は成功するケースが少なくない。また、政権の中の不満分子が勝手に引き起こすクーデターは、民衆の支持が得づらく、結局のところ、戒厳令などの強硬手段で押さえ込まれてしまうことが多い。


不合理vs非合理
「不合理」によく似た言葉に「非合理」がある。同義語のようだが、じつはこの二語には微妙な意味合いの違いが見られる。「不」も「非」も、語の頭につけるとその語を否定する意味になるが、否定の仕方が違うのだ。
一般的に、頭に「不」をつけると、「~がない」とか「~しない」という意味になる。だから、「不合理」なら、「理屈に合っていないこと」「筋の通らないこと」という意味になり、あまりいいイメージの語とはいえない。
だが、「非合理」なら話は別だ。頭に「非」がつくと、「~はない」とか「~に該当しない」の意味になるので、「非合理」とは、「理性の範囲を超えている」といった意味合いになる。たとえば哲学で「非合理主義」といえば、「世界は理性や知性によっては捉えがたい」と考える立場のこと。つまり「神秘主義」や「ロマン主義」などを指す言葉であって、必ずしも否定的なイメージのものではない。


国賓vs公賓
外国の要人を日本が公式に受け入れる場合、その相手を「国賓」だとか「公賓」などと呼ぶことがある。ある国から来た大統領は国賓と呼ばれていたのに、次に別の国から来た首相は公賓扱い。この差は相手に対する敬意の違いなのか?日本がその国をランキングで分けているのか?
じつに気になるところではあるが、分け方は意外に簡単だ。国王や大統領などが国賓、首相や副大統領や国王以外の王族(皇太子など)は公賓。つまり訪れる人の身分や肩書きで分けているというわけだ。
待遇にも違いがある。
国賓の場合は、宮内庁が歓迎行事を運営し、天皇主催の宮中晩餐会を催し、天皇と首相出席の歓迎行事が行われる。これに対し、公賓の歓迎行事は外務省が担当。天皇主催の午餐会と首相出席の歓迎行事となる。
国・公賓としての招待は日程や予算面から年間5人前後と限られている。とはいえ近年、国際間の往来が頻繁になり、招待客が増え続けた。
そこで1989年から、簡素化した招待形式として公式実務訪問制度というものが新たに加えられた。
この場合、行事は最小限で、宿舎も迎賓館ではなくホテルにするなど、実務中心の簡素なものとなっている。その結果、アメリカの大統領が公式実務訪問したケースもある。


さ~た行
様vs殿
手紙などの敬称には、今日、一般的には「様」が用いられるが、「殿」が用いられることもある。
この「殿」と「様」はどう使い分ければいいのだろう?
歴史的にみると、「殿」は「様」よりも古く、平安時代に身分の高い人の官職名につけて用いられた。「殿」とは「邸宅」の意味で、本人に直接手紙を送るのではなく、相手の住んでいる御殿に送るという意味合いだ。かつては、相手本人に直接送るのは失礼とする考え方があったのである。
「様」も同じように、相手本人を直接指さず、漠然と相手のいる方向を指し示す意味をもっていた。こちらは、室町時代頃から使われるようになった敬称である。
「様」が使われ始めると、「殿」とのあいだに差が生じた。室町時代の外国人宣教師が残した記録によると、敬称のランクは、「様・公・殿・老」の順だったという。
平安時代には高貴な人に対して使われた「殿」は、室町時代までにやや敬意が下がり、「様」より下に位置づけられるようになった。
現在では、事務的・公的な書面においては「殿」が用いられることも多い。しかし、目上の人に対しての私的な手紙などでは、「殿」よりも「様」を使ったほうがいいだろう。


事典vs辞典
百科事典と国語辞典。どちらも同じ「ジテン」だが、どのように使い分ければいいのだろうか?
「事典」とは、多くの事柄や現象を集め、その内容を一つ一つ解説し、説明した書物のことである。
事典の表記方法は2種類ある。一つは主に西洋で発達した表音表記のアルファベット順などに配列するもの。日本のあいうえお順もこれにあたる。もう一つは事項の属する分野ごとに配列されるものである。
事典に対し、「辞典」はあくまで言葉についての意味などを解説・説明したもの。英語の辞典や古文・漢文・国語辞典などがこれにあたる。ただ、実際にはそれほど厳密に使い分けられているわけでなく、正確に分類すれば辞典でありながら、事典と表されているものも少なくない。


食糧vs食料
食べ物を表すのに、同じ「しょくりょう」でも、「食糧」と「食料」がある。たとえばスーパーなどにあるのは「食料品売場」だが、官公庁は「食糧庁」である。
「食糧」は、基本的に米や麦などの主食を指す言葉。旅や戦争に出るときに、ある期間にある人数分が必要で携帯するという場合も食糧。つまり、命をつなぐ食べ物という意味である。
「食料」は食用とするもの一般をいい、食べ物の原材料。肉も野菜も、魚も果物も、そして調味料もすべて食料だ。
ただ、主食と主食以外の区別なく食べ物全般をいう場合は、「食糧」と「食料」、どちらを使っても間違いではない。最近では「食料」のほうがなじみがあり、こちらだけを使っても、さほど問題はないようだ。

神父vs牧師
教会にいる聖職者は「牧師」だろうか?それとも「神父」だろうか?
教会によって「神父さま」と呼ばれていたり、「牧師先生」と呼ばれていたりするので、首をひねってしまうところだが、これはカトリックとプロテスタントの違いによる。カトリックには司教・司祭・信者という位階制度があり、信者が司祭に呼びかけるときは、「司祭さま」ではなくて「神父さま」と呼ぶ。役職名は「司祭」でも、尊称は「神父さま」なのである。
司祭の尊称は、英語では「Father」なのだが、中国ではそれに「神父」の字を当て、そのまま日本にも導入されたのだ。
プロテスタントでほぼこの「司祭」に相当する聖職者が「牧師」。牧師は教会に住んで説教や牧会にあたり、信者が呼びかけるときには「牧師先生」になる。
聖職者の呼び方のほかにも、プロテスタントとカトリックには違いがいろいろある。
たとえばカトリックではキリスト像やマリア像が崇拝されているが、プロテスタントは聖書中心の教えなので、聖像は置かれていない。また、神に捧げる歌も違う。カトリックは聖歌なのに対し、プロテスタントは賛美歌である。

推定vs推量
はっきりとわからないけれど、多分こうだろうと見当をつけることを「推定」とか「推量」などという。この言葉は、どちらが信想性が高いのだろうか。
推定とは、はっきりとはわからないが、いろいろな根拠をもとにしてあれこれ考えて決めたことという意味である。
これが推量となると、もう少しあやふやだ。推量するというのは、ある事柄をもとにして他の事柄の見当をつけることである。
つまり、推定と推量では、確実性や可能性の高さが違い、推定のほうが推量より確実性が高いということになる。


制作vs製作
「製作」とは、実用的なものを作る場合に用いられる言葉である。これに対し「制作」とは、美術的、芸術的な作品を作るときに用いられる言葉だ。
映画やテレビ番組などでいえば、「この作品を作ろう」と決定するのが製作会社で、その製作会社から依頼を受けて作品を作り上げる作業を行うのが制作会社ということになる。


専修学校vs専門学校
「専修学校」や「専門学校」と呼ばれている学校は各種学校のひとつである。
その中でもとくに文部大臣の定める基準に適合し、監督庁の認可を受けた学校が専修学校と呼ばれる。
専修学校の基準は、修業年数が1年以上であること、授業時数が文部科学大臣の定める授業時数以上であること、教育を受ける者が常時40人以上であることが挙げられる。
そのうち、中学校卒業程度の者を入学資格とする課程は高等課程、高等学校卒業程度の者を入学資格とする課程が専門課程、そのどちらでもない教育を行うもので、とくに入学資格を定めていないものが一般課程と呼ばれている。
この三つのうち、専門課程を設けている専修学校のみを専門学校と呼ぶことができる。
つまり専門学校とは、専門課程がある専修学校というわけだ。

洗脳vsマインドコントロール
宗教団体による事件や出来事がテレビや新聞などのマスコミで大いに騒がれたときに、やたらと登場した「マインドコントロール」という言葉。これを「洗脳」と同じ意味だと受け取っていた人もいるだろう。しかし、洗脳というのは、強制的な思想改造のことである。ときには監禁や脅迫、飢餓、暴力、強姦、薬物などの虐待方法を用い、強圧的にある考えを吹き込んでいくことである。そこには本人の意思がまったく存在しない。現代においてこのような行動をとれば犯罪である。
ところがマインドコントロールはもっとソフトで巧妙。ある種の強制があったとしても、繰り返し同じメッセージを聞かせたり、唱えさせたりして、元来持っていた考えなどを否定し、ある価値観を刷り込んでいく。そもそもは変えたいという本人の意思のもとで行われているのである。
洗脳のほうが許しがたい行為ではあるが、普通の環境に戻れば思想も元に戻ることが多い。
一方でマインドコントロールをされると、洗脳の場合よりずっと長期にわたって影響を受け続けるケースが多い。


葬儀vs告別式
「葬儀」と「告別式」。両者はただ呼び方が違うだけではない。
葬儀というのは、純粋な宗教行事を指す言葉である。仏教においては、故人が仏道を修めるために仏弟子として戒律を授けられる受戒の儀式であり、遺族や近親者だけで故人の冥福を祈り、成仏することを願って執り行うものなのだ。これに対する告別式は、葬儀に続いて行われるもので、故人と生前親しかった友人や知人が最後のお別れをする儀式。かつては葬儀の後、会葬者全員で遺骨を墓地に埋葬するために行う儀式だったのだが、最近では一般の会葬者が火葬場まで行くことがなくなったために、会葬者が葬儀会場で焼香をするという形に変化したのである。
なお、「葬式」というのは、葬儀と告別式をひっくるめた呼び方である。


蕎麦vs生蕎麦
蕎麦は、ソパの実をひいて粉にし、それを麺にしたものである。
ただ、こうしてのばすと、ソパ粉100%のものは、ゆでたときボソボソして切れやすい。そこで小麦粉が混ぜられるようになったのだ。この技術が広まったのは、早くても元禄末期になってからではないかということが、当時の食生活を記した史料などからうかがえる。
そして、ソパ粉だけで麺を打つ「生粉打ち」のものが「生蕎麦」、割り粉として小麦粉を使ったものが「蕎麦」と呼ばれることになったわけだ。
ソパ粉と小麦粉の割合は、今では店によりさまざまだが、「二八蕎麦」の名が残るように、小麦粉が二割程度混ぜられるのが一般的である。

大乗仏教vs小乗仏教
同じイエス・キリストに拠るキリスト教に、カトリックとプロテスタントのほかイギリス国教会、ロシア正教などさまざまあるように、釈迦の教えを説く仏教にも、さまざまな宗派が生まれている。
その源流となったのが、「大乗仏教」と「小乗仏教」である。釈迦入滅後に出家僧と信者たちとの間で起こった、仏陀に対する考え方や、修行や救済思想のあり方の違いから生まれた。
釈尊を失ったあと、修行によって自己の解脱を目指す方向に進む(小乗仏教)出家僧に対し、多くの信者たちは、自利よりも他利を目標とする慈悲を重んじ、すべての人間救済を目指す(大乗仏教) 菩薩道に進む。この仏教徒たちが、自分たちの流派を大きくて優れた乗り物である大乗とたとえ、守旧派を小乗と呼んだのである。この二つの流派のうち、大乗仏教は、中園、朝鮮半島を通じて日本へと広がり、小乗仏教は、ビルマ、タイなどに広まった。両者ともさらに分派しながら現在に至っている。


つまvsけん
刺身の皿にはよく、大根やにんじん、海藻などが添えられている。これらの野菜や海藻などは「つま」と呼ばれる。つまは盛り付けを美しく引き立てるだけでなく、消化を助けたり、生臭みを消すなどの役割を果たすため、なくてはならない存在である。
中でも、野菜を千切りにし、細く尖らせたものを「けん」という。大根だけでなく、にんじんやきゅうり、みょうが、うどなど、千切りになっていれば、それはすべて「けん」だ。つまり、「けん」は「つま」の一種というわけである。
ちなみに、吸い物のつまは「椀づま」と呼ばれ、主役の椀だねに添える青みや薬味のことを指す。こちらも、あるのとないのとでは吸い物の風味に大きく差が出る。

な~は行
排水vs廃水
「廃水」とは、一度使用して役に立たなくなった水をいう。または、用いた後で捨てられた水のことを指す。「廃」にはすたれるとか捨てるという意味がある。工場廃水という言葉の使われ方を見るとわかりやすいだろう。
一方、「排水」とは、水を外に出すこと。「排」には外に押し出すという意味がある。洗濯機の水を外に流すのが排水であり、そのための管は排水管だ。船の排水量などもこの字を使うし、植物が夜間に水孔などから水滴を体外へ出すのも排水である。


標準語vs共通語
現在のように情報網が発達していなかった時代、日本各地にはお国なまりが氾濫していた。
ところが、明治維新で東京が首都になると、それでは不都合になった。旧幕藩のあちこちからの寄せ集め人事による新政府では、誰にでも通じる共通の言葉、つまり「共通語」が必要になったのである。
そこで東京で使われていた言葉を中心に、方言の要素も加味した共通言語が人工的に生まれていった。明治30年代からは、学校教育を通してこの言語が全国へと広められていき、戦前まではこれが「標準語」といわれていた。
しかし「標準」という表現は、それ以外を規格外あるいは間違ったものとするような印象を与えてしまう。また、標準語が理想的な形と押しつけることにもなりかねない。そこで、「共通語」ということが多くなったのである。
現在「標準語」というと、「こうであったら美しい。言語学的にも正しい」という認識のもとに使われる言葉のようで、アナウンサーたちがニュースを読むときなどに使う言葉は標準語といえそうだ。

ま~や行
麻薬vs覚せい剤
「麻薬」と「覚せい剤」は、どちらも向精神作用を持つ薬物である。麻薬は麻薬取締法で法的規制が行われており、覚せい剤も覚せい剤取締法によって禁止されている。
「麻薬」とは、広義にはケシから得られるアヘンアルカロイド系麻薬、コカから得られるコカインなどのコカアルカロイド系麻薬、LSDなどの合成麻薬、そして大麻およびその抽出物の四種類。そのうち前三種は鎮痛薬や鎮静薬、鎮咳薬、麻酔薬などとして医療上と学術上で重要な位置を占めている。つまり麻薬は、神経を麻樺させるための医薬品などにおける使用に限って使用を認められているものだ。
大麻に関しては古来から繊維用として栽培されてきたが、これを乱用して麻薬として使用する人が多いことから、現在ではほとんどの国で規制され、所持しているだけで犯罪になることが多い。
一方で「覚せい剤」は薬理学でいうと中枢神経系興奮剤。日本の覚せい剤取締法では、アンフェタミンとメトアンフェタミンを指している。こちらも医療用・学術研究用に限定して取扱いが認められているものである。このように、麻薬は神経を麻樺させるものなのに対し、覚せい剤は神経を興奮させるものである。
しかし、どちらも幻覚や異常行動を引き起こし、定められた目的以外と使用量以上に使用すれば、やがては人間の一生を台無しにする恐ろしい薬であることに変わりはない。


暑中見舞いvs残暑見舞い
年賀状や暑中見舞い、残暑見舞いなどが今も健在なのは、やはり手紙やハガキの持つ独特の魅力があるからに違いない。そこでちょっと気になるのが、「暑中見舞い」と「残暑見舞い」を出す時期の違いである。
暑中見舞いの暑中とは、夏の土用の入り(7月20日頃)から立秋(8月8日頃)までの期間を指している。つまり、この間に出せばいいというわけだ。
暑中見舞いの時期には暑中見舞い用の官製ハガキも発売されているので、利用するのもいいだろう。
立秋を過ぎると残暑見舞いとなる。残暑とは、立秋の8月8日頃から8月末までが適当な時期で、たとえ暑い夏の真っ盛りであろうと、暑中見舞いに書き添える絵などは、秋草などの涼やかなものにしたほうがいい。
また、どんなに暑くても、9月に入ったら残暑見舞いを出すものではない。

ら~わ行
ランニングvsジョギング
「ランニング」と「ジョギング」を同じもののようにとらえている人もいるかもしれないが、その運動強度はまったく違う。
ランニングはある程度速いスピードで長い距離を走ることであるのに対し、ジョギングはおしゃべりができる急歩程度のスピードで走ることをいう。
ジョギングで大切なのは、どれだけの距離を走るかではなく、どれぐらいの時間を走り続けるかということ。ダイエットを考えるならば、必要なのは距離より時間。体脂肪は運動開始後約15分から使われ始め、その後の運動時間が長ければ長いほどエネルギーとして使われるからだ。ゆっくり無理のないスピードで長く走ることが最も効果的といえる。
スポーツのための基礎トレーニングとして真剣に走るならランニング。ダイエットや健康のために走るならジョギングがいいだろう。

わびvsさび
日本の心といえば、「わび」と「さび」。でも、わびがどんなもので、さびはどんなものなのか、説明できる人は少なそうだ。
わびというのは、「わぶ」に通じる言葉。わぶには、失望落胆するとか、その結果心細くはかなく感じるという意味があり、そこから閑寂な境地へ行き着くことをいう。一方さびは、「錆びる」に通じる言葉。完全な姿をとどめるのではなく、長い時間をかけてにじみ出てくる渋み。つまりは古びて趣が増すという意味である。
こうして分析してみると、わびは主観的な概念であり、さびは客観的な概念といえるだろう。
世俗の名誉や利害を重んじることなく、精神的な豊かさを求める「わび」と、古びることでにじみ出る美的感覚の「さび」。この両者がセットになって、はじめて日本人の美の意識が成り立つといえそうだ。



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