海外でも愛好家が多い日本の俳句

日本の俳句日本文化を受け入れ、十分に理解するためには、やはり日本語ができなくては、と考えるのがふつうの日本文化論の立場ではないでしょうか。

では、日本語が全然できない人たちが、俳句をつくっている事態をどう評価すればよいのでしょう。じっさい俳句は、海外にも意外に愛好家がいます。英語、ドイツ語、中国語、ヒンディー語、マレー語など各国語の俳句が生まれています。彼らは日本文化を受け入れているのでもなければ、理解者でもないのでしょう。

敗戦の翌年1946年に発表され、故・桑原武夫の名を一躍有名にした論文が「第二芸術」。この論文の趣旨は「俳句第二芸術論」と呼ばれ、西洋芸術と比較して劣るものの代表に俳句を挙げて喝采を浴びました。

戦災復興途上の日本がめざすべき芸術に対する姿勢を真摯に述べたその論旨は、 誤解されたこともあってか芸術至上主義を補強しました。俳句は老人の趣味なら許されるが、芸術というには、はばかられると、菊づくりや盆栽も引き合いに出して論ぜられたせいでもあるのです。

菊づくりや盆栽は、たしかに技術の洗練はすばらしいかもしれないが、人間性の中での格闘を得たものとは言えません。俳句も同じで、「同好者だけが特殊世界を作り、その中で楽しむ芸事」なのに芸術だと誤解する者がいる。

こんな、表現に接して、 俳句が純粋な芸術性の観点からはずいぶん劣るものだと受け取った者も多かった。そこで俳句は一歩劣った芸術だとの印象が生まれました。俳句第二文化論と読み替えてもよいでしょう。

暮らしの中の芸術、とりたててこれが芸術だとの制作時の意図を持たない中に生み出されるさりげない「芸術」。これをたんに洗練と呼ぶ場合もあるだろうが、やはり芸術といってもよく、さらには文化といっても差し支えありません。

十九世紀後半、開国した日本に初めてやってきた外国人たちは、日本の日常生活の中にみられる「芸術性」「文化性」を異口同音のように語りました。

これがたとえ盲目的な日本へのあこがれによる言葉であったにしても、 それが美術史におけるジャポニスムを生みだし、印象派の絵画を育てることにも貢献した「生活美学」の発見だったことは否定できないでしょう。

芸術性についての日本的な観念の特徴は、 ヨーロッパ近代への異常な過大評価にあります。ヨーロッパの近代が生んだ芸術は、偉大な達成であり、それは俗なもの、洗練されていないものに対する、 厳格で誠実で妥協のない批判精神によってもたらされたとされます。

こんな理解が、日常のどこにでも転がっている自国の「芸術」へ目をふさがせる結果となった。ところが、かつてもうお払い箱と手放した日本の「芸術」、外国人に発見してもらった根付け、浮世絵などに、いまは過剰な芸術性を付与して持ち上げるのです。

そんな研究者や文化論者は少なくない。彼らは他方で現在海外で受け入れられつつあるもの、民衆に人気の高い「日本文化」は大衆的で、海外で俳句が盛んになったら、その芸術性をまた熱心に語り始めるのでしょうか。





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