日本語の言葉の表現や意味を理解しよう│さ行

さびしい
幾山河越えさり行かば

寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

若山牧水がここで使っている「寂しさ」とは、漢語でいえば寂蓼とか孤独感とかに当るだろう。孤独だとは、人々との間の繋がりがみな切れていて、どこかでその繋がりを求めている状態である。単独とは、一人でいて、ほかの人を心で求めないでいられる態をいう。「さびしい」とは孤独だということで、奈良時代には「さぶし」といった。

山の端にあぢ群騒ぎ行くなれど
われはさぶしゑ君にしあらねば(万葉集)

「山の端を味鴨が声をたてて鳴いて騒いでいくのが聞えるけれども、それはあなたではない。その中にあなたがいない。それで私はさびしい」というのである。つまり、「さびしい」とは荒涼たる様で、自分が期待しているものがなく、いつもそこに見えた人が見えず、心でそれを求める場合に使われた。この「さぶし」という言葉は動詞にも使った。

ささなみの国つ御神のうらさびて
荒れたる都見ればかなしも(万葉集)

「大津のささなみの国を守る神の心が、荒れてしまった結果、荒廃した都を今見ると心悲しい」。国を守る神の心が荒れてそこになくなってしまうと、そこに立っている宮殿までも、神の心のままに荒れ果てて行く。これが奈良時代の人々の気持であった。
それで、この「さぶし」という言葉は、平安時代になって「さびし」と変ってからも、あたりの景色が荒れ果てているとか、冬になって木の葉が落ちて「さびれて」いるという場合に使われた。また、独り寝をしている「さびしさ」とも使っている。

しかし、平安時代も末になると、貴族が、新しい武士の勢力に抑えられて、今でいう斜陽族に転落した。昔からの名誉と特権とは失われ、経済的な地盤は崩れ、思うままなことはできなくなる。冬枯れのような気分が心の中にいつもただようようになる。貴族たちは寂蓼と孤独とをはっきりと感じた。

寂しさに耐へたる人のまたもあれな

庵並くむ冬の山里(西行法師)

「この寂蓼と孤独とにじっと一人で耐えている人が、もう一人あれかし。この自分のいる冬の山里に庵をならべて住もう」という。この歌に見るように、「さびしさ」という言葉が和歌の世界で多く使われだし、「さびしさ」を主題にした歌が非常に多く作られるようになったのは、鎌倉時代以後のことである。言ってみれば、日本文学において、孤独感、寂蓼感が、文学の主題として確立され、それが歌の主題になることが多くなったのは、このころからである。
この「さびしい」という言葉は、その後、鎌倉・室町時代に連歌の世界などで、「ひえさび」として使われる。冷たい、寂しい冬枯の気分。一方には豪著な豪勢な、そして富貴な成金趣味の横行し始めた室町時代に、その俗悪な趣味に対抗して、冷たくとも静かに、じっと物事の移り行きを感じて味わい、物の不自由さよりも、心の自由さを持とうとする精神によって支えられた美であった。

俳譜が盛んになったとき、「さび」が、一つの大きな目標に掲げられたのも、それはやはり、豪著な派手な、けばけばしいものへの好みを排して、静かに、純粋に、自然のなりゆくさまを味わい、そこに美を見出そうとする、強い、心によるものであったろうと思う。寂蓼と孤独に耐えて、むしろその中に美を見ること、そこに「さび」という大きな目標が生まれてきた。

「さび」と、しばしば混同されるものに「わび」がある。茶の湯で「わび」というが、それは、現在、「謹んでお詫びいたします」などと使う、あの「お詫び」の「わび」、また「財布の中がわびしい」という「わび」も、語源を同じくする言葉である。

もともと「わび」とは、期待が外れたり、悲しいめに遭ったりして、力を落し、気力をなくすことをいう言葉だった。それで、平安時代に「わび人」といえば、失意に泣く人、世間の出世争いから離れてしまった人を意味したし、「待ちわびて」といえば、恋しい人を待つ気力さえなくしてということ。「忘れわび」とは、恋人を思いつめて苦しい思いになやみ、その人を忘れ去る気力すらもなくしてしまうことだった。だから「詫びを言う」とは、人に迷惑をかけて、自分自身がっくり力を落しておりますということを、相手に表明するのがはじめの意味である。

山里は物のわびしき事こそあれ
世のうきよりは住みよかりけり(古今集)

「山里は物が乏しくて暮しに困ることこそあるが、しかし、宮廷に仕えて人々と意地悪し合い、不愉快なめに遭ういやらしさより、考えてみれば、ずっと、住みいいものだ」というのがこの歌の意味である。この「わびし」は、物が乏しい、貧乏だという意味を表わしている。
貧しい意味の「わびしい」は平安時代だけでなく、鎌倉時代にいろいろな話を集めた「古今著聞集』などで多く使われ、「わびしい」というと、暮しむきが不如意だという意味である。今日私たちが、「財布がわびしい」といえば、何となく新しい比啼のように感じるけれども、これはすでに平安時代に行なわれた表現である。

鎌倉時代の末には、世の中は大きな変動へと向って次第に動いていた。そして、鎌倉時代と室町時代の間に入る南北朝時代こそは、古代的な日本が崩れて行く一つの断層となった時代である。騒動、強盗、殺人、訴訟、詐欺の中心的な役割をしたのは田舎者、特に関東の者であり、社会の古い秩序は全く破滅の方向に歩んで行った。

室町時代になって商業が発達し、都市生活が発達し、新しい成功者が多く出てくるようになる。宮廷を中心とする古代的な実力者は没落し、成り上り者の実力が物を言うのが目立つ世の中になって来る。「徒然草」に、世を渡る力をなくした女たちが、つり合いそうもない老法師や、卑しい東国人を相手であろうとも、財産のありそうな者につき、「さそう水あらぱ」などというと、それを、仲人がどこへもいいように話を作り、よく知りもしない人のところに持って来る、そのいやらしさと書いている。

一方では、経済的に巧みに立ちまわり、立派な家を建て、屋敷を構え、あるいは大きな舟を作り、混乱に乗じる人々が少なくなかった。しかも、その卑俗さに同調できない人々は、腕力ずくの争いを捨てて、簡素で静かで、ひそやかな、質素な趣味を美の理想とした。その理想が「わび」である。「わび」とは、貧しさに徹して、それに耐え、世俗の騒ぎから離れた美である。「さび」が孤独に徹し、寂蓼を美にまで高めようとするものであるに対して、「わび」は、貧しさ、簡素さに徹した美しさを目指している。

日本の代表的な美をいうときに、しばしば、すぐ「わび」とか「さび」とかが持ち出される。それを、何と消極的な、何と力のないものを代表にするのだろうと思う人もあるらしい。しかし、それを消極的なものと見るのは誤りである。「わび」も「さび」も、簡素な趣味に徹して、成金性、俗物性に抵抗し、物の豊富さよりは、心の自由さを重んじようとする強い精神に支えられた美であることを見なくてはならない。


知る
物をシルとは物事をはっきりみとめて、理解すること。そして覚えていること。酔いシレルとは、酔って記憶も何もなくすることである。ところがこのシルとシレルとは、同じ源から起った言葉のようである。

「万葉集」にこんな歌がある。「葛の高問という所の草原を、早く自分が占領して、自分のものだというしるしの標をさっさと立てればよかったのに、今になって後悔される。気に入った娘を、人に先んじられてしまった男が、残念がって作った歌である。

原文は「葛城の高間の草野早知りて標ささましを今ぞくやしき」である。「早く占領して」というところを、ハヤシリテと歌っている。シルとは占領すること、領有することを意味していた。だから、天皇が万代に国をシラスといえば、永久に国を領有してお治めになる、統治されるということだった。

占領する、統治するとは、物を残るくまなく自分のものにすること。物を残るくまなく自分のものにするとは、単に所有、領有の意味を越えて、物の性質のすみずみまでも把握することを指すようになって行く。そこから、シル(知る)が誕生した。

ところが酔いシレルとは、感覚がバカになること。「源氏物語」ではシレモノといえばバカ者、シレジレシといえば、バカバカシイということだった。シレとはシルの受身の形で、「占領される」「支配される」がそのもとの意味である。従って、シレ者とは、何かにとりつかれて、占領されている奴。つまりうつつをぬかしている奴、馬鹿者のこと。シレモノとは、今の言葉でいえばイカレテイル奴ということである。かくて、物事をシルと酔いシレルとの源は一つであったということになる。


すき
もし、「愛する」という言葉を使わないとすると、どんな単語を使うだろうか。普通考えられるのは「好き」「好きだ」という言葉である。現在でも「果物が好きだ」とか、「絵が好きだ」「音楽が好きだ」と使う。「好き」とは、何の理屈もなしに心がそのものの方へ走っていき、そのものを感覚的に喜ぶことである。そこには善悪とか、正邪の判断はなく、ただ純粋な心の喜びだけがある。この「好き」という言葉は、かなり古くから使われているが、平安時代でもやはり基本的には現代と同じである。自分の心が対象に吸い寄せられるように、ひたすらに走っていく、それが「好き」である。

ただ、人間の心は何に向って多く走るかといえば、それは音楽へ、藝能へ、そしてまた、男は女へと走っていく。だから、平安時代に「すきもの」といえば、それはいい女はいないだろうかと探して、歩きまわっている若い男をいうことが多い。

けれども、その言葉は決して「悪い」とか「よくない」とか「いけないことだ」という意味合いを含んでいない。『源氏物語』かげろふの巻に、薫の君が、「あんなに分別のある女の人が、この辺の女の中にいるのだろうか。自分は立ち入って女と深く知り合うことがないから、それが分らないのだ。寝覚めがちに、独りでいないで、すこしはすきも習いたいものだ」と思うけれど、何の手懸りとてもなかった、と書いてある。もし、すきがいけないことであるのなら、実意のある人間である薫に、こんなことを言わせるはずはないであろう。また、音楽を愛好する人間も「すきもの」といわれている。その場合の「すき」は、今日いう「趣味」に近い。

例えば、源頼能という人は、昔のすぐれた人に劣らない「すきの者」であった。玉手のぶちか
信近という人に従って横笛を習った。信近は奈良に住んでいた。頼能は京都から、道の遠さをいとわず、一日置き、二、三日置きに習いに行った。信近は、時には教え、時には教えず、頼能が空しく帰ることもあった。ある時は信近が菰田で虫をはらっていたので、頼能も朝から夕方までそれを手伝った。さて帰ろうとする時、信近は一曲授けた。ある時は豆を刈る所で、一緒に刈った。このようにして頼能は、年下の者に習うことも恥じず、貴賤も問わず訪ねて学んだ。また、笛の名手として名高かった博雅という人の墓を知って、ときどきお参りした。『古今著聞集」の著者は、この話を書いて、最後に「まことによくすきたるゆゑなり」と記している。「趣味に徹していたからである」という意味に考えていいであろう。

もちろん、女を心にかけて歩きまわってばかりいるような若者は「すきずきし」といわれる。これは必ずしも積極的に奨励すべしとされていることではない。さりとて決していけないとされているものでもない。よくないこととされていたのは「すきずきしいこと」ではなくて「すきがましいこと」であった。

「すきがましい」とは何か。この「がましい」というのは、その源がおそらく「やかま
しい」の「かま」である。音をがたがたとうるさく立てることを意味している。従って、「がましい」という言葉がつくと、たいていの言葉の意味が悪くなる。「わざとがまし」ちり「塵がまし」など。

例えば、現代でも「親切がましい」といえば、いかにも親切らしくて、それが押しつけのようで、うるさくて、よくないということを意味している。それと同じように「すきがましい」とは「すきずきしい」のではなくて、いかにもすきらしくうるさくふるまうといったような意味になる。これは歓迎されることでなかった。
当時、平安朝の宮廷で、男と女の仲について、本当によくないこととされたのは「あだあだし」とか「あだなり」という言葉である。「あだ花」という言葉が示すように、「あだ」とは実のならないことを意味している。だから「あだぴと」というのは実のない人をいうのであり、人間的に信頼できない、非難すべきだという意味がその底にこめられている。「源氏物語」の代表的な「あだ人」は匂宮という人物である。当時の社会では、若い男が女を探して歩くことは「すき」として是認されていた。非難さるべきは「あだ」であり、「あだあだしきこと」であり、また「みだりがましい」ことであった。

これまで「すき」を好色と訳すことが多かったが、現代語の「好色」には道徳的な非難の意味が濃くこめられており、「すき」の本来の意味をとらえていない。「すき」は、むしろ当時非常に高く評価されていたものであることを、次の「伊勢物語」の例によって示してみよう。
昔、若い男が一人の女に思いを寄せた。さかしらをする親が、これをさまたげて、自分の娘を他へ移そうとした。その男は親がかりの身なので、女を引きとめる力がない。

女も親の力を拒否することができなかった。とうとう親がこの女を遠くへやった。男は血の涙を流したけれども、女をひきとめることができなかった。耐えることができない男は、別れの歌を読んで息絶えてしまった。親は大いにあわて、将来を思ったからこそ、こんなことをしたのにと、すっかりうろたえ、男が生き返るように願を立てた。日暮れに息絶えて、次の日の夜になって、ようやくのことで、男は息を吹き返した。こう言ったあとで「伊勢物語』の作者は次のような批評を下している。

「昔の若人は、さるすける物思ひをなんしける。今の翁、まさに死なむや」(昔の若人は、そういう一途に心を打ち込んだ、心の純粋な恋をした。今の年寄りたちはどうしてこのように恋に死ぬことなどをしようか)というのである。(「伊勢物語」四十段)
「すける物思ひ」とは、つまり、純粋に打ち込んだ恋ということ。この例を見ても、「すき」という言葉がいかに高い評価を与えられていたかを見ることができよう。これを「好色な物思い」と訳すごときは、全くの誤りであるということができる。

「すき」という言葉は、鎌倉時代以後に至ると、いささかその趣きを変えてくる。平安時代の末から鎌倉時代への大きな変動期に貴族階級は没落し、多くの脱落者を出した。
その中には、権力の側につき従った人たちから軽蔑されながらも、一途に自分の藝術に執着し、自分の純粋な心持を貫いて生きた人々がいた。例えば、西行法師などはその一つの例といえるだろう。

こういう人々を当時「すきもの」というようになったのは、単に平安時代の盛んなころに、いい女はいないかと探して歩く若者を「すきもの」といったのとは、少しその意味が変って来ている。この時代の「すきもの」には、「ものずき」など、人をあざける気持と、同時に、その純粋なものへの執着を貫く一徹さへの畏敬の念とが含まれている。

吉野時代から室町時代になると、日本には商業が次第に発達し、豪勢な成金趣味が一部に強くあらわれてくる。それに対して、歌に生き、茶の湯に生き、学問の道に生きた人々が建てた造り、それが数寄屋造りである。趣味人の趣味に徹して建てた造りという意味である。今日でも、「好きこそものの上手」などといって、好きな道に打ち込むことのできる人間を、うらやむ気持がこめられるのは、「すき」という言葉が、このような歴史を持っているからだということができよう。




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