10億に合わせる60億

海外で見る世界地図は、日本のものと印象が違います。ヨーロッパとアメリカが囲む大西洋が真ん中で、日本はロシアの東側にゆがんだ形で描かれているからです。北海道と思われるひし形に、本州、四国、九州をひとまとめにして、バナナのような島が描かれているだけの場合もある。

世界の子供たちの多くは、このような地図で世界の地理を学んでいる。日本でつくられた地図は、太平洋と日本が真ん中に来るようにデザインされているから、日本人はなかなかこれに気づかない。

中国、韓国、日本の三国の代表者で会議を聞くことがある。醤油と味噌と箸を使い、あいさつにはお辞儀をし、漢字の意味を知っているなど、文化的背景が共通のお隣さん同土だが、国際会議となれば、話すのも書くのも英語、あいさつは握手、打ち上げはワインといった具合に、欧米流になってしまう。

いまのところ欧米流が国際社会のルールになっていて、それに代わるものがないからだ。アジア人が集まってわざわざ欧米人の真似をしている様を、もし地球の外側から宇宙人が見ていたら、さぞかし不思議に思うことだろう。

いまの世界秩序は、欧米流を倣ってつくられてきた。近代科学や思想は欧米から生まれ、明治維新後の日本はこれを必死に受け入れて国をつくったし、終戦後の社会づくりにはアメリカの大きな影響を受けてきた。

中国、韓国も、それぞれ歴史の経緯は異なっても、欧米の影響を大きく受けている。欧米文化にばかり追従する人を「バナナ」と榔捻して呼ぶことがあると、中国大使館で働く中国人が私に教えてくれた。外見は黄色だが、中身は白いという意味だ。

中南米やアフリカの場合は、15世紀の大航海時代以降、世界に進出した欧州列強植民者たちが、武力をもって先住民族の秩序と習慣を根こそぎ壊してしまったので、欧米流をとりあえず受け入れ活用するしかなかった国が多い。ヨーロッパがいまでも世界地図の真ん中に描かれることが多いのも、歴史的に欧米諸国が圧倒的に優勢だったことの名残だ。

国連では英語とフランス語が仕事の言葉になっている。南アメリカにある事務所ならスペイン語が、西アフリカならフランス語がそれぞれ優勢だが、ニューヨークやナイロビではほとんど英語ばかりだ。確かにいま英語は世界のどの空港でも通用する大事な言葉だが、ネイティブ・スピーカーと公用語としての話者を合わせてもせいぜい20億人程度のもので、お尻を叩かれてしかたなく習ってきた人もたくさんいる。

それなのに、オフィスではみんなが英語を使って対等に働かなくてはならない。ルールのほうが不公平なのだが、はたしていまこれに代わる言語、があるのだろうか。

たとえば、ネコにはネコのコミュニケーションのルールがあり、おなかがすいたとき、かまってほしいとき、こわいとき、おこったとき、安心したとき、それぞれ鳴き方が違う。しかし、複雑な国際問題を話し合うのに、国際的に共通だからとまさかネコ語を使うわけにもいかないから、やはりいまのところ英語しかない。

地球全体をひとまとめにして「これがグローパル・スタンダードだ」という流儀は、いまのところ存在しない。みんなが欧米流をとりあえず使っているだけ。

いまの地球には70億の人が住んでいる。このうち、北米と欧州を合わせた人口は10億人くらいだ。これに対し、アジアだけで40億、これにアフリカを加えれば50億になる。 いまの世界の仕組みが欧米流を中心としていることはとりあえず事実だとしても、それは、世界の圧倒的多数の人々が、わずか10億人の人たちの流儀に合わせてあげているだけだ。


日本人に心地良い世界地図を描くために
地球は一つのつながりを持つ系だ。地球温暖化を例に挙げれば、とある国で排出した温室効果、ガスが、世界全体の平均気温の上昇と気候の変化に影響している。2013年フィリピンを襲った台風、アフリカで繰り返される干ばつといった異常気象と、気候変動との因果関係を究明しようと、科学者たちは全力をあげている。そうしている筒にも、海面上昇は進み、小島隣国の中には、国家の存亡の危機に瀕している国もある。

環境問題にかぎったことではない。グローバル化の進展は、食糧、エネルギー、情報、金融といったあらゆるものについて、世界中が密接に結ばれる関係をつくってきた。先のミレニアム中盤以降、今日まで、グローバル化の進展に欧米がリーダーシップをとってきたのは事実だ。世界でよく見る世界地図で、大西洋が真ん中になっているのはこの表れだ。

それは、欧米人が優秀だとか勇気があったためというよりは、彼らがいち早く技術力と経済力、そして武力を手にしたからだろう。外に市場を求めなければならないという切迫感もあったにちがいない。

これに対し非欧米人たちは、よくも悪しくも欧米流を受け止め、身につけ、活用してきたが、それは彼らが欧米流に心まで傾倒しているわけではないだろう。 欧米流の流儀にとりあえず合わせてあげてきているだけだ。

中国はGDPで日本を追い抜き、世界第二の経済大国になった。そんな中国をはじめとする新輿国と欧米先進国の投資家たちが、さまざまな不確定要素を勘案してもなお魅力あるフロンティアとして、いままさに照準を当てているのがアフリカだ。

そのアフリカでは、世界のどこよりも圧倒的に若く、活力があり、国際性では誰にも引けをとらない10億の人々が、グローバル時代の競争に参入してきている。その一方、反欧米を標傍し、そのためには武力行使も辞さない、グループが、数は少ないものの誕生し、この地球のどこかで活動をしている。こうして、100年前には想像もできなかったようなことが、現実になって歴史を刻んでいる。

地球は真ん丸だから、南極を中心に、中国を中心に、あるいは南北上下を逆さまにするなど、いろいろな地図があってもいいはずだ。現に、国連旗には北極から見た世界地図が描かれている。モンゴル、ネパールを、それぞれ一番寒い首都だから、いちばん高い山があるから、という理由で真ん中に据えてもいいかもしれない。このほうがずっと便利で分かりやすいではないか、と示せばいいのだ。

もちろん、言葉、マナー、ものごとの進め方など、自分の流儀が世界でも通用したら、それほど楽なことはないから、これまでのスタイルを続けたい人たちは猛反発するだろう。相手が呑み込みやすいように工夫する。どこまでなら譲れるのか考える。思い通りにはならず、せっかくの提案も変更しなければならないかもしれない。そのかわり相手は、そうか、そういう新しい考えもあったのかと気づくだろう。

グローバル化は、みんなが一つの流儀に合わせることではない。さまざまな信仰や価値観を持つ人々、多様な人種・民族の人々、それぞれが影響されたり影響したりする過程だ。いまゆっくりと、でも着実にその姿を変え始めてきている。



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