海外ではゲーム感覚で論争自体を楽しむ

海外のオフィスでは、現地スタッフ同士が火の出るような論争をしている(テーマは千差万別で、どうでもいいことの場合も多い)。よくこんな情景に遭遇することがあります。

こちらのヒアリング能力をはるかに越えた語彙と速さで言葉がやりとりされ、これはいよいよ止めに入らないといかんかなと思うころ、あっけなく議論は終わり静かに自分の仕事に戻る。

昼休みになると、にこやかに一緒にランチに出ていって、こちらの方が拍子抜けしたりします。彼らは論点については激しくやりあうものの、まれな例外を除いて相手の人格を攻撃したりはしないし、むしろ、ゲーム感覚で論争自体を楽しむところがあります。

テニスでいくら激しく打ち合っても、試合が終われば友情は変わらないのと同じことで、議論の決着がつけば、後はいくらでも仲良くできるわけです。

このあたり、日本人の他人との接し方のパターンはかなり違います。相手のいうことに賛成でなくても、その場で反論や反駁をすることは少ないし、まして、議論や言い争いは極力避けようと努めるのが日本人です。

しかし、そうしてたまった不満や行き違いがある日限界を越えて大爆発すると、お互いの全人格を否定した悪口雑言の投げ付けあいになり、下手をすると殴り合いにもなりかねません。その後は、もちろん口もきかない関係になります。


ワンクッション・コミュニケーション
自治会の会報に次のようなお知らせが載っていました。「ある住民から、近所の家の路上駐車により車庫に車を入れることができなかった、迷惑駐車は絶対やめてほしいと自治会長あてに通知があった。皆さん迷惑駐車はやめましょう」直接、当事者にはいわないで第三者を通して、意図を伝えようとする手法です。

電車の中で喫煙している人に、車掌を通して注意してもらう場合も同様で、これをワンクッション・コミュニケーションと呼んでいいかもしれません。好きな異性に告白することができず、同僚や友人に頼んで伝えてもらうのも、このバリエーションと考えてよいでしょう。

確かに、直接文句をつければ角がたったり、面とむかってのプロポーズではお互いに傷つくことがあるかもしれません。波風を立てまいとするワンクッション技法も、日本人の生活の知恵として十分理解はできるものの、冒頭の例のような上手な「ケンカ」はいつまでたってもできないことになります。

そこでディベートである。この言葉は普通日本では討論とか討議と訳され、内容は相反する二つのチームまたは個人がある論点について争い、第三者がその優劣を判定するゲームとして大方に理解されています。

意味はそのとおりだとして、ディベートの含むところはもう少し広くて深いような気がします。ただ単に相手を言い負かす手法、やり込める術ではなく、インタラクティブ(双方向)なコミュニケーションに役立つ要素が種々含まれているのではないでしょうか。欧米で教育の中に、ディベートが取り入れられていることはすでによく知られています。

日本人は公衆の前で恥をかくことを何より嫌う人間性があります。ベネディクトの菊と刀を持ち出すまでもなく、恥に対する日本人の思い入れは極めて強いのです。

日本には「罪」の意識はなく、あるのは「恥」の意識のみという論者もいるくらいです。従って、議論をした結果負けるという「恥」を背負わないため、いったんそれを始めると引っ込みがつかなくなって、いくところまでいってしまう。

あるいは、間違っても負けましたといわないため、お互いに相手の言い分は無視して、自分の主張だけぶつけあう。かくして議論がかみ合うはずもない討論が、テレビなどでも時にみられることになるのです。



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